2 三界
*
病院を出るころには月村は絶望に打ちのめされながらも淡い希望を胸に抱いている。その希望にすがりつかないと一歩もあるけないのだ。しかし、その希望はとても小さくて、そのままではあすの朝どころか、アパートにたどり着く前に消滅してしまいそうだ。だから遅い夕食もかねて居酒屋に寄る。小さな希望を増幅させるには酒の力を借りるのが手っとり早い。
「へい。いらっしゃーい」
「冷酒を」
月村は冷えたグラスをもちあげ、くいとあおる。香りが鼻腔にひろがる。指でちょいちょい摘まめるものを並べてもらう。片手にグラスを持って気の向くまま指を走らせる。
「おかわりを」
「へい。お待ち!」
呑めばしゃべりたくなる。日がな一日、苦行のようにほとんど口をきかずにすごすのだから酔いによる自然な欲求である。しかし相手はいない。相手がいなければ会話は成立しない。ふつうなら自制するところだがきょうは真奈美の夢の余韻もあってかまわず口をひらく。
「だからさ希望は捨ててない。医者の言うことなんざ糞食らえだ」
そこが病院の近くの居酒屋だったなら、不幸にも居合わせてしまったかつての同僚や部下たちが話相手になってくれたかもしれない。だがここは病院から少し歩いた見知らぬ街の赤提灯である。テーブル席がいくつかのこぢんまりとした店内は、常連客同士のひっそりとした話し声が絶えず流れているので、小声での独り言などだれも気に留めない。
「きょうも予兆はなかった。けど血色が良いように見えたのさ」
その夜、月村は必要を感じて自分に言い聞かせるため、ことさらに真奈美の現在の病状について思い出しては口にした。カウンター席の端っこなのでだれにも聞かれる気遣いはない。そのはずなのだが、しばらくするとだれかが耳をかたむけている気配がする。月村はぎょっとして壁のほうを見る。
だれもいない。
月村は頭を強くふって向き直り、冷酒をおかわりする。
すると袖をからげたバアさんがいきなり横から現れて「あいよ」と一升瓶をかたむける。
「いや、冷酒なんだけど」
枡にこぼれた酒がさらにカウンターにあふれる。
「あらま、ごめんよ。あんた、奥さんきっとよくなるよ」
バアさんに聞かれてしまったらしい。月村は目をそらせて口をつぐみ、コップに口を寄せる。喉から食道へ酒が流れたとき、月村はふとバアさんの言葉とは裏腹に真奈美はもうよくならないのではという予感がした。
たしかに医者は真奈美の意識が戻る可能性を否定してはいなかったが、もう可能な限りの手は尽くしたのだ。けっきょく、あとは祈るしかないわけだから、真奈美はすでに医者とはかかわりのない世界にいることになる。
『ああ、なんでこんなことに』
月村はカウンターに顔を伏せ、両手で頭をかかえこんだ。
もしものことがあったらどうしよう。とても生きてはいられないだろうと月村は思う。真奈美の死に直面するくらいなら、いっそのこと先に死んでしまおう。なにより悲しまなくてすむし、自分が身代わりになることで真奈美が助かるかもしれないではないか。真奈美が助かってその代わりに死ぬことができれば本望だ。少なくとも身代わりに死ぬのなら無駄死にではないし、真奈美の覚醒を望みながら希望のうちに死ぬことができる。自分が死んでしまえばなにが希望かとも思うが、しかし、真奈美にもしものことがあれば希望どころか絶望と孤独にさいなまれて死に臨むことになるだろう。どちらも同じ、死にはかわりない。だが、いまならどちらか受け容れやすいほうをえらぶことができる。真奈美が死んだら最後、選択の余地はなくなり、残されるのは意味のない死である。
意味のない死。
せめて死にはなにかしら意味があると思いたい。
月村はとりとめもなくそんなことを考えながらコップ酒をあおった。やがて、ぐらりと地面がゆれた。
「わぁ」
月村は叫んでイスから落ちた。床が消えて漆黒の闇になり、まっさかさまに墜落する。加速がついてどこまでも落ちそうで月村は恐慌におちいった。
「だめだ! うう」
腹の底から我知らず叫んでいた。声さえ響かない暗闇に意識もろとも吸いこまれたとき、こんどは体がぐらぐら揺れた。
「おい! しっかりしな」
月村の肩をゆすぶっている者がいる。月村ははっと目を覚ました。客の一人が心配そうに月村をのぞきこんでいた。
「だいじょうぶです。飲みすぎたらしい」
「おどかすなよ。死にそうな声出してたぜ」
月村は死にそうな声と聞いて苦笑し、助けられながらイスに寄りかかって体を起こす。目が回っている。
「タクシー呼ぼうか。それとも救急車」
バアさんが黒電話の受話器を手にカウンターから出て月村をのぞきこんでいた。月村は気まずそうに手をふった。
*
その夜は月村はハンモックではなくベッドにもぐりこんだ。真奈美が入院して以来ずっと、ベッドはいつ真奈美が帰ってきてもすぐ寝られるようにしてあった。シーツは新しいものに換えパジャマも用意してある。ときおりカーテンをあけてベッド全体に陽が当たるようにもした。それが、なんの気なしに月村はその夜、ベッドに入って眠った。
月村はすぐに眠りに引きこまれたが、明け方ごろ目が覚めた。うす闇の宙空でハンモックがゆれている。ぎょっとしたがすぐにノアだとわかった。
頭が重く猛烈にのどが渇いていた。月村はベッドから出て水を飲み、テーブルの向こうにまわってすわる。カーテンのすきまには夜明けの光が映りこんでいた。月村は壁と天井の境あたりをあおぎ見て大きなため息をつく。
『真奈美は幸せだったろうか』
月村は自問する。駆け落ち同然にいっしょになったから結婚式もろくにあげていない。どちらの親族とも無縁である。さすがに今回のケースは知らせねばならないなと月村は思う。
『どのみち真奈美が死んだら自分も絶望のあまり死ぬのだ』
死ぬ。
コップの水面がゆれた。地震かと月村は照明灯を見あげたが、スイッチのヒモは微動だにしていない。自分の手がふるえていたのだ。それほど死がせまっているとすれば決断を急がねばならない。こみあげてくるものに耐えきれず、わ、と顔を伏せたとき、どんと音がしてノアが足下に来る。霞のような薄暗がりに溶け込んだ黒猫は目だけ妖しく光っていた。手を差し出すとゴロゴロと顎をすり寄せる。
『ノアをどうしよう』
月村はノアを撫でながら思い悩む。ただ、この猫は今でこそこの部屋に入り浸っているが、元ノラで出入りは自由、何日か帰らないこともあるので心配は要らないだろう。
「ぬああああ」
ノアがめずらしく鳴いた。猫のくせになにかを察知しているのかもしれない。月村はまだ時間が早いが猫の食餌を用意してやった。しかしノアは気のないふうで見向きもせずにベッドの上で丸くなっている。
すっかり夜が明けた。月村はそのまま部屋を出て病院へ向かう。もうコーヒーショップには寄らず、病院に直行した。