the KISS
「いいよ、キスしよう。(別に減るものでもないし)」
もちろん()は言ってないよ。ト書きってやつさ。こんな僕にもれっきとした礼儀くらいある。今宵の姫様を最高のおもてなしでお迎えしなくてはね。こんな僕のために貴重な夜を預けてくれるのだから。
彼女は長めに引いたアイラインに沿って目を細め、その唇を僕に押し当てるべくそっと瞼を閉じた。僕は彼女の腰に腕を回しながら、近づいてくる姫の顔をじっと眺めた。姫君たちは大体キスを交わすとき瞳を閉じている事が多いから、無防備な姿を存分に味わえるのは僕の特権なのだ。今すぐに奪ってしまえと囁く本能を宥めながらこれから抱く女性に挨拶をするこの瞬間こそ、人生で1番好きな瞬間かもしれない。僕は舐めるように瞳、形の良い鼻、そして唇へと視線を這わせる──今宵の僕はテラコッタに染まるらしい。
唇を重ねること自体に特段何も感じない。今僕の吐息を吸っている姫の名前もよく覚えてない。ベッドで違う名前を呼んだらどうしよう。まあいいか、彼女とは寂しさの埋め合わせという名目で繋がっているのだから、誤魔化せる余地はある。何せ今日の彼女は優しい人だからね。優しいから裏切られる。彼女の場合、疑いを口にしないのは優しさではなくてただの臆病だってことに気づいてくれたらいいのだけど。伝えた方がいいのだろうか?……やっぱりやめた。そこまでの義理や温情は僕にはない。
「んっ……ふぅ……」
互いの欲情を貪るだけのだらしのないキス。彼女はとても巧かった。僕も理性がかなりフェードアウトしかけている。ただの哀れな獣と化すまであと、寸時。すなわち、僕の求めているあの瞬間まで、あともう少し。
「××くん」
卑しくも彼女が僕の名前を呼ぶ。本名ではないというのに、名前を呼ばれると途端に腹の底から嫌悪感が湧き上がってしまう。流行っているのか知らないが、最近は事の最中に名前を呼ばれることが多くなった。何か勘違いしてないか? 僕たちの間に愛はないのに。しかし夢を見させてあげるのが僕の役目。僕は顔をしかめそうになるのを非常用電源の理性で留め、にっこり微笑んでやった。それこそ国家が転覆してしまうくらいに。
「姫、君も道連れにしてやるよ」
僕が理性を飛ばしかける微睡の中でしか君にはもう会えなくなってしまった。
『△△』
もうほとんど呼ばれなくなったその名前。君にしか呼ぶことの許されない僕の名前。ああ愛し君よ、僕が理性を飛ばしかけるあの微睡にしかもう君はいない。
『◇◇、愛してる……っ』
『わたしもよ、△△』
最後の日、僕たちは互いの存在を忘れないように躰に刻みつけたんだ。君の華奢な体躯は打ち付けるたびに大きく揺れてしまうのに、君は僕の背中にしっかりと両手をまわして離れなかった。その赤くて丸い唇は最後まで僕の名前を紡ぎ続けた。
『△△ッ……だいすきよ』
あの日僕が君の内奥に植え付けた熱は、まだ灯っているだろうか?
僕は与えることしかできないのだから、君がいなくなってしまっては何も残せないじゃないか。
後に何も残らない現実に僕はもう耐えきれなくなってしまった。
だからもう、上書きするしかないんだよ。
「○○、すき……っ」
理性を失った剝き出しの彼女がここにいない誰かの名前を呼ぶ。目尻の美しいアイラインは、こぼすまいと懸命に耐えていた大粒の雫と共に消え失せた。
「す、き……」
やめろ
「好き、なの……」
やめてくれよ
『△△』
うるさい!
「やめろよ」
「え?」
「奴の名前なんか呼ぶな」
忘我に耽っていた彼女がゆっくりと現実に引き戻されていく。彼女の表情の変化は鏡に映った僕そのものだろう。いや、『××』ではない――ぼく自身が話している。
「呼んだって戻って来ない」
「あ……ああ……」
「だからもう、忘れなよ」
ぼくは彼女の唇に噛みつき舌をねじ込み彼女の熱を奪い去るまでひたすらに吸った。零れ落ちる雫が彼女の瞳を彩っていた美しいアイラインをしめやかにぬぐい取り、寄せ合ったぼくの頬へ流れ落ちて混ざる。……混ざる?
ああ、そうか。
唇を重ねることで二度と会えない彼女の唇の感触の記憶を繋ぎ止めようとしているんだ。ぼくも、彼女も。
「もっとキスして」
「いいよ。別に減るものでもないし」
「それなら、あなたにとって得するものにしてあげるわ」
「……君は優しいな」
「そうかしら」
「そんなこと言っているとまた騙されるよ」
「余計なお世話よ」
彼女が笑う。ああ、君はそんな風に笑う子だったんだね。
「なら、上手に上書きしてみせて」
ぼくの唇が今夜テラコッタに染まる。