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長夜  作者: すのへ
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4 |冥界《夢のなか》



 夢のなかで月村は真奈美をさがしていた。ここで真奈美をさがし当てて連れもどすことができれば真奈美は危地を脱するにちがいない。なんの根拠もなく月村はそう考えた。もっとも夢の中のことである。すべてが混沌としている。

『だいたいどこへ連れもどすというのだ』

 茫漠とした夢の中、いつもならしばらくぼんやりしていると真奈美が現れてくれるのだがきょうはちがった。真奈美はおろか誰も居ず、何もない荒涼とした明るい世界が広がるばかりだ。月村だけがそこに佇んでいた。

 砂漠、野原、山、海、空、雲、樹木、川、そんな自然の風景や建物や線路もなければテーブルもイスもない。月村は途方に暮れて腹を立てた。

『なにもないなんて! おれはやはり踏切で死んで幽体がこうして生前の場所を彷徨っているのではないのか』

 なにもない場所というのは夢でしか体験できないが変なものだ。ただ、夢のなかにいるせいか違和感はない。

『まてよ』

 なにもないなんて言えるからには光はあるわけだ。光があれば色も形も見えるはずだが見あたらない。ではどうして光があることがわかるのか。

『ええい、そんなことより真奈美をさがさねば』

 月村は歩きはじめた。茫漠として歩きにくいところだ。こんなところに真奈美がいるなどとはとても思えなかった。居場所もなにもあったものじゃない。これではどこまで歩いてもなにもないままだろう。歩いても止まっていても同じことだ。実際、物理的に歩いているのかどうかさえ確信が持てない。月村はそれでも足を運んだ。

 すると、なにかが月村の視界にはいった。見たような柄で見覚えのあるかたちのような気がする。月村の足の運びとともにそれはしだいに分明してきた。

 ノアである。かがみこんで丸くなっている。足下になにかいるらしい。まさか真奈美ではないかと月村は足を速めた。

 ノアの背後に近づいてみたが真奈美がいるはずもなかった。そこには穴があった。月村はノアのよこに来て、いっしょに穴を覗きこんだ。ノアはびくっとして月村を振り返ったが、迷惑そうな顔をしただけですぐ穴のほうへ首を戻した。

 穴は木の根元が崩れたような形をしている。腐った根っこが空洞に露呈していた。崩れた木はどうなったのだろう。不審に思いながら月村はノアと同じように穴の奥へ首を伸ばす。猫と同じような体勢をしようとしたが無理が生じ、腕が体を支えきれずにバランスが崩れた。

 月村は頭から真っ逆さまに穴のなかへ落ちた。叫ぶ間もなかったが、なにかが月村の足のほうでわめく。ノアにちがいない。ノアも月村のせいでいっしょに穴に転落したのだ。月村もノアも宙に浮き、穴の底にむかって落ちている。

 月村の体は空気を切り裂き、胃の下あたりが冷たくなってくる。どこまでもこのまま墜落していくのだろうと覚悟をきめた。気流が巻いているのか、ときおり、ふわりと体が持ち上がるようで、そのたびあおられたようにびくっと全身がふるえる。落ちているのか飛翔しているのかわからなくなる。しかし、けっきょくは穴の中ではないかとあらためて周囲に気を配ってみても視線を受けとめるものがない。真っ暗で、ただ落ちたり、飛翔したりする感覚があるだけである。穴とはいえ、広大な空間なのかもしれない。それとも、気がゆるんだ瞬間に地面にたたきつけられるのか。

 緊張がよみがえるとスピード感がいきなり増した。極限の恐怖というものを月村は想像したこともなかったが、この体をいま走るものがそうかもしれないと思った。空気の抵抗が大きくなっていって呼吸もままならず、気が遠くなりかけてもうだめだと月村は観念した。

 そのとき衝撃が頭をつらぬいた。地面ではない何かに衝突したようだった。死んだと月村は思った。そうか、やっぱりあのとき、線路に飛びこんだとき死んだのだ。あまりに急激な死は、こんなふうに日常をすこし彷徨ってから死に至るのだ。そうにちがいない。どこからかはわからないが、生の慣性力がはたらいていたのだろう。その力がいよいよ切れたというわけだ。

 月村はほんの一瞬、幸福だった。本懐を遂げた、そう信じた。

 いまはもう浮遊感だけの体を漂わせながらふと顔をあげた。目に映じるものがあって、それを見た月村は、あ、と息をのんだ。

 真奈美である。真奈美がぼんやりした光のなかで、流れる水に浮いたようにあおむけに横たわっていた。月村は思わず真奈美の名を呼んだ。

「マナミ」

 一度めはそっとたしかめるように、そして二度めは自分でもびっくりするくらい大きな声で。

 反応はなかった。そっと手を伸ばし、その顔に触れてみた。冷たい。月村は続けざまに真奈美を呼んだ。

「マナミ! マナミぃい!」

 反応はない。ふわふわと動きにくかったが真奈美の体を揺すぶってみた。脈を取って心臓に耳をくっつけてみる。自律した動きは感じられなかった。

『死んでいる』

 真奈美が死んでいる、こんなところで。月村はいまさっき衝突した相手は真奈美ではなかったかと思った。自分が真奈美を衝突死させた。

『そんな』

 月村は真奈美の手を握りしめ、深いため息をついた。ふたりはふわふわと漂っていたが、どうかすると互いに離ればなれに流れていきそうなので真奈美の体を引きよせ、両腕でしっかりと抱きしめた。ぞっとするほど冷たかった。どういう引力がはたらいているのか、上になった月村のほうに真奈美の顔が近づいてくる。

 月村は彼女の顔をまじまじと見た。血の気が引いて青白く、凄みを見せるその顔に気後れして目をそらした。

『真奈美を殺してしまった』

 こんなことをしてしまうなんて。もういちど慈愛の表情をその顔の上に読みとろうと月村は真奈美の顔に見入り、きつく両腕で抱きしめた。

 どのくらいの時間が流れただろうか。一瞬か、あるいは何日もそうしていただろうか。月村は恍惚として真奈美をかき抱いたまま浮遊していた。冷たい真奈美の体だったが、月村とひとつに合わさることで月村の体温がうつったのだろう、ほんのりと温かみをたたえるようになっていた。

 混乱する月村の頭が錯覚を起こしたのだろうか。月村は真奈美の体がびくんとふるえたような気がした。はっとしてさらに力をこめて真奈美を抱きしめると、こんどは真奈美の両手が月村の背をゆっくりと、おそるおそる、なぞるように動きはじめた。月村は喜びに打ちふるえ、思わず渾身の力を両の腕に込めた。

『おおおお』

 声にならない声で腹の底で叫ぶと、叫びは下腹をつらぬいて噴出した。真奈美が追いかけるようにおおいかぶさってくる。月村の顔に真奈美の顔がかさなり、月村は恍惚として口をあける。その口のなかへ、するりと入ってくるものがあった。真奈美の舌にちがいない。月村は自分の舌で迎えにいって、生臭さにうっと声をのむ。むせたのどがなにかを吐き出した。

『なんだ、これは』

 宙に浮いてただようそれは、赤くしたたるもので漏れていた。血に塗れたヒルである。

『どういうことだ』

 真奈美を見ると、にっこりと笑う顔はすでに無く、ぽろぽろと表皮が断片になって落ちている。ぎょっとして月村は後ずさった。浮いているので思うように逃げられない。声が追いかけてくる。不鮮明な低い声音だが真奈美の声だ。

「待ちなさい。逃げるな」

 真奈美は月村に迫る。

 のしかかる真奈美の顔のあたりへ、崩れ落ちたものが元へ戻ろうとしていた。その崩れて落ちたものはウジのようだった。無数のウジ虫が蠢動して真奈美の顔をつくろうとしている。

「あさましい」

 月村は肝をつぶし、ふっと意識を失くしかける。

『やっと死ぬのか』

 月村は観念する。ここで死ねば真奈美と同じ世界に住むことができる。それなら本望だ。

 それでも本能の為せる技か、月村は目を閉じないよう抵抗し、遠のいていく自我を引きとめる。そこへ真奈美の声が響く。

「わたしと帰るのよ。どうしてそんな気持ちよさそうに眠るの。起きなさい。もうわたしはもどれないのよ。それともあなた、わたしを残して行くの」

 月村は朦朧としながら自分の意図を告げた。真奈美は元の姿にもどっていた。

「きみの身代わりにおれが死ぬんだ」

 真奈美の甲高い笑い声がつづいた。

「あなた、正気なの」

「正気だ。聞いてくれ。いや確信があったわけじゃないが、もう方法がなかった。きみに死がせまっていることもわかっていたから時間もわずかだ。だから確信もなく賭けたのさ。きみが自力で目覚めるのぞみが遠のいたからには、こうしておれのほうからきみを迎えに来る以外にないじゃないか。すくなくともおれにはほかの考えは思いつかなかった」

 再び真奈美の甲高い笑い声がつづいた。

「あなた、正気じゃないわ」

「正気だ。笑わないでくれ。ほら、実際にこうしておれはきみを、いままさに助けようとしているじゃないか。きみはずっと眠ったままで、医者もとっくに見放していた。ところがいま、おれはここにこうしてきみといるじゃないか。おれの考えはまちがってはいなかったんだ。ただ、まだ成功したとはいえない。このままきみを連れ帰れればいいんだが」

「わたし、あなたの言ってること、よくわからないわ。でも、あなたはわたしを助けようとしているのね。そうね、わたしはずっと眠っていた。たぶん。そんな気がする。いつ目覚めたのかしら」

「まだ眠っているのさ、きっと。あの病院で」

「へんなこと言わないで。わたし、ほら、ここに。こうして、あなたといるじゃない」

 真奈美は月村の手に手を重ねた。その手は冷たくはなかった。

「どこなのかしら。ここは」

「形らしいものが見あたらないからよくわからないな。ほら、浮いてるんだぜ。おれは穴から落ちて来て、ここにいたきみに衝突したんだ」

「そうなの。それでわたし、目が覚めたのかしら」

「いや、昏倒させちゃったのさ。ここでも途方に暮れてきみをずっと抱いていたら、目を覚ましたんだ」

「ねえ、帰るの。でも、どこへ」

「アパートさ。またふたりで、しずかな生活に戻ろう」

「ここでも同じよ。同じようなしずかな生活が、ここでも送れるわ」

「きみはここがどこかさえ知らないんだろ。どうしてそんなことが言えるんだ」

「たしかに見たこともない世界だけど、ほら、さっきからわたしたち、ずいぶんと落ち着いていられるじゃない。悪いところでもなさそうよ、ここ」

 言われてみればそうかもしれない。危険を冒して戻るよりも、いま、ここにある静謐を守っていこうか。それもいい。ここで暮らしていけるのなら、それもふたりだけのしずかな生活を営めるならば、あえて帰る必要もない。

 月村はふらふらと立ちあがった。その手を真奈美である女がにぎっている。月村は目をこらす。ほんとになにもない。もちろんだれもいない。宙に浮いているようだったから地面もなく空らしきものもない。密閉された空間ではないとは言いきれないものの、障壁らしきものはないので、閉じこめられているわけではないのだろう。

 ふしぎなのは光だ。空がわからないから太陽があるかどうかわからない。どこかに光源があるのはたしかだが。それとも空気の粒子が光っているとしたら。

 月村は呆然としてひとまわり首をめぐらしてみる。ふわふわとした綿毛につつまれているような感触だ。

『なんだろう』

 絶望の果てに力なくひれ伏したときの脱力と安堵、汚物にまみれてもういいやと放棄したときの奇妙な安堵感、そんなものがここに漂っている。

 月村の頭をアパートでの暮らしがよぎる。あのころと同じ暮らしと言わないまでも本質的に似たようなものなら、それでかまわないと月村は思った。世間からなるべく隔絶した、ふたりだけのとくべつな時間がながれるところならば、どこでもいいではないか。あとは、これでノアでもいれば。真奈美も同じことを思ったらしい。

「ねえ、そういえばノアちゃんは。どうしてるのかしら」

 そう言いながら真奈美は月村を見あげていた目を、さらに遠くへ向けた。なにかをみつけたらしい。

「あれノアちゃんじゃないの」

「え」

 月村が首をひねろうとしたとき、真奈美の叫び声が耳をつらぬき、月村は反射的に首をすくめた。

「きゃあああああ」

 次の瞬間、ものすごい声とともに月村は頭部にはげしい衝撃を受けてもんどり打って倒れた。

「ぐふ」

 穴の底をのぞきこんで落ちたときノアを足で引っかけていっしょに落ちたのだ。

『落ちてくるのがずいぶんと遅かったな、おかげで』

 そう言いかけたとき、月村の意識は一挙に遠ざかった。

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