表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
長夜  作者: すのへ
1/9

1 |黄泉比良坂《よもつひらさか》


長夜何ぞ冥冥たる、一たび往けば復た還らず

―曹植『三良』より

 (『文選』巻二十一所収 *長夜=常夜、常世、黄泉国)

黄泉比良坂(よもつひらさか)


 真奈美がとつぜん倒れた。月村はおどろいて彼女を抱きかかえ、大声で呼んだが、やがてその目はしずかに閉じられた。顔から血の気が失せ、手も足も青白くなっていった。重い雲がたれこめる春の終わりの朝のことだった。

 月村は救急車のなかで救命士の指示にしたがいながら、突然死症候群かもしれないと考えていた。心臓や脳に血栓あるいは出血を来して倒れ、原因不明のまま息絶える。そんな症例が話題になっていた。

『まさか真奈美も』

 彼女は集中治療室で応急の処置を受け、きょうのところは一命は取り留めた。担当の医師は突発性脳障害、心機能低下などの症状が見られるが原因は精密検査をしてみなければわからない、ただ、今は治療に専念すべきだと言った。

「倒れる前、なにか変わったことはありませんでしたか」

 月村はもういちど、真奈美が気を失っていくありさまを思い浮かべたが、朝からふだんどおりで、低気圧が来ているせいかすこし頭が重いとは言っていた。しかし、それはいつものことだった。

「そうですか。とにかくしばらくようすをみましょう。いまのところ命に別状はありません。意識が戻ればよいのですが」

 月村は途方に暮れた。医者が言うには真奈美はこのまま目覚めないことも可能性としてはあるという。

「そんな」

 失意のなかで月村は真奈美が意識を回復するまで寄り添うことを決意する。 

 仕事は辞めたばかりで、新たな職を探しているところだ。幸い真奈美が両親から譲り受けた不動産から定期収入が入り、貯金の切り崩しもできる。時間はすべて真奈美のために使えるのだ。



 だが、月村の願いむなしく、真奈美は昏睡から覚めることはなかった。入院した数日後には心なしか血色がよくなったように見えたが、それは栄養剤などの点滴による効果にすぎなかった。夏を予感させる光が真奈美の瞼や頬、紅のない唇、鼻梁に生気をあたえる。彼女が生きている証だ。

 病院は完全看護なので泊まり込むことはできない。どのみち月村は猫の給餌もしなければならないので夜はアパートに帰り、早朝、猫に餌を与えてから病院へ向かった。面会時間までの数時間はコーヒーショップやコンビニのイートインで時間をすごした。

 大きなカウンターテーブルがあいていればそこに席をとった。新聞や本を読むでもなく月村はじっと耐えるように目を伏せていたり、陽の降りそそぐ街路をみつめていた。

 時間が光のなかを流れていくのが目に見えるようだった。その時間の流れの外へ真奈美は行ってしまうのだろうか。いやもうすでに意識はないのだ。はたから見ればたしかに息をしてはいるが、真奈美にしてみれば死んでいるのとどうちがいがあるのか。しかし、目覚めさえすれば彼女はこの時間を取りもどすことができる。

 真奈美の入院先は月村がかつて勤めていた会社の駅に近い大学病院である。

「やあ月村さん」

 そう月村に声をかける者もあった。解雇された会社の同僚や後輩たちだ。月村は愛想笑いも浮かべず、うなずくだけで自分の時間に戻る。声をかけた者はそのようすで月村がまだ再就職も決まらず、浮かない顔で街をさ迷っているのだと決めてかかる。同情する者もいる。しかし月村はもう別の世界にいたのでどんな声にも隔たりを感じていた。

 面会時間が始まる二十分前には席を立ち、病院へ向かう。月村にとって朝の時間は希望に満ちていた。きょうこそ彼女は目覚めるかもしれない。それは奇跡などではなく、もっと早く起きねばならなかったのに、ただ遅れていただけなのだ。

『だからきょうにも真奈美は目覚めるにちがいない』

 エレベーターで病室に向かいながら月村は真奈美の目覚めを確信するまでに至る。日毎にその確信は強くなっていき、きのうの朝とは明らかにちがう予感に体がふるえるのだった。



 病室に入る月村の目には真奈美以外のものはなにも入らない。月村はまず真奈美が起きあがっているか、すくなくとも顔をこちらに向け、感動を抑えきれないまなざしで自分を迎えてくれると想像している。あと二歩歩けば真奈美の顔がパッと輝く瞬間に出会い、歓喜に小躍りする自分がそこにいるのだ。

 しかし廊下から病室に入ると仕切りのカーテンの向こうに真奈美がきのうと同じ寝姿で横たわっているのが見えてしまう。

 それでも月村は落胆しない。点滴のチューブに気をつけながら真奈美の手をさすり、ときにはそっと体をふいたり、脚をもんでやったりし、たしかな真奈美の生気に午前中いっぱい月村の希望は持続する。ベッドのかたわらでじっと息をつめて真奈美の呼吸に耳をすます。目覚めるまぎわにはきっと彼女の呼吸は大きくなるだろう。胸が大きく波をうち、苦しげに目元をゆがめて頭をそらし、静止したのち、ゆっくりと両方の目がひらくはずだ。

 そのときを今か今かと待ち、やがて月村はみじろぎもしなくなる。朝の清冽な空気がすでに重さを増し、光もやわらかくなっているころだ。月村はふと考える。

『真奈美よりも先に時間の流れの外へ出てしまおうか』

 時間の流れの外へ出てそこで真奈美を待ちうけるのだ。そうして真奈美を連れ帰ったほうが早道なのではないか。馬鹿げた考えだとおぼろげに思う。荒唐無稽に走りがちな思考を月村は制御できない。

 廊下に昼食の配膳車がやって来るころ、月村のはりつめた緊張の糸が極限に達し、ぷつんと切れる。深いため息がもれ、はっと気がついて月村は我に帰る。真奈美しか見えていなかったその目に、外の世界が押し寄せてくる。

 にわかに病室の内も外もあわただしくなる。賄いの人たちが忙しくお膳を運び、それぞれベッドにセットされたテーブルに手際よく食器をならべている。もちろん真奈美の分はない。彼女のベッド用テーブルはタオルやティッシュペーパーの箱が占領したままだ。

 月村の希望は昼を境に朝顔の花がしぼんでいくようにしおしおになり、言いようのない不安がおそってくる。月村は頭をかかえ、うなだれて足下に視線を落とす。気が遠くなって意識が遠ざかり、頭が大きくぐらりと揺れるころ、月村ははっとして顔をあげる。午前中いっぱい極度に神経を張りつめていたのだから腹の減りぐあいも激しい。体力をととのえておかないと、これからの長い午後をのりきることができない。お昼を食べに行こうと月村は立ちあがる。

 病院の食堂は最上階にある。ラウンジも兼ねた広いフロアは中央に厨房があり、四方が大きな窓で景観は抜群である。そのせいか夕方にはカップルの姿も散見される。お昼は通院患者や見舞客で混んでいる。月村は毎日ここで昼食をとる。混雑をさけてやや遅い時間に行き、窓際の席にすわる。張り出した窓から下をのぞくと遙かに歩道が見える。真上から見る人間の姿はほとんど頭だけになるので丸い毛のかたまりが往来しているように見える。さすがに三十六階ともなると超現実的な風景である。ふと、ここから跳びたい、飛んでみたいという気にさせられる。月村はいつものように墜落する自分を思い浮かべながら蕎麦をすする。



 病室にもどると月村の長い午後がはじまる。午後には希望がない。真奈美が目覚めるのは朝にちがいないと、なんの根拠もなく月村は信じている。だから午後になれば希望はなく、植物状態に閉じこもる真奈美という耐えがたい現実に向き合わねばならない。そんな午後の時間に月村が楽しみにしていることがあった。

 入院患者の食事が済んで食器が片づけられ、廊下の配膳車が専用の大型エレベータに姿を消すころから病院は緊張がゆるみはじめ、そのピークがおとずれるとき、月村はしばしまどろみ、かならず短い夢を見るのだ。

 なんの変哲もない夢である。日ごろの生活の断片で構成されることが多い。夢のなかにときおり真奈美がやってくる。月村にとって至福のときである。過去の引き写しではなく、彼女はいつも新しいシーンで、新しい会話を展開する。いっしょに過ごした時間がそのままつづいているようだった。

 きょうも月村は真奈美の顔をながめながら夢を期待しているうち、彼女の弱々しい呼吸のリズムに引きこまれるように眠りに落ちた。

 ベッドの上に真奈美が全裸ですわっていた。これはいかんと月村は夢の中なのに仕切りのカーテンをあわてて引くのだった。しかし、次の場面では月村はすでに下着をぬいで真奈美にかさなっていた。真奈美の悦楽の声が耳元で聞こえた。あまりに声が大きいので、まわりの患者たちに気取られるのではと心配になり、自分の口で真奈美の口をふさいだりした。ことが終わると真奈美はあおむけになったまま口をひらいた。

「ひさしぶりだったわ。でももうこれがさいごになる。わたし、行かなければならないの」

「え、なにを言ってるんだ。そんなことさせやしない」

「さからえないわ、だれにも」

「いいや、力づくででも」

「そういうことじゃないのよ」

「なんだっていいさ。きみを守る」

「そう。けど、ノアちゃんのことお願いね」

「なんだってそんなことを。きみが元気になって猫の世話をしてやればいい。おれはもともと猫が苦手なんだ」

「そんなこと言わないで。めんどうみてあげて」

「ほんとによしてくれ。きみがこんなことになるとは」

「いいの。でも、わたしのこと忘れないで。さよならは言わない」

 月村が真奈美を見ようと体をねじまげたとたん、ぐいと引っぱられるような感覚があって、いきなり目が覚めた。

「はっ」

 月村は大きな声を出していた。目の前には真奈美の脚があったので月村はほっとする。真奈美はあいかわらず気道や鼻にチューブを挿されたまま目を閉じている。変化はなにも感じられない。月村はそっと真奈美の脚を毛布の下に入れてやる。パジャマのすそからさわった足首はほんのり温かく感じられた。

 陽が沈むころ夕食の配膳でまた病室の内も外もにぎやかになる。昼食のときもそうだが食事のしたくのとき、自分たちが世間と隔絶されていることを月村は強く意識した。真奈美は食事もできなくて、ヒトよりもむしろモノに近い。真奈美の意識がきょうももどらなかったことで絶望感もピークを迎える。看護師たちもそんな月村のようすを察して声はかけない。黙々と機器類の調整やチューブ交換、体温測定を型どおりに済ましていく。

 夜になると月村の気持ちはやや上向いてくる。真奈美がきょう目覚めなかったのはすでに終わったこととして、あすこそはきっと意識がもどると月村は自分に言い聞かせる。新たな希望を無理矢理にはぐくむのだ。蛍光灯の白々とした明かりの下、こもるようなテレビの音声を聞きながら月村は消灯時間になるまで彼女のそばをはなれない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ