未熟少女の狂気
玄関のチャイムを鳴らす。
先生はいつも通りに、顔を出すはずだ。
「どうした矢崎? また授業でわからないことでもあったのか?」
なんて笑いながら私を招き入れてくれるだろう。いつもそうしてくれたように。
あの人の顔を思い浮かべる。
その笑顔に何度魅入られ、その優しさに何度心が洗われ、そして何度繋がりたいと願ったことだろう。あの人も、同じように願ってくれていると思っていた。
でも、そんなのは全部嘘だった。夢物語だった。幻だった。
「あなたは……何も悪くないよ」
悪いのは全部、私だから。
私は未だ十五歳。大人になるまで、我慢できなかった、私のせいだから。
そう……これから起こることも全部私の責任。
玄関の扉の向こうから、トントントンと駆け寄ってくる音がする。
私は、背中に隠した包丁の柄を握りなおした。興奮冷めぬ心を落ち着かせるために、目を閉じた。
直後、ガチャリという音と共に扉が開かれた。
「どうした矢崎? また授業でわからないことでもあったのか?」
優しく、心に響く、低い声が私の脳を刺激する。私は目を開き、視線をあげた。
見間違うはずもない、恋い焦がれていた先生の姿が現れる。いつも通りのぼさぼさの髪の毛と柔らかい眼つき。剃り残した不精髭が見受けられ……とても可愛く見えた。
(いけない……)
震えそうになった全身を意識の中でしっかりと抑え込む。
可愛いなんて思ってしまったら、彼の全部独占したくなってしまう。
その目に見えるのは私だけ、その口で甘い言葉を囁くのも私だけ、身体に触り触られるのも私だけ。みんなみんな私だけ。私だけ……私だけ……私だけ……。
他の女なんか入る余地なんてないくらい、頭の中を私のことでいっぱいにしたい。
「矢崎?」
しゃべらず、じっと目を見つめる私に、先生は頭を捻る。
そうやって先生の目をじっと見ていると、三日前に告白した時に言われたあの言葉が沸々と蘇ってきた。
――『矢崎、それは恋であっても、愛ではない。その恋心は一過性のものだ』
――『誰にでもそういう時期はある。だからもう一度よく考えるんだ』
この胸の内から湧き上がる感情が、憎しみなんだということを、私はその場で理解した。そして、『愛しさ』と『憎しみ』が表裏一体であることを、身をもって学習した。
そうだ。『愛しさ』と『憎しみ』が表裏一体なら、憎しみが深いほど愛しいと思っているわけで……。この感情が、先生の言うような一過性の恋なんかではなく、真実の愛であることを証明できる材料になる。材料が揃えば、あとは証明するだけ。髪を切る、爪を剥ぐぐらいでは、この覚悟は伝わらない。
方法は、すぐに思いついた。
「先生……私は先生のおかげでわかりました」
「矢崎?」
「私が……先生を本当に愛していることを……」
背中に隠していた包丁を取り出す。夕日を受け、刀身が鮮やかな紅に染まっていた。
「矢崎……何するつもりだ。止めろ」
「それでも、先生が私の想いを嘘だと、偽りだと否定するなら……」
「嘘だろ矢崎。止めろ、止めてくれ」
先生は急に膝に力が入らなくなったように座り込み、腕の力だけで後退し始めた。私はそんな先生を見据える。
たぶん先生からは逆光で、私の表情は見えていないだろう。だからあんなに怯えているに違いない。怖がるはずなんてない。だって、私はさっきからずっと、笑っているのだから。
「証明します。私の……愛を……」
包丁を利き手に握りなおす。切っ先が淡く光を放ち、昨日の手入れがしっかりと行き届いているのを確信した。
そして、その切っ先を向けるのは……。
「おい……何する気だ……」
「先生……私は先生のことが好きです。愛しています」
――だから、私と愛を交わしてください。
先生の必死な叫び声も、私自身の鼓動も、夏の蝉しぐれも、私の耳には聞こえていなかった。ただ心の中は幸福感や満足感で満たされていた。ただただ、先生と共に歩むことができる希望に心を奪われていた。その希望の前では、私の左手の小指を切り落とした苦痛や、溢れだす血液は、些細すぎる問題だ。
ね? そうでしょう?
どうも、仲間梓です。
自分の作品を読み返していて、『同じような作品しか書いていないな』と思ったので、いっそ真逆のベクトルの方向を向いてみました。
今回のテーマは『狂気』です。
矢崎少女の狂気が少しでも伝わればと思います。
それではまた。