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檸檬味の呪い

作者: 君名 言葉

「ただいま」

 お盆に東京から福井に帰省していた時の事。

「よう帰って来たね。こっち帰って来るのは久々やな」

 玄関で、以前より白髪の増えた母が出迎えてくれた。

 私も、三十八になっていた。都会に出てからは二十年になっていた。

「この辺は全然変わってないな」

 真夏の日差しに照り映える田畑。庭に生えたなすやきゅうりの瑞々しさ。

 家の周りの景色は昔のままで、思わず安堵の息を吐いた。


「田舎は涼しいかと思ったけど、そうでもないな。とりあえず、何か冷たい物ない?」

 はやる思いで冷凍庫を開けた。表面の体温だけが急激に冷え、辺りに白い靄が漂った。

 そこには、数種類の氷菓が詰められていた。

 どれを食べようか迷っていると、ふと、奥に埋まっていた黄色いパッケージの氷菓が目に入った。

「あっ」

 思わず、幽かな声が飛び出ていた。

 檸檬味の氷菓。昔は何度も食べた。

 だが私は、その氷菓に対して懐かしいと感じる前に、一人の人間を思い起こした。

 それは、十年前の夏に他界した、祖母であった。

「どうしたの?」

 母が昼食を準備しながらこちらに顔を向けた。

「いや、ちょっとばあちゃんの事思い出してさ」


 子供の頃から、祖母は優しい婆であった。

 母よりも私に情け深いが故に、私は祖母が大好きであった。そして、その優しさに存分に甘えたものだ。

 そんな祖母に対して、私が特に好いている点があった。それが、この檸檬味の氷菓であった。

 祖母は常に、これで冷凍庫を埋め尽くしてくれていた。間違いなく、それは私のためであった。

 私がこれを好んでいることを知り、欠かさず買ってきてくれた。

 そして、この味こそが、私の少年時代の味であり、青春の味であった。


 今、偶然にもこの氷菓を見つけた私は、これを口にするよりも前に、祖母に顔を見せようと思った。

「そうやね。ばあちゃんに顔見せていきなさい」

 母が微笑を浮かべて言った。


 襖の奥の仏壇の前に座り、私が生まれる前に他界した祖父の隣に並ぶ、祖母に顔と手を合わせた。

「ばあちゃん。帰ってきたで」

 母から「ばあちゃんが危ない」との連絡を貰い、急いで帰ってきた時、祖母は既に目を閉じてしまっていた。動かない祖母を目の前にした時、ずっと実家に帰っていなかった自分を何度も責めたのを覚えている。

 冷気が辺りに漂う程に冷えた氷菓を、仏壇に置いた。

 溶けてしまうので放置はできないが、ほんの少しでも祖母に味わってもらいたかった。

「ごめんな、ばあちゃん。なかなか帰って来れんくて。じいちゃんと仲良くやってるか?」

 遺影の祖母は常に笑ったままだった。天国でも、笑顔の絶えない生活を送っていて欲しいものだ。


 そろそろ氷菓を回収しようと、凍った塊を手に取り立ち上がろうとした、その時だった。

「うっ」

 よろけて平衡感覚を失った私は、倒れて畳に頭を強く打ちつけた。

 視界が暗くなってゆく。目が見えないような暗澹は、さながら濁世の闇であった。


 *


 気が付くと、私の前にあったのは、今よりも少し色鮮やかな縁側であった。

 ふわふわとした感覚の中、眼前に映像が表示されていた。


 ……これは、

 私の幼少期の記憶?


 私は川の流れに身を任すかのように、覚えのある情景の前にさらされていた。

 様子から推測するに、私の少年時代の風景のようだった。

「スイカ切ったわよ」

 台所から母が顔を覗かせた。今より随分と若く、髪の毛も白んでいない。

 縁側に座って本を読む私は、嬉々として母の方へ駆け出して行った。まだ背丈も短く、丸刈りの頭に汗を滲ませていた。


 しばらくして、少年の私は、皿に乗せた数切れのスイカを持って縁側に戻ってきた。

「ばあちゃん、一緒に食べよ!」

 私がそう言った事で、奥の部屋から何十年も前の祖母が出てくるのが見えた。とても若々しく、皺も少なかった。


「スイカは塩を振るとうまいんやで」

「ほんとう?」

 塩の小瓶を持って現れた祖母。

 当時は、塩辛さが甘さを引き立てるとは到底思えず、疑ったものだった。

 不思議そうな顔で小瓶を受け取った私は、何も分からず全てのスイカに塩をかけていた。それも大量に。

「あらら。それは振りすぎや。それはもう食べられんわ」

 自分が取り返しのつかない事をしたと自覚した少年の私は、瞳に涙を浮かばせていた。

「大丈夫や。こっち食べなさい」

 そうなだめて祖母が取ってきたのは、檸檬味の氷菓であった。包装のデザインも今と変わっていない。

「僕、これ好き」

「欲しかったらいつでも食べれるでな。冷凍庫から取りなさい」

 そう言われた時の私の顔は、見たこともない程の笑顔であった。

 その会話を聞いていた母が注意を促した。

「お母さんやめて。アイスばっかり食べさせたらお腹壊すよ」

 そうして、少年の私と祖母は顔を合わせて笑い合ったのであった。


 *


 再び視界がぼやけた。今度はすぐに世界が晴れていき、その先に映った情景は、先程と微妙に変わっていた。庭の木々が僅かに減っていた。

 襖の奥の部屋にいた私は、学生服姿でコンピュータに夢中であった。つまり、中学生ということだ。

「ご飯食べるよ」

 台所から声をかけた母の呼びかけには答えず、黙々とキーボードを打ち続けていた。

「聞いてるんか!?」

 一段と、母の声が高く、大きくなった。すると、奥の部屋から、先ほどより皺の増えた祖母が入ってきた。

「もうやめなさい。やりすぎや」

「今日はまだ全然やってないって」

「お母さんもご飯って言ってるやろ。今は止めなさい」

「チッ、うるせーな……」

 はっきりと思い出した。中学三年生の、反抗期真っ盛りの頃である。いくらコンピュータにのめり込んでいるとはいえ、なんという態度を取っていたのだろう。

「こら! ばあちゃんになんてこと言うの! 謝りなさい!」

 憤怒の表情をした母が、部屋に入り、中学生の私に詰め寄った。

「なんでだよ。俺は何も悪いことしてないやろ」

 祖母は何も言わず、ただ見守っていた。

「ばあちゃんはあんたの為を思って言ってるんや! そんなもんばっかやってないで勉強したら!」

 恐らく、その時の私は、大好きだったコンピュータを『そんなもん』と蔑まれた事に対して腹が立ったのであろう。

「うるさい! ばあちゃんもウザいんだよ! 放っておけよ!」


 見るに堪えない口論が続いた。中学生の私と母が争っている内に、今この状況を俯瞰している私は、祖母が静かに涙を流している事に気が付いた。

 思わず目を見張った。当時は言い争いに夢中で、全く知らなかったのだ。事実、この口論に収拾がついた後も、祖母はそのようなことは一切口に出さなかった。

 心が荊棘に迷い込んだかのように、チクチクと痛みだした。

 自省の念を吐露し、目の前に居る昔の祖母に伝えたかったが、声は出なかった。


 *


 また場面が移り変わっていった。

 今度は、同じく学生服を着ているが、背丈はさらに伸び、高校生になっていた。コンピュータを操作しているという状況も一緒だったが、なにやら雰囲気が重苦しい。

 私だけではなく、祖母と母も、食い入るように画面を覗き込んでいた。

「あと一分や」

 机に置かれた細長い紙が目に入り、状況が理解できた。

「あんた、もうちょっと落ち着きなって」

「お、落ち着いてるよ」

 母にとがめられながら不安そうにしている私。これは、大学受験の合格発表の瞬間だった。私は推薦で大学に進学したため、合格発表は夏の終わりに行われたのだ。


「あっ十二時」

 十二時になり、私はウェブサイトを開いた。

「350……350……」

 自分の受験番号を探していた。

 そして次の瞬間、時が止まった。

 画面には、347 350 352と数字が連続している。

「あ、あった」

「受かった!?」

 そう言って抱きついてきたのは母だった。何度も私の頭を抱き寄せた。


 一方、その時の祖母は、これまで見た中で最も幸せそうな顔をしていた。絶えず拍手を送り、「良かったねぇ、頑張ったねぇ」と呟いていた。

「ばあちゃん。これで俺も大学生やわ」

 握手をしながら高校生の私がそう伝えると、祖母は、私の首の後ろまで手を回し、頭を包んでこう言った。

「よお頑張ったねぇ。ばあちゃん嬉しいわ」

 これまた、私は驚いた。私を抱きながら、祖母は泣いていた。頭を抱えられているその時の私には、少しも見えていなかった。


 *


 最後に映し出された風景は、それなりに最近のものであった。

 祖母の腰の曲がり具合は、最後に会った十二年前の様子と酷似していた。

 私はと言えば、スーツに身を包んでいた。

「ばあちゃん、来月からいよいよ社会人や」

「背広がよう似合ってるわ。頑張りなね。檸檬の氷菓、食べたくなったらいつでも帰ってきなさい」


 東京の大学を卒業し、今の職場に就職する事になった私。その報告に来たところだったようだ。

 この時の私は、あの氷菓は東京でも売っていると思っていた。しかし、実際には、福井の小売店でしか販売していなかった。

 東京のスーパーで必死になってあの檸檬味の氷菓を探したのに見つからなかった時、私は妙に嬉しかったのを覚えている。

 その内帰れるだろうと、安易な気持ちで過ごしていた。

 だが、ここ十数年もの間、帰省どころではなかった。仕事の多忙さ故に、心を休める時間も、祖母のことを考える余裕すらも持ち合わせていなかったのである。もちろん、あの檸檬の氷菓の事も頭になかった。


 私は、憧れていたのだ。

 いつでも氷菓で冷凍庫を満たしてくれるような優しい祖母に、憧れていた。

 優しい人間になりたくて、奮闘していた。それでも、私が祖母のような人間に近づく事はなかった。

 幼い頃から祖母の善意に甘え、普通の事だと捉えて、感謝の言葉なんて気恥ずかしくて言えなかった。受け取った愛にも、祖母の流した涙にも気付く事ができなかった私の、宿命のようなものであった。

 大人になって、その有難さを知ってから、どうも息苦しくなってしまった。感謝を伝えようとした時には、祖母はこの世にいなかった。結局、私はそうなることを諦めてしまった。


 当たり前の優しさなど、存在しないのだ。

 それに気付いているかどうかが、優しくなろうとしていた私と、優しかった祖母との決定的な違いであった。


 *


 目の奥が徐々に白んでいった。ぼやけていた視界も、時間が経つに連れ、はっきりしてきた。

 ある程度の視力を取り戻すと、今度は聴力が復活した。最初に耳に飛び込んできたのは、母の甲高い声であった。

「ちょっとあんた、大丈夫か?」

 上の方に目を向けると、母の顔が目に入った。

 横たわったままの姿勢で、私は尋ねた。

「大丈夫って、なんかあったんか?」

「仏壇の方からゴンって凄い音がしたから見てみたら、あんたが倒れたんや。お母さんびっくりしたわ」

「ああ、そうか……」

 ゆっくりと上体を起こした。腕時計の針を見る限り、十分間ほど意識を失っていたようだ。

「頭痛むか? 病院行くか?」

「いや、大丈夫。なんだかすごく、懐かしい夢を見てた」

「夢?」

「ばあちゃんの夢だよ」

 母は遺影に目線を合わせた。


「大人になってようやく気付いた。ばあちゃんがあの時くれた優しさも、人知れず泣いていたのも。感謝を伝えたくなった時にはもういないなんて、皮肉な話だよ。伝えたい想いって、すぐに言わないとダメなんやね」

 母は首を傾げたが、納得する代わりにこう続けた。

「まあ、それはよう分からんけど、あのレモンのアイス見ると、お母さんもばあちゃん思い出すな。いつもあんたのために買ってきて」

「そうだね。でもさ、なんでばあちゃんはそんなことしてたんだろう」

 単なるお節介では片付けられないような、深い意味を持ち合わせている気がした。


「きっと、ばあちゃんは、あんたに呪いをかけたんや」


「の、呪い?」

 予期せぬ単語に、言葉が詰まった。

「毎年、あのアイスを見ればばあちゃんを思い出すやろ? 孫に忘れて欲しくなくて、あのアイスを見たらばあちゃん、ってなるように、いつも買ってくれてたんじゃないの」


 そんな大それた訳がないと否定したかったが、妙に納得してしまった。確かに、私はあの氷菓を見るたびに、脳裏に祖母が過る。どうやら私は呪われているようだった。ずっとかかっていたいような呪いだ。

「そうか。ばあちゃんも寂しがり屋なんやな」

「当たり前や。あんたのことを誰より可愛がってたんや。孫にかけた、世界一可愛いらしい呪いやわ」

 改めて遺影を見てみると、祖母は私に語りかけているようだった。


『頑張りなね。檸檬の氷菓、食べたくなってらいつでも帰ってきなさいね』と。

 いつか僕にも孫ができたら、たくさんの氷菓を買ってやろう。そう心に決めた。


 涼しい風が縁側を抜けた。

 風鈴が音を奏で、夏を連れてきていた。

 仏壇に供えた檸檬味の氷菓は、とうに溶けてしまっていたが、私にかかったその呪いは解けることはなかった。


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