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後編

今日中に処理をしなければならない決済を終えたアナベルが遅い昼食を済ませたころ、家令から来客が告げられた。

「どなた?」

「ハワード侯爵令息様です」

「イザベラは起きてるわね?今日は夜会がないから着替えもすんでいるでしょうし、すぐに呼んで頂戴。侯爵令息様はサロンにお通しするように」

「それが、イザベラ様ではなくアナベル様にお会いしたい、と」

「わたしに?」

いったい彼が自分に何の用があるというのか。

先日の夜会、イザベラは会場に着いてすぐ、彼とは別々に過ごしたと言っていたし、現に彼女を屋敷まで送ってきたのは侯爵家の馬車ではなかったと報告を受けている。一緒にいたのでないのならイザベラが無作法をはたらいたとも思えないが、行きの馬車での移動という短い時間の間にやらかしたのか。

だとしても、正式にクレームをあげるなら自分ではなく、当主であるバーネット伯に言うべきだ。

彼の訪問の意図が分からないアナベルではあったが、長く待たせるのは失礼だと判断し、急いで玄関ホールへと向かった。


「ごきげんよう、ハワード侯爵令息様」

「ごきげんよう、アナベル嬢」

エリックはにこやかな笑みを浮かべ、アナベルの挨拶に応じた。

「わたくしにご用があると伺いましたが、なにかございましたでしょうか」

「先日、またお会いしたいと申しました。お忘れですか?」

そう言われ、アナベルは、いいえ、と言葉少なく応じたが内心では、あれは社交辞令ではなかったのかと驚いていた。

どうしたものかと迷ったが、ここで立ち話をするわけにもいかないし、かといってサロンもどうかと思い、結局、庭園に案内することにした。

「庭園の花が見ごろですの。そちらにお茶を用意させますのでいかがでしょうか」

アナベルの言葉にエリックは、是非、と賛成した。

なんだかおかしなことになったと思いつつ、アナベルはエリックに庭を案内し、メイドたちがお茶の用意を整えた頃合いを見計らって、その場所に向かった。

しかし、そこには先客がいて、

「エリック様、会いに来てくださるなんて嬉しいわ」

イザベラが美しい笑みでエリックとアナベルを出迎えたのであった。

「イザベラ嬢、お邪魔しています」

エリックはイザベラの手を取り、その指先に軽く唇をふれた。その挨拶を当然のように受け取ったイザベラは言う。

「お手紙をくだされば、わたくしのほうから参りましたのに」

イザベラの言葉にエリックはあいまいな微笑みで応じ、なにも言わない。

「立ち話もなんですから、どうぞおかけになって」

イザベラがエリックに席を勧めたところで、アナベルは彼女に後をまかせ、その場を離れることにした。

午後の書類はもう執務室に入っているはずだ。今日中に片付けておかないと、明日の業務に支障をきたす。幸い、今日はバーネット伯は登城しており、いつ帰ってくるかわからないため、晩餐は中止になっている。就寝時間までたっぷりと時間があるのだから、遅れを取り戻すことはできるはずだ。

「では、わたくしはこれで失礼いたします。イザベラ、あとをお願いします」

「え、アナベル嬢?」

エリックの上げた声にかぶせるようにイザベラが言った。

「お姉様には仕事がありますものね。エリック様のお相手はわたくしがしますわ」

アナベルはお辞儀(カーテシー)をし、ふたりを残して執務室に向かった。


思ったより早く処理が終わり、久しぶりにゆっくり食事ができると気分よく片づけをしていたアナベルの元に、イザベラがやってきた。

「これ、お姉様に渡せってエリック様が」

「まぁ、なにかしら」

アナベルは受け取った封筒に首をかしげているがイザベラは執務室のソファにドカリと行儀悪く座り、

「知ってるわけないでしょ。あれからすぐに、急用を思い出したって帰っちゃったんだから」

と口をとがらせている。

思い通りにならないと怒りを見せるのはイザベラの常だった為、アナベルは気にせず、封筒の中身を確認した。

そこには彼からのメッセージと、一枚のチケットが入っていた。

『よろしければご一緒にいかがですか?』

「これ、大人気のオペラのチケットじゃない!」

封筒の中身をのぞきこんだイザベラは素早くそれを奪い取った。

「しかもボックス席よ、すごいわ。チケットだってなかなか手に入らないのに」

さすが侯爵様は違うわね、とイザベラの鼻息は荒い。

しばらくそのチケットを眺めていたイザベラだったが突然、アナベルに向かって言った。

「ねぇ、お姉様。このチケット、わたしに譲ってくださらない?」

「それは無理よ。ハワード侯爵令息様はイザベラを誘ったのではないのよ?」

「メッセージには、よろしければ、って書いてあるわ。姉はよろしくないからわたしが代わりに来たと言ってあげる」

「そんな無茶苦茶よ」

別にアナベルはエリックと出かけたいわけでもないし、オペラを見たいわけでもなかった。ただ、彼の背負う侯爵という存在を欺くことが恐ろしく、それを平気でやってのけようとする妹も恐ろしかった。

しかしイザベラはそのチケットを持ったまま執務室を出ていってしまう。

「イザベラ、返しなさい!」

そこでちょうどバーネット伯が帰宅し、大きな声をあげたアナベルを叱った。

「騒々しい!そのような大声をあげるなど、淑女あるまじき行為だ」

バーネット伯の怒号にアナベルは、申し訳ございませんと慌てて謝罪した。

「いったい何事だ」

バーネット伯の問いに、すかさずイザベラが答えた。彼女は経験上、先に口火を切ったほうが勝ちだと知っているのだ。

「ハワード侯爵令息様からオペラのチケットが届きましたの。一枚しかないからわたしが行きたいとお姉様に言ったらダメだと言われて」

「それは当然でしょう?お誘いを受けたのはわたくしだもの。それを勝手に譲るなんて、侯爵令息様がどう思われるか」

ふたりの娘の言い分を黙って聞いていたバーネット伯であったが、言い返そうとするイザベラを制してアナベルに聞く。

「お前が招待を受けたのか?」

「はい。メッセージにはそう書いてあります」

アナベルはエリックから受け取った封筒と手紙をバーネット伯に見せた。彼はそれに目を通すと、イザベラに言った。

「オペラにはお前がいきなさい」

「嬉しいわ、お父様ありがとう!」

イザベラはバーネット伯に抱き着いて喜んでいるがアナベルにはその判断が信じられなかった。

「お父様、本気ですか?」

するとバーネット伯は言った。

「その言葉をそっくりそのまま、お前に返すよ」

言われたことがわからずアナベルは、どういう意味でしょうか、と尋ねた。すると彼は大きくため息をつき、

「相手は侯爵家、我が家にとってはまたとないご縁だ。これを逃すわけにはいかないが、お前にハワード侯爵の息子を射止めることができるとは思えない。だが、お前には無理でもイザベラならできるかもしれない。可能性が高いほうに託すのは当然の選択だ」

と言った。

「明日の朝一番にハワード侯爵令息に、自分は都合が悪いから妹をよこすと手紙を書きなさい。それで問題はない」

アナベルとしても、見目麗しい男性と出かけるなんて冗談じゃない、と思っていたので願ったりかなったりの展開ではあるのだが、本当にそれで問題がないのか自信が持てない。

「本当に大丈夫でしょうか」

アナベルの質問にイザベラは意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「お姉様は深海姫なのよ。その名の通り、深海の底に潜っていればいいの。夏空姫のわたくしが青空の下でエリック様のお心を射止めてみせますわ」

「頼んだぞ、イザベラ。失敗は許されないからな」

バーネット伯の言葉にイザベラは大きくうなずいた。

「お任せください、お父様。きっとうまくやってみせますわ」

アナベルは不安に思いながらも、エリックとの約束がなくなったことにはほっとしていた。

自室でバーネット伯に言われた通り、断りの一文と代わりにイザベラが行くことを書いた手紙を(したた)めると、アナベル付きのメイド、ドロシーにそれを差し出した。

「明日の朝一番にハワード侯爵邸に届けるよう手配してくれる?」

しかしドロシーは受け取ろうとしない。

「どうかしたの?」

首をかしげるアナベルにドロシーは言った。

「お嬢様は本当にこれでよろしいのですか?」

そう言われてアナベルは少し困った顔をした。

「本当は少し心配よ。でもお父様が問題ないと言うのだから、殿方の世界では問題がないことなのよ」

「そうではありません。イザベラ様に侯爵令息様を取られてもいいんですか?」

「取るもなにもないわ。ハワード侯爵令息様とは少しお話をしただけだもの。それに正直、ほっとしているの。あんなに素敵な方と出かけるなんて、わたしでは分不相応だわ」

「そんなことありません。お嬢様を磨き上げているのはわたしです!お嬢様はイザベラ様に負けないくらいお美しくていらっしゃいます」

ドロシーの言い分に、アナベルはとんでもない伏兵が隠れていたものだ、と内心で嘆息する。

「そうね、ドロシーの言うように、わたしは確かに美しいわね。でもそれ以上にイザベラが優れているということもちゃんと分かっているの」

「それは、そうですが」

そう言ったきり、ドロシーは黙ってしまう。

事実は事実として受け入れるだけの賢さを持っている娘、それがドロシーだ。そういうところが気に入って、アナベルは彼女を自分付きのメイドにした。ここでイザベラを認めず、妄信的に主人を褒めたたえる使用人など、アナベラは必要としていない。

「分かってもらえてよかったわ。じゃぁこのお手紙をハワード家に届けてくれるわね?」

ドロシーはしぶしぶというようにそれを受け取った。

きっと彼女は、全てにおいてイザベラが優先される理由はきちんと理解していて、それでも自分の主人がないがしろにされるこの状況に、そしてなにより、それを良しとしているアナベル自身にも腹を立てているのだろう。

「ありがとう、ドロシー」

アナベルはそう言ってドロシーの手を握った。貴族令嬢が使用人の手を握って感謝を述べるなど、そうそうあり得ることではない。だが、ドロシーは賢い、アナベルの口にできない思いもきっと伝わるはずだ。

ドロシーは目にいっぱいの涙をためて、それでも、いいえ、と小さく返事をし、ペコリと頭を下げ、部屋を出て行った。

本当はアナベルだって悔しいのだ、先ほどドロシーに言った通り、彼は素敵な男性だ。そんなひとから誘われて嬉しくないわけがない。でも悲しいことにアナベルにはエリックの隣に自分が立っている姿が全く想像できず、そこにはイザベラが相応しいと考えてしまうのだ。ましてやバーネット伯の望むように、彼と恋仲になるなどアナベルにはハードルが高すぎる。

「大丈夫、きっと大丈夫よ」

誰に聞かせるわけでもないその言葉は誰にも聞かれることなく消えていった。


翌朝、ドロシーは手紙を持ってハワード邸へ向かい、老齢の門番にそれを託す。

「おはようございます。バーネット伯爵家の使用人ですが、手紙をお持ちしましたので受け取りをお願いできますでしょうか」

「おはよう、朝早くから大変だね」

対応した門番はドロシーに労いの言葉をかけつつ、手紙に書かれた宛名を確かめた。

「おや、エリック様宛か」

「差出人はアナベルお嬢様です、取り急ぎのご連絡の為、早朝で失礼とは思いましたがお邪魔しました」

ドロシーの言葉に門番は、ふむ、と頷き、

「そういうことならお返事を持って帰ったほうがいいだろうね、少しここで待ってなさい」

と詰所の扉を開けた。

「いえ、お返事を頂戴してくるようには言われておりませんので」

「そう急がなくてもいいだろう。ほれ、ちょうど朝飯が届いたんだ。よかったらどうだい?」

テーブルの上に置かれたバスケットから取り出したのであろうサンドイッチやチキンが見える。伯爵邸では、こんなに豪華な食事が出ることはほとんどない。

朝食の前にバーネット邸を出てきたドロシーは空腹も手伝って、思わずごくりと喉を鳴らした。

「はっはっは。今、お茶もいれてやろうな」

門番はもう一人の若い男性に手紙を渡し、エリックに届けるように言うと、自分はドロシーの為に茶を入れ始めた。


最初は遠慮していたドロシーであったが、

「故郷で暮らしている孫娘を思い出すなぁ」

と言う門番の言葉に、自分も亡き祖父母を思い出し、つい、警戒心を緩めてしまった。

「仕事はきついかい?」

「そういうこともありますけど、わたしがお仕えしているお嬢様は本当に素敵な方なので平気です」

「アナベル様とおっしゃったか」

「そうです、アナベルお嬢様は世界一、素敵な令嬢です!」

きっぱりと言い切ったドロシーの言葉に、

「わたしもそう思うよ」

の声が重なり、そちらのほうを向いたドロシーは仰天した。

「これはこれはエリック様。申し訳ありません、こんなむさくるしい場所にお呼び立てしまして」

門番の男性はなんでもないことのように彼を出迎えているが、伯爵家では主人が詰め所にまで出向いてくることなどありえない。

「いや、呼んでくれてよかったよ」

エリックは気軽な風に門番の肩を叩き、感謝を述べるとドロシーに言った。

「君の名前を教えてくれるかな」

「ドロシーと申します」

アナベルの専属メイドかと聞かれ、ドロシーは頷いた。

「そうか。まず、これは手紙の返事だ。そうだな、伯爵が在宅なら彼に、いなければイザベラ嬢に渡してくれ」

エリックから手紙をイザベラに渡すように言われたドロシーは、がっかりと肩を落とした。

彼ならイザベラではなく、アナベルを連れ出してくれるかもしれない、という期待を持って、屋敷の下男に頼むこともできた手紙をわざわざドロシーが運んできたのだ。

そんなドロシーの様子にエリックは苦笑した。

「ドロシー、君には特別な仕事をお願いしたい」

「どのようなことでございましょうか」

「わたしは夕刻にバーネット邸に行く。それまでにアナベル嬢の装いを外出用に整えておいて欲しいんだが、できそうかな?」

その一言でドロシーは俄然やる気になった。やはりエリックはイザベラではなく、アナベルをパートナーとして選んでくれたのだ。

「少し難しいかもしれませんが、頑張ります!」

ドロシーの頭ではすでに、どうやってアナベルに着替えさせようか、策を練り始めていた。


ドロシーが伯爵邸に戻るとすでに朝食は終わっており、アナベルはいつものように執務室で仕事をしていた。

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい、ドロシー」

入室したドロシーをアナベルは笑顔で出迎え、

「あなたが手紙を持っていってくれたのね、ありがとう」

と礼を言った。

「お返事を預かってまいりました、伯爵様かイザベラ様にお渡しするようにと言われております」

「そう。お父様はいらっしゃらないから、イザベラに渡してきて頂戴」

アナベルはエリックの手紙がイザベラに渡ることを気にもしていない。

その態度にドロシーは、アナベルはエリックを嫌っているのかと、と心配になってきた。もしそうなら自分のしたことは完全に余計なお世話で、それどころか、アナベルを窮地に追い込むことになってしまう。

しかし、昨日、アナベルは、エリックのような素敵な男性と出かけるのは気おくれしてしまう、と言った。素敵だと表現する以上、好きかどうかはともかく、嫌いではないはずだ。

黙って考えこんでしまったドロシーにアナベルは心配になって声をかける。

「ドロシー?どうしたの?なにか心配事でもあるの?」

アナベルの言葉にドロシーは慌てて、いいえ、と言いかけ、ふと良いアイディアが浮かんだ。

「最近は伯爵様が外出されていて晩餐がないので、お嬢様のお支度の機会がないですよね」

そう言われてアナベルは困った顔をする。アナベルにはなにが楽しいのかさっぱりわからないのだが、ドロシーはアナベルを着飾らせることがとても好きなのだ。そしてドロシーがこう言いだしたら、それに付き合ってやることが一番手っ取り早いこともよく分かっていた。

「今日は午後の配達がない日よね。午後の早い時間には目の前の書類は片付くと思うから、そのあとでドレスアップをお願いするわ」

アナベルの言葉にドロシーの心の中には勝利のファンファーレが鳴り響く。

「お任せください!」

ドロシーは元気よく返事をし、お手紙をイザベラ様に渡してきます、と大喜びで執務室から出て行ったのであった。


ドロシーに予告した通り、夕刻になってエリックはバーネット邸を訪れた。着飾ったイザベラと、同じく着飾ったアナベルがそれを出迎える。

アナベルのドレス姿を見たエリックは、思わずニヤリとしてしまった。ドロシーはなかなか優秀なようだ、どうやって主人を言いくるめたのか、アナベルはイザベラ以上に美しく輝いている。

「エリック様、お待ちしておりましたわ」

イザベラはそう言って前に進み出るが、エリックはそれを無視して、アナベルの手を取り、その指先に唇を触れさせた。

「アナベル嬢、今宵は一段とお美しくていらっしゃいますね」

「それは、どうもありがとうございます」

アナベルの心うちは驚きに満ちていたがそれを口にすることは侯爵令息に対して無作法な気がして、なんとかお礼を絞り出した。

イザベラが恐ろしい形相をしているのに気づき、アナベルは手を引っ込めようとするも、エリックのほうが離そうとしない。

「あの」

アナベルが言いかけるより早く、エリックが言った。

「では、参りましょうか。アナベル嬢」

これにはイザベラも驚いて反論をした。

「姉は都合が悪くて行けなくなったとお伝えしたはずですが」

「わたしはアナベル嬢にチケットをお贈りしたのですよ?」

侯爵令息らしい顔をして冷たく言い放つエリックに、さすがのイザベラもそれ以上はなにも言えず、もちろんアナベルも彼に反論する勇気もなく、結局、そのまま手を引かれるままに侯爵家の馬車に乗り込み、出かけることになってしまった。

乗り込んだ馬車から見えたのは、荒々しい足音を立ててホールから立ち去るイザベラと、満面の笑みを浮かべたドロシーであった。


侯爵家の紋を付けた馬車は軽快な音と共に夜の街を駆け抜けていく。

しかし全く軽快な気分になれなかったのはアナベルだ。出かける間際に見たドロシーの顔で確信した。彼女はエリックになにかを吹き込まれ、アナベルに今夜の外出に相応しい装いをさせたのだ。

「侯爵様、ドロシーはわたくしのメイドです。勝手な指示を出されては困ります」

アナベルの苦言にエリックは動じるどころか微笑んでいる。

「ドロシーは素晴らしいメイドですね。誰よりも貴女のことを一番に考えている」

主従というのはそうあるべきです、と付け加えたエリックにアナベルはこっそりとため息をつき、黙って窓の外を流れる景色に目を向けるのだった。


イザベラが流行りのオペラだと言ったのは本当だったようで、会場は大勢のひとでごった返していた。

そんな中にハワード侯爵家の馬車が到着しただけでも注目を浴びるのに、エリックのエスコートで馬車から降りたのが社交界ではあまり見かけない令嬢で、その正体が深海姫だとなれば見るなというほうが酷である。

先日の夜会ではエリックは夏空姫ことイザベラを伴っていた。それが今度は深海姫を連れ歩いているなど、自らゴシップネタを提供していると言っても過言ではない。

こうなると分かっていたからアナベルは彼と出かけるのが嫌だったし、彼からの誘いを怪訝に思っていたのだ。もし彼が、姉妹両方に手を出すような悪趣味な男であるのなら、まともな淑女は避けるべきである。

アナベルは周囲を見ないようにし、エリックに導かれるままにボックス席へと避難した。

そう、これは避難だ。イザベラならこの状況すら楽しむことができるのかもしれないが、アナベルには無理だ。誰もかれもがアナベルを見てひそひそとなにやら囁きあっている。

実際には、滅多に社交界に姿を現さない深海姫の、夏空姫に勝るとも劣らない美しさに、誰もが羨望の眼差しを向けていたのだが、社交慣れしていないアナベルが気が付くわけがない。ボックス席の中でも特に奥まった席を選び、誰からも見えない位置に落ち着いたことで、アナベルはようやくゆっくりと息をついた。

「その席では舞台がよく見えませんよ」

エリックはそう言うが、アナベルは首を振った。

「舞台が見える席ではこちらの様子が見えてしまうわ」

そう言って困り顔をしてみせるアナベルに、エリックは思わず(うめ)いた。皆に見えないということは、逆を言えばふたりきりになれるということで、自らそんな席を選ぶなど、女性から誘っているようなものだ。

今、アナベルと一緒にいるのが自分でよかった、と、エリックは心の底から思った。他の男なら間違いなく今すぐ事に及んだだろう。

彼は縮こまっているアナベルの手を強引に取り、舞台がよく見える席へと移動させた。

「大丈夫。幕が上がれば誰も気にしなくなります」

アナベルは納得のいっていない顔をしていたものの、道化の開幕を告げる声に安心したのか、それとも諦めたのか、おずおずと背もたれに背中を預け、それを見届けたエリックは心の中で安堵のため息をついたのであった。


アナベルがエリックとオペラに出かけて以降、アナベルへの招待状の数が明らかに増えた。社交界の人々は、夏空姫は集まりを好むが、深海姫はそうではないと勝手に判断していた。しかし彼女がエリックとオペラに出かけたことで、集まりに誘っても構わないのだという空気が生まれた。

その結果、招待状が殺到することになったのだが、この状況をイザベラが黙っていられるわけがない。


「社交のできないお姉様が行っても、どうせ笑い者になるだけだわ」

アナベルの優位を認められないイザベラは声高に叫ぶが、バーネット伯は冷静だった。彼はイザベラのほうがより使えそうだと判断した結果、優先していただけで、彼女を溺愛する故の行動ではなかった。高位貴族と縁づくことができるのであれば、それがイザベラであろうとアナベルであろうと、どちらでも構わない。

「アナベル、高位貴族からの招待状、高位貴族が出席する夜会は積極的に参加しなさい」

バーネット伯の言葉に面食らったのはアナベルだ。

「無理ですわ、お父様。わたくしには家政がありますもの。毎日、山積みになる書類の決裁は誰がするというのですか?」

「イザベラには招待状が来ていないのだからイザベラがやればいい」

それを聞いたイザベラが悲鳴のような声をあげる。

「できないわよ、やったことないもの!」

「読み書きくらいできるだろう。だいたい、王族に嫁いだらどうするつもりだったんだ」

「知らないわよ、お父様が家政はアナベルにやらせるから、わたしは夜会に出ろっておっしゃったのよ。それを急に逆にするなんて酷いわ」

「だが、お前はハワード侯爵令息の心をつかむことすらできなかったんだ。王族などとても無理だ」

「やってみなければ分からないでしょ!」

大声で怒鳴りあうイザベラとバーネット伯に、アナベルは呆れるしかなかった。王族などと大それたことを言っている二人が矮小な物に見えてくる。

この国には王子は三人いて、その誰かに見初められるつもりなのだろうが、順当に行けば第一王子は王太子に、残る二人は国外の王家に婿入りすることになるだろう。王家というのは王家同士で婚姻するのが普通とされており、国内の、それも伯爵令嬢をその相手に選ぶなど、例えば王子が五人以上いればそんな未来もあるかもしれないが、そのくらいあり得ないことだ。

もっとも野望を持つことは個人の勝手なのでバーネット伯がそれを狙ってイザベラをけしかけていたとしても、呆れられることはあったとしても、責められることはない。

しかし、ほぼ実現不可能な野望に巻き込まれた側としてはたまらない。アナベルもイザベラも、バーネット伯の描く甘い夢に付き合わされ過ぎた。

「お父様、夢を追いかけるのは勝手ですが、わたくしたちを巻き込まないでください」

アナベルの静かな声に、ふたりは口をつぐんだ。

「冷静に考えてください。伯爵家から王子妃が出るなど、あり得ません。三人の王子のどなたのことかはわかりませんが、国外への婿入りが進んでいるようだと新聞にすら書いてあります。

それからイザベラ、貴族に嫁ぐのならば家政は避けては通れません。それぞれの家のやり方がありますから、それは教えて頂けば良いでしょうが、最初から全くやらないという選択肢はないのですよ」







「それでどうなったの?」

後日、ハワード邸の庭園にはエリックとアナベルの姿があった。

「どうもこうもありませんわ。お父様はまだ王家を諦めていないようですけど、当のイザベラにはその気がなくて。最近の彼女は夜会も茶会も不参加を貫いていますわ」

「なるほど、それで今日も欠席というわけか」

今日はハワード邸での茶会。以前のイザベラなら喜んで参加した高位貴族での集まりだが、彼女は来ていない。もっとも理由はバーネット伯に対するストライキだけではないだろう。


「エリック、いい加減にお前の婚約者を紹介してくれないか?」

ふたりに話しかけたのはエリックの友人、デニス・オコーネルだ。

「止めろ、見るな。アナが減る」

デニスの前に立ちその視線を遮ろうとするエリックにアナベルは言った。

「わたくしも皆様にご挨拶させていただきたいですわ、エリック様の婚約者として」

そう。アナベルはエリックと正式に婚約をしたのだ。今日は婚約を祝うパーティー。主だった招待客が集まったところで、ふたりは会場に姿を見せる段取りとなっている。

それに先立って、親友という立場を利用したデニスが様子を見にきたのだった。


アナベルから婚約者と呼ばれたエリックはわかりやすく赤面し、それを見たデニスは遠慮なく笑う。

「侯爵令息ともあろうお方が、簡単に読まれるような表情(かお)をしていいのかよ」

「愛する人の前では飾らないほうがいいんだ」

と口をへの字に曲げているが、今度は、エリックの『愛する人』という発言にアナベルが真っ赤になってしまう。

普段は、深海の底のように落ち着き払っているアナベルが見せた愛らしい姿に、エリックはもちろん、デニスもつい見入ってしまい、

「見るな、絶対に見るな!」

とエリックが大声をあげたのは言うまでもない。


夏空姫は今のところ、美しくはあるけれども教養のほうは今一つ、と社交界から判断されている。それを覆すため、イザベラは猛勉強を始めた。今までアナベルが処理していた家政の仕事も、やらせてほしいと自ら言い出して、今日もその為に欠席している。

新聞も毎日読むようになった。イザベラは美しく着飾っていれば男性が言い寄ってくるものだと考えていたが、教養ある会話ができない令嬢など、一夜の楽しみの相手にしかなれないということを知ったのだ。

殿方を楽しませる会話をするには時勢を知っておかなければならず、その材料として新聞はもってこいだ。そうやって新聞に目を通していれば、王族というものがどれほどの重責を負わされているか、見えてくる。付け焼刃の知識しか持たない自分ごときにそれを背負うことなどできないということも、イザベラは理解したのであった。

イザベラは高慢ではあるけれども同時に賢い娘でもあった。己に足りない部分を認め、それを補うための努力はできるのだ。

「わたし、お姉様をお手本にしますわ」

夏空のような輝かしい容姿を持ち、そのうえ深海姫のような教養があれば、イザベラにも良い縁談が舞い込むことだろう。


アナベルとエリックの婚約パーティーには多くの高位貴族が集まる。イザベラの婚約者探しには良い機会なのだが、

「まだまだ勉強中ですから」

と、イザベラはアナベルの誘いを断った。

本当は、イザベラとエリックが連れ立って夜会に出席したことを覚えている輩に、それを蒸し返されてはせっかくの晴れの日を台無しにしてしまうだろう、という彼女なりの配慮があってのことだった。

聡明なアナベルにはそれが分かっていて、だからイザベラに心からの礼を言い、イザベラも素直にそれを受け取ったのであった。


三人で騒がしくしているところに侯爵家の使用人がやってきた。

「失礼いたします。エリック様、アナベル様、皆様がおそろいになりましたので、会場への移動をお願いいたします」

それを聞いてデニスは席を立つ。

「俺は一足先に会場に入ってるよ」

「わかった」

「また後でお会いしましょう」

デニスは手を振って去っていき、それを見届けたエリックもまた席を立ち、アナベルにエスコートの手を差し出す。

「行こうか、我が婚約者殿」

エリックの言葉にアナベルはふんわりと微笑み、

「参りましょう、エリック様」

と応えた。

これでおしまいです。


本作と同じく二万文字程度の短い作品を同時刻で投稿しております。

そちらは話を分けました、やはり一話が長いと読むのがキツイ、年かな・・・

もし見かけた方はお読みくださいましたら幸いです。

ありがとうございました。

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