美しい景色にさよならを
「そうだ、最期にあの景色を見に行こう」と彼女は思い立った。
この際、見たことのない絶景と歌われる景色に触れることよりも、自分の思い入れのある景色の方が良いと判断した。
自分自身を探し彷徨う旅に出た。
ただ近所の道を歩くだけで蘇る。
あの人と歩いた道、行った場所、交わした言葉、見つめ合った表情、その全てが鮮明に思い出される。
まだ目的地についていないのに、もうこんなにもたくさんの思い出の数に浸ることが出来た。
彼女は淡い笑みを零す。
到着が楽しみだ。
やがて彼女は目的地に辿り着く。
景観の美しさ、ではなく思い出に心を奪われる。
幸せだった当時の思い出を並べて触れては涙を溢した。
もう、自分が手に入れられない物だと──。
その滝に来たあの日を思い出していた。
幸せだった日々、確かな愛があった日々、今までの苦労も笑えるぐらい充実していた日々。
それが今は、ここにはない。
『写真撮るか』
『可愛く写ってるじゃん。永久保存!』
『この後どこで遊ぶ? お前が行きたいとこならどこでも楽しいよ』
『いつもありがとう。急に言いたくなった』
『信じてくれ、目移りなんてしないからさ』
『好きだよ、愛してるよ』
『一生一緒にいよう』
信じたあの夢は、最後まで信じさせることを許さなかった。
今となってはもうあの言葉が真実か否か、確かめる術もないしそんなことは望んでいない。
ただ、願うならば。
「ずっと夢に浸らせてほしかった」
輝かしい思い出も、懐かしくて微笑ましい気持ちと同時に、痛みと化する。
嘘で良かった。裏切られてても良かった。
彼女にはあの人のみが生き甲斐だった。それが例え作り上げられた虚像でも、彼女は構わなかった。
薄々気づいてもいた。そう不安になる時にあの人はいつも言う。
笑顔でこちらの心臓を鷲掴みにする素敵な言葉を。
嘘でもいいから、その言葉に、その笑顔に、その態度に、ずっと浸っていたかった。
それさえも許されないのか。
それなら……彼女は唇を微かに歪める。
あの人の思い出に浸って消えることが、自分に残されたことだ。
『大丈夫だよ、信じてくれ、絶対幸せにするから』
「絶対だよ、絶対幸せにして」
『もちろんだ。だってお前が好きなんだもん』
「私も好き」
『だからさ、こっちに来いよ、一緒に居よう』
「一緒に居たいよ、そっちに行けばいいの?」
『うん。早く来なよ』
目の前にあの人がいる気がする。微笑んでる気がする。呼ばれてる気がする。
彼女は残影に向かって手を伸ばす。
これは、嘘だ。分かっていながらも笑みを浮かべる。
これでいい、最後に浸れてよかった──。
地面の感覚が、消えた。
『愛してる──』
あの人の声が、耳に溶けていく。
「私もよ……」
彼女の意識は、あの人の元へ飛び去った。
自分が死ぬことを隠していた彼へのささやかな報復。
傷の痛みを埋めるための夢へ浸った最期。
滝は、水しぶきをあげ、静かに輝いていた──。
「ああ……」
少女は感嘆する。
彼女の死を目の前で見て、感嘆のあまりに涙を流す。
「大変……美しい死に方ですね……」
ふらりと、欄干に手をかける。
「勇気をくれてありがとうございます……」
滝の下を覗き込む。
「最後に……美しい物を見せてくれて」
──ありがとうございます。
魂に刻み込まれるような音が響き、滝は水しぶきをあげた。