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最後の戦艦

作者: 八幡雲鷹

 

 尾張(おわり)は、大日本帝国海軍の大和型戦艦の4番艦。艦名は尾張国から因んで命名された。名称は3番艦の紀伊と同じく未成となった八八艦隊計画艦から引き継いで命名された。大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦であり、現時点において歴史上最後に建造された戦艦でもある。


 百科事典風に記述するとこのようになるだろうか。最後の戦艦、あるいは黙示録の戦艦と称され、大日本帝国の意志の象徴として半世紀にわたって洋上に君臨してきた海の女王も、冷戦の終わった今となっては記念艦として余生を過ごしている。


「ねぇ聞いてるー?」


 下からきた抗議に生返事を返しながら、その往時を再現した鐘楼を見上げた。

 私がわざわざ平日に呉にまで赴いているのは、従弟らにこの艦を見せてやるためだった。小学生の従弟を子供達だけで遠出させる訳にもいかず、かといって共働きでなかなか連れて行ってやることもできない叔母夫婦に代わって、暇な大学生である私が引率を買って出たのだ。


 窓口で料金を支払い館内に入る。祝日明けの平日だけあって人手はまばらで、ゆっくり見て回れそうだ。

 叔母に従弟の引率を頼まれた時には思わず、学校は、と聞き返したが、体育の日に運動会をやった代休と聞いて安心したのを思い出す。

 そういえば、昨日は東京オリンピック60周年だと言っていた気がする。前回が戦後すぐの1952年だから、そろそろまた日本で開催されるかもしれない。


「わー、『大和』だ!」


 館内のロビーには竣工時の『大和』と『尾張』の1/100模型が鎮座している。

 大和型戦艦の最大の特徴である三連装3基9門の46サンチ主砲は両者に共通しているものの、改大和型あるいは紀伊型と呼ばれる四番艦『尾張』の艦容は一番艦『大和』とは大きく異なる。

 目に見えるところでは、『大和』が副砲を4基装備しているのに対して『尾張』は舷側の副砲2基の代わりに高角砲や機銃を山ほど搭載している点と、対空・対水上レーダーを竣工時から搭載している点が異なる。

 さらに、目に見えないところでは過剰だった舷側装甲を削減して艦底を三重底に強化している点や居住性の向上が図られている点が異なる。


「そんでね、『尾張』が竣工したのは大戦が終わってからなんだよ」


 いつの間にか展示エリアに入っていたらしい。ここでは『尾張』の艦歴がパネルで紹介されている。

 戦艦『尾張』が就役したのは第二次世界大戦が終結した1947年、一番艦『大和』から遅れること5年のことだった。当然大戦には間に合っておらず、その46サンチ主砲が実戦で火を吹いたのはただ一度きりである。


「なんで戦争終わっちゃったのに完成させたんだろ?」

「そりゃ、アメリカと戦うためだろ。アイオワ級やモンタナ級を次々完成させつつあったんだから」

「えー、ちょっと前まで味方で、結局ずっと一度も戦わなかったのに?」


 確かに、日本とアメリカは第二次世界大戦では同じ陣営としてドイツと戦った。そして大戦の終結後から半世紀にわたり直接戦火を交えない冷戦状態にあったのは事実だ。

 しかし、日米の対立が始まったのはもっと前からであり、むしろ第二次世界大戦ごろが最も直接戦争の危険が高まっていた時期であるというのはあまり意識されていない。

 日米関係は、日露戦争ごろの蜜月が終わると支那への進出を狙うライバルへと変化し、満州国の成立をもって完全に敵対関係へと移り変わった。現地での権益問題もあって他列強との関係も悪化しつつあった日本はよりによってドイツとの関係を深めようとしており、ナチが牛耳るドイツやファッショの率いるイタリアと防共協定を結んでソ連に対する向きを強めていた。この流れもあって、1939年には通商航海条約の破棄一歩手前まで関係が悪化していた。


 通商航海条約云々についてはこの前読んだ架空戦記での話なので眉に唾つけて聞く必要があるだろう。だが、もし支那が内戦をやめて日本と戦争を始めていたら、そのままドイツとなし崩しに同盟関係にまで至り、日本が枢軸に加盟するという歴史もあったのかもしれない。そうなったらいずれ日米も戦争状態に入っていただろう。

 その架空戦記では、史実では西安で暗殺された蒋介石が毛沢東と一定の妥協を成立させて内戦をやめることに成功。上海の日本租界を大軍で囲みつつ東北奪回を叫び満支国境で戦争状態に入るという流れであったが、このあとの流れは少々無理があるように思える。

 だいたい、ノモンハンでソ連との国境紛争中に裏で独ソ不可侵協定を結ばれてそのままドイツと組み続けるというのが不自然だろう。その話では日中戦争のせいで東京オリンピックの開催を自主返納したことになっているとはいえ、史実では当時の世論はドイツ討つべしとの声に溢れていたと聞くからだ。ノモンハン事件で裏切り、ポーランド侵攻によって東京オリンピックを中止に追い込み、さらに照国丸事件で邦人に死者を出していたのだから当たり前か。

 まあ、架空戦記とはいえ元々はボードゲーム『パシフィック・ウォー』をもとにした小説の外伝という立ち位置なので、多少考察が甘いのは見逃すべきなのだろう。それより作者はいい加減本編を進めろ。山本長官が前線視察に飛び立ってから何年経つと思っているんだ。このままだと山本長官が戦死するより前に作者が逝きかねないとまで冗談交じりに言われているというのに。


「そんな簡単に戦艦が沈むか!」

「でも主砲は40キロぐらいしか届かないけど飛行機は十倍は届くし、『ローマ』や『ティルピッツ』みたいになってもおかしくないよー」


 ふと現実に目を向けると、二人の間で戦艦空母どっちが強いでショーが繰り広げられていたので再び目をそむける。

 そういえば、『パシフィック・ウォー』では『尾張』は建造中止となり、『紀伊』は艦名を『信濃』と変えて重空母として建造されていた。アンチには艦名に"支那しなの”とは何事かと叩かれていたが、それを言い出したら"終わり”だって大概だろう。

 さて、現実逃避はこれぐらいにして、論争が喧嘩になる前に二人を止めて先へ進ませる。戦艦と空母のどちらが強いなんて状況により様々に異なるし、単純にどちらが上位なんてものがあったら帝国海軍が両方を整備することなんてあり得ないからだ。それに、人が少ないとはいえあまり騒がしくすると迷惑でもある。


 次のエリアは、大和型戦艦と第二次世界大戦の関わりがテーマの短い展示だった。

 まあ短いのも無理もない。紀伊型の2隻は戦争に間に合わず、『大和』も『武蔵』も大戦中はずっと内地にいて西海岸のアメリカ太平洋艦隊に睨みを効かせていたので主戦場である大西洋や地中海には赴いていない。

 数少ない例外が、テヘラン会談に参加するためイランへ行った近衛首相を送り届けた『大和』である。とはいえインド洋止まりであり、現地でルーズベルト大統領を乗せてきた『アイオワ』と邂逅した程度しか特筆すべきイベントはなかった。

 日本が参戦した42年の時点でもはやイタリアにもドイツにも水上艦隊運用能力は残されておらず、何隻か派遣された旧式戦艦もほとんど艦砲射撃しか仕事はなかった。強いて言えば、地中海で誘導爆弾を被弾した『榛名』が護衛についていた米艦の問いかけに対し「I'm okay.(榛名は大丈夫です)」と返答して任務を続行したエピソードが有名だろうか。

 イタリアが何かと弱兵扱いされるのは、第一次大戦からの古参である『榛名』や『ウォースパイト』がフリッツXの直撃に耐えられたのに新鋭戦艦の『ローマ』が沈んでしまったのも原因の一つだろう。


 それはさておき、世界大戦とはいうもののその実質は欧州大戦であり日本の存在感は大きくなかった。それは第一次も第二次も変わることはない。

 第一次大戦は日英同盟の付き合いで参戦したに過ぎないし、第二次大戦でもそれらしい理由はつけたがオリンピック中止の腹いせに参戦したようなものだった。

 大戦中の日本の立ち位置は、米ソ両国のスチームローラーのような戦争をただ傍観していただけといっても過言ではない。だから、アメリカ海兵隊がベルリンに突入しヒットラーが自殺して第二次大戦が終わっても日本を取り巻く環境は戦争前とほとんど変わらなかった。

 相変わらず支那問題で列強各国との関係は良くなかったし、アメリカとは太平洋を挟んで静かに睨み合う状態が続いていた。唯一変わったのは、ソ連が、というより赤いツァーリたるスターリン個人が日本との関係強化を望むようになったという点だろう。


 数年前まで大規模な国境紛争を繰り返していた両国が接近するきっかけとなったのは、41年6月に始まった独ソ戦だろう。

 ドイツの奇襲攻撃により総崩れになった赤軍に顔色を変えたソビエト指導部は、開戦から数週間で態度をまったく反転させて不可侵条約の締結や物資援助まで求めてきており、ドイツ軍がモスクワ前面まで迫った10月には義勇軍の派遣まで要請するようになっていた。不可侵協定や貿易優遇までは追い詰められた40年頃のイギリスも言ってきていたが、追い詰められた独裁者というものはここまで態度を変えるものなのか、と当時の外交官が述懐するほどの豹変ぶりだった。

 その後、アメリカの参戦によりドイツの敗北が避けられないものとなってからスターリンは日本に対する考えを変えるようになる。この戦争が終わった後、次の戦争のことを意識するようになったのだ。

 日本の勢力圏は北太平洋から満州まで広がっており、アメリカにとっては北東アジアへの橋頭堡として、ソ連にとっては太平洋への出口として是非とも抑えておきたいチョークポイントに位置していた。さらに、十分に発展した軽工業と精強無比たる帝国海軍をもスターリンは欲した。

 だからこそ、日本に対する共産主義革命ではなく関係強化を推し進めた。スターリンが求めたのは日本人民共和国ではなく大日本帝国であったのだ。


 これは余談だが、スターリンは大艦巨砲主義者であったと言われている。

 第二次大戦が終わってから彼が亡くなるまでの間に計画され、彼の死後速やかに破棄された海軍計画がその証拠だ。

 この計画で建造が開始されたソビエツキー・ソユーズ級戦艦は当初は大和型戦艦と同程度の艦体に16インチ砲を9門搭載した現実的な戦艦であった。対馬沖で消え去った海軍をまだ再建できていない国には過ぎたものであっても、この後のものに比べれば、という話だ。

 戦後公開された大和型の要目を知ったスターリンは要求をエスカレートさせ、最後には20インチ砲を搭載した12万トンの巨艦にまでなっていたという。どうやら末期には耄碌していたという話は本当だったらしい。

 他にも、日本が旧式戦艦を退役させると知って譲渡を希望し、実際に保管分をあわせて何基分かの主砲を膨大な資源や戦車とバーターで買い付けたという話もある。

 スターリンは”子供ずきなおじさん”ではなく”戦艦大好きおじさん”であったのだ。


「あ、満州戦争のパネルだ!」


 角を曲がって目の前に現れたのは、主砲をもたげる『尾張』と彼方に立ち昇るキノコ雲を捉えた有名な写真であった。


 戦争当事者である日本と満州国、そして中華人民共和国の関係は複雑であった。

 満州国を建国したのが事実上日本の関東軍であることは周知の事実であるが、中華人民共和国の成立にも実は日本が大きく関わっていたのだ。


 大戦中の支那大陸は、蒋介石の後継となった汪兆銘率いる国民党と毛沢東の共産党、そして有象無象の軍閥が割拠する闇鍋のような状態であった。このうち汪兆銘は比較的"話のわかる”部類で、大戦終結前までは援助と引き換えに満州国を黙認させることに成功していた。当時華北奥地にいた共産党とは明確に敵対関係だ。

 しかし、大戦が終結する直前に汪兆銘が死去すると状況は変わる。明確な指導者を失った国民党は混乱し、無茶な増税や収奪を繰り返して民心を急速に失っていった。対して共産党は農村を中心に着実に勢力を伸ばし、両者の勢力は互角に近くなっていた。

 この状況で、大戦に勝利しつつあるアメリカが国民党に接近。莫大な援助で国民党を懐柔しつつ支那市場の独占を狙った。これにより多くの軍閥が国民党になびき、アメリカの目論見通り国民党主導の統一がなされるかに見えた。

 ただ、国民党の腐敗はアメリカが思っていた以上にひどかった。もはやまともな統制も失っていた国民党は大戦終了後すぐに内戦を再開してしまう。それでもまだアメリカは勝つ気でいた。

 そして、ここにも日ソの接近が影響してくる。コミンテルンの指示により対日テロ活動を停止した中国共産党と、アメリカになびいた国民党を見限った日本が急速に接近。ソ連も当然中共を支援したことによりアメリカの予想に反して国民党は大陸から叩き出されることになる。


 こうして支那大陸を統一した中華人民共和国であったが、日本と連携できていた期間は短かった。彼の国の言葉に"呉越同舟”という言葉があるが、日本と中共が同じ船に乗り続けていられるはずもなかった。

 大戦終結から十数年、大躍進政策の大失敗により内政に不安を抱える中華人民共和国は人民の不満をそらすため満州への侵攻を計画するまでに至る。これが満州戦争である。


「『紀伊』が攻めてきた支那兵を丸ごと吹き飛ばしたんだよね」

「そう、卑怯にも奇襲をかけてきた中共の軍勢から錦州の街を守ったんだよ!」


 実際には奇襲を察知して引き込んだというのが正しいし、錦州前面での殲滅は事前に計画されていた通りであった。


 侵攻してきた人民解放軍は無人の荒野となった国境地帯を踏破、これまた事前に要塞化されていた錦州前面で一旦停止した。そこが彼らの死に場所と知らずに。

 同様に要塞化されていた諸都市の前面に、7発の核弾頭が炸裂した。うち6発はターボファン推進の重陸攻『富嶽』により投下された20キロトン級爆縮型原爆であったが、最も海岸側の1発は46センチ核砲弾によるものだった。

 このときの核砲撃が『尾張』に"黙示録の戦艦”の二つ名を奉らせたのだ。

 この攻撃と一連の艦砲射撃が、大和型戦艦の最初で最後の実戦参加となった。


 その後、大和型戦艦は徐々に稼働率を落とし保管艦にある期間が長くなっていく。

 もちろんベトナム戦争など要所要所で現役復帰して睨みを効かせていたし、プロパガンダ映画の中ではその威圧的な見た目を活かして活躍していた。

 だが、少なくとも『尾張』に関しては滅多に動くことはなくなった。これは、満州戦争での核砲撃によりあまりに政治的な存在となってしまったためだろう。

 それも少し『尾張』を動かすだけで海外のマスコミが大騒ぎするとあってはやむを得ない気がする。

 さらに予算の問題もあった。

 冷戦最盛期の帝国海軍の主力は戦艦や空母のような水上艦隊ではなく陸攻と潜水艦隊に移り変わっていた。

 潰れたおにぎりのような形のステルス陸攻『轟山』や丹後級大型原子力潜水艦、その護衛につく巡洋原子力潜水艦はどれも高価で、戦艦のような人員を大量に使うフネを現役に留めている余裕はなかったのだ。


 そうして保管艦と岸壁の花を往復していた大和型戦艦が再び現役に返り咲くのは80年代に入ってからとなる。

 レーガン大統領の600隻艦隊計画で現役復帰したモンタナ級『モンタナ』『オハイオ』とアイオワ級4隻の16インチ戦艦に対抗して大和型戦艦の現役復帰が決められたのだ。

 その名も新六四艦隊計画。潜水戦艦こと陸奥型特大型原潜と千早形新鋭巡洋原潜を6隻づつ、新型原子力空母を4隻整備するのと同時に大和型戦艦4隻の近代化改装と現役復帰も決定された。

 そうして搭載されたのが、海軍航空隊の誇るVTOL戦闘攻撃機『閃電』である。


「わー、本物の『閃電』だ!」


 順路の最後はこの時の改装により設置された格納庫だった。

 改装の結果日本版ハリアーとも呼ばれる『閃電』か対潜ヘリを8機搭載できるようになり、ミサイルランチャーも多数搭載したことから『尾張』は1隻で制海権を奪取し得る制海艦として生まれ変わった。

 まるで中学生が妄想したような万能艦の現出であった。


 だが、そこで冷戦が終結してしまう。ソ連が崩壊してしまったのだ。

 折角近代化改造した大和型戦艦も予算には勝てず次々と予備役入りし、21世紀を迎えるかどうかといった時期に退役することとなった。

 わかっていたことだが、ごんなに強力な艦でも予算には勝てないというのは無情なものだった。


「おっちゃん! 早く行こうよ!」

「早くしないと海軍カレー売り切れちゃうよ!」


 まだ四捨五入したら二十歳だ、と窘めながら手を振る二人の元に向かう。

 これから昼に海軍カレーを食べて、午後から桟橋に移動して軍港めぐりのクルーズの予定だ。

 小学生2人の無尽蔵とも思える体力を前に、口とは裏腹に体力の衰えを痛感じざるを得ないのが悲しいところだった。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 榛名は本当に大丈夫?
2020/03/20 11:54 退会済み
管理
[良い点] 御参加ありがとうございます。 [一言] これまたスゴイ世界線ですね。そして、まさかの「尾張」による原子砲弾攻撃。 商業作品でも一作品でしか見たことのないこの設定を出すとは、さすがです。
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