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長夜  作者: すのへ
3/9

3 |三途川《さんずのかわ》



 面会時間には間があったが通院患者用のエレベーターから病室に入った。入院患者の朝食の片づけや回診で廊下があわただしい。おかげでだれにもとがめられずに病室にたどりつくことができた。窓際の真奈美のベッドはきのうまでとなんら変わるところはない。仕切りのカーテンをあけてベッドに近寄ると真奈美の顔色はけっしてわるくない。きのうよりいいようにさえ見える。

『きょうこそ目覚めるのではないか』

 月村は昨夜からの心配などすっかり忘れて新たな希望に我を忘れる。

 忘我の境地でじっとどんな小さな変貌でも見のがすまいと微動だにせず、真奈美に神経を集中した。顔をかたむけ片ほうの耳をそばだてて奇跡がそこに現れるのをひたすら待った。

 朝の時間はゆっくりと流れた。いつもと同じ希望に満ちた朝の時間である。ただ、あまり眠らなかったせいか緊張感がいつになく強い。感覚が研ぎ澄まされ、視覚も聴覚もより鋭敏になっている。月村の網膜には、真奈美の顔や手に、汗や脂が浮き出るさまや、細胞組織の代謝のようすなどが逐一映し出され、刻一刻と移ろう真奈美の容貌の変化が知覚された。また、真奈美の心臓をはじめとする臓器の活動する音や血流のせせらぎ、神経系統の伝播物質の擦過音までが耳にとどいた。

 情報があふれて支えきれず、月村は何度も気を失いそうになった。ときには情報のそれぞれがあまりに強いために、真奈美という本体を離れて臓器や血管が別個に存在しているような錯覚を覚えた。統一性を欠いた器官のはたらきはロボットの各部品のそれにひとしく、それならば故障している個所を特定し、交換することもできるのではないかと月村は思った。新しい部品を組みこめば真奈美はまた晴々とした顔でよみがえるのだ。

『医者はなぜそうしないのだろう』

 ああ、そうか。医者は機械部品のあつかいに慣れていないのだ。それなら整備のできる技師を呼ぼう。月村は立ちあがりかけてためらう。

『待て。真奈美は機械ではない』

 月村は気を取りなおしてまた真奈美のほうにかがみこむ。

 ゆっくりと流れてはいても時は確実にすぎる。全神経を集中させる月村の前で、真奈美はかすかな呼吸のまま眠りつづけ、朝の希望が終わりを告げる時刻をむかえた。天井に映る陽が月村の頭部をかすめて不意に落ちてきた。その微妙な光が真奈美の額のあたりで影を形成する。その影を月村は見逃さなかった。

『あ』

 それは、なんら変哲のない影だった。眉と皮膚の凹凸が陰影を描き出しているにすぎない。しかし月村の病みつつある精神は、そこになにかの予兆を見てとった。昨夜から月村の頭を支配していた観念が、真奈美の額の上に現実のしるしとなって現れたのだ。月村は愕然とし絶望する。それはまぎれもない死である。死にちがいない。

『ああ、すでに死が真奈美をおとずれている』

 配膳のあわただしい周囲をよそに、月村は微動だにしなかった。すでになすべきことを前に、じっと耐えて最終的な思案をしていた。死はもう明るい光そのものとなった。光に魅入られた月村は放心し、午後の時間がのろのろと過ぎていった。

「月村さん」

 検温に来た看護師に声をかけられたのはもう夕刻に近かった。月村ははっとし、真奈美から目をあげて立ちあがった。希望のある死という考えが月村をみちびいた。



 月村は自殺の名所として有名な踏切に来ていた。この踏切では半年に一度はかならず飛びこみがある。踏切の前に立つと、その気になっているせいか物凄い心持ちがする。まだ高かった陽は傾き、暮れかけた小さな踏切はときおりクルマや自転車、歩きの買い物客が通るだけで物静かな佇まいだった。しかし、なにかに誘いこまれるような力が踏切にはみなぎっていた。

『ここで』

 月村はそう心を決め、タイミングを計って遮断機にすっと寄って行った。各駅停車が行ったばかりだから次は急行か特急である。カーブになっているので運転席からの見通しはよくない。踏切内への侵入は遠くからでは見えないだろう。発見が遅れればそれだけブレーキは遅れ、しくじらないで済む。

 月村は冷静にあたりをうかがう。睡眠不足と空腹のせいで神経が研ぎ澄まされ、人や風景が気味わるいほど鮮明に見えた。ついたばかりの街灯が向こうの街路で飛び跳ねている。どこからか真白い光がやって来て目をくらます。クルマのヘッドライトだ。あんなにゆっくりと通り過ぎていくものだろうか。人や街の細部の輪郭がくっきりと見える。この世界が一瞬にして凍り付く。月村は定めかねていた一歩を踏み下ろした。

『来た。特急だ』

 捨て身のダイビングで身を投げようと思ったが実際にはすっと遮断機をくぐって線路内に踏み入っただけだった。脚が竦んでいる。鉄のレールの間で足が止まった。電車の前照灯が薄暮のなかから現れ、光が体の側面からつらぬいた。動けない。首を振ったら視線にぶつかった。他者を感じさせない目、その目はいままさに跳ね飛ばされようとしていた。

『おれだ。電車に跳ね飛ばされるおれをおれが見ている』

 鉄が軋む擦過音が空気を一変させた。警笛が耳を聾し、叫ぶ声が月村の口から迸っている。喚声が踏切を包む。

「ぎゃあああああ」

「ギイイイイイイ」

 目の前で電車の車輪が軋んで月村の足が震えた。道路が揺れている。急ブレーキをかけた車両が目の前を通過していく。強い機械油の臭いが充満したかと思うと異臭がどっと襲いかかってきた。月村は自分が踏切を入ったところで立ち尽くしているのをあらためて認識した。

『なんだ』

 月村は混乱した。いま跳ね飛ばされたはずなのに。それとも跳ね飛ばされた車体に巻き込まれてすでに死んだ自分が、幽体離脱して自分の死のありさまを見ているのだろうか。月村はおそるおそる目をまわりに向けてみた。遮断機は下りたままで急ブレーキの電車がいましがた停止したところだ。騒ぐ声が車内からも聞こえる。踏切の警報音に鳴り続ける電車の警笛が異常を増幅させていた。

「自殺か」

「どこだ」

 月村の視界には人身事故に直面した周囲の反応が展開されていく。自分の体に触れてみると実体が感じられる。何より地面に足をしっかりとおろしている。幽体なら浮いていなきゃ変だ。

『おれじゃない。誰かが先に飛び込んだんだ』

 まもなく救急車やパトカー、消防車の何台もの慌ただしい音が間近に迫ってきた。月村の背筋に冷たいものが走った。恐怖が襲い、脚が震える。月村はやっとの思いで遮断機をくぐり人垣をかきわけてその場を離れた。離人感が異様に強く感じられた。

 月村はアパートへの道を急いだ。魂の抜けた月村をノアが路地の入り口で迎えた。月村は足を止め、その場にしゃがみこんでノアの頭をなでた。細くしなやかな猫の毛の一本一本が指先を包みこむ。夜の闇に光る目を見て、不意に月村は涙をこぼした。ノアとともに暗い部屋にたどりつくと灯りもつけずにベッドにもぐりこんだ。

 目を閉じると踏切での光景がよみがえる。死を前にした目がこちらを見ていた。その目は月村自身の目だった。生を粉微塵にする圧倒的な力があの目を粉砕した。

 月村の憔悴しきった頭はひたすら睡眠を求めた。しかし月村は死にきれなかったことと、まだ生きていることの二重のショックに打ちのめされていた。そこへ行動の端緒となった真奈美の顔にあらわれた死の相が思い出された。

 こうしている間にも真奈美は死のほうへ移行しているのではないか。容態が変われば病院から連絡があるはずだが、その前に真奈美を救いたい。身代わりにはなれなかったが、どうにかして真奈美を救いたい。

 路地からの淡い光にハンモックが揺れた。ノアがぱっと跳んで月村のベッドにどすんと落ちたのだ。月村は呻き声をあげる。腹の上にまともに猫が降りたからだ。ノアはかまわず月村の顔のほうに上ってきた。かっと見開いた月村の目にノアの顔がぬっと現れた。敵意はないらしいが猫に見下ろされるのは気持ちのいいものではない。そのまましばらく月村の顔を見据えてから、胸の上に乗ったまま丸くなった。眠るらしい。月村は真奈美がいまにも息絶えると思うと気が気でならず、すぐにも病院へ飛んでいきたかったが、これでは動けない。ふっと気がぬけた瞬間、体が眠るのを命じた。月村は眠りに落ちた。

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