神の社
今ではこの街で、住人も何人かになってしまいましたが、昔は沢山のビルが立ち並び、何万人もの人が住んでいました。
いつしか町の大きな炭鉱が廃坑となり、みんな、この町を去ってしまいました。
残されたのは、何処にも行くことが出来なくなった、老人ばかりでした。
たいそうな賑わいを見せた商店街も、草木に覆われてシャッターが閉じられ、開いている店はありませんでした。
以前は舗装された立派な道路もひび割れ、その両側をススキが覆い、その真ん中だけが、老人達がようやく歩けるほどの細い道があるだけでした。
廃墟という言葉がふさわしいほど、街中は埃っぽく人気がありませんでした。
その町から、一番近くの町までは、何十キロも先で、一日一回バスが、出ておりましたが、乗る人も降りる人も殆どありませんでした。そのバスのみが、外の世界との入り口で、物資はそこから運ばれるのみでした。
人口がこれ以上少なくなると、いつ廃止されてもいいような路線でした。
そんな町の一日一回の、バスから、一人の男が降り立ちました。
バスの運転手は、しきりにその男の素性を、知りたがりましたが、男は、笑うばかりで何も答えることはしませんでした。
確かに、滅多に知らない人間など乗せることのない運転手が、何の用件でこの地に敢えて降りるだろうと訝るのももっともなことだった。
男は去っていくバスに手をふると、肩から背負った、登山でもするような大きなリュックサックを、脇に抱えて草木に覆われた、細い道を歩き始めました。
地図を片手に、がたがたした土のむきでた道をゆっくりと、ひっかからないように、踏みしめるように歩きました。
道は地図とは大分違っているようで、その男は地図を上にしたり下にしたりで右に行っては戻り、左に行っては戻りを繰り返していました。
その男の身長は高くなく、まあどちらかというと低いほうで、小太りで、分厚い眼鏡をかけていました。
年齢はおよそ40歳に見え、大分疲れているようにも見えた。
男のその姿は傍からは、この田舎の中で完全に浮き上がっていた。
男がこの町に住んでいる人の家を通り過ぎようとすると、大きな犬が警戒するように唸り声をあげた。
足早に男が通り過ぎようとすると、その犬はついに我慢できなくなったのか、あらん限りに吼え始めた。
その家の住民が、何が起こったかと思ったのか、出てきて男の後姿を、じっと怪訝な表情で見送った。
その視線は、背中に痛く突き刺さった。
空気は、何処と無くよどんでいるように見え、崩れかけた建物が、至る所に散在していた。
いやに埃っぽく、何か古いハリウッド映画を見ているような、そんな雰囲気だった。
実は、この土地はこの男、大川の生まれ故郷でもあった。
生まれてすぐの二三年しかいなかったが、写真でよく見た光景とは、想像できないほど、寂れていた。
大川は不動産屋からもらった地図と、現実の町の様子とは、大分、かけ離れているようで、地図と町をしきりと見比べていた。
これから行こうとするところが地図ではわからないと見えて、しきりにきょろきょろとしていた。もう既に利用されなくなった郵便局を見つけると、確信するかのように頷き、今度はしっかりとした足取りで、歩き始めた。
バスを降りてから、一時間ほど地図と格闘しながらたどり着いたのは、小さな岩だらけの山と川幅が10メートルほどの小さな川に挟まれた、拓けた場所にでた。
その広場一面に、草木が生い茂り、その隙間に、平屋の壊れかけた家が建っていた。
その家の前に大川は立つと、大きなリュックサックの中から、写真を取り出し、見比べた。
その表情は、見る見る暗くなっていった。
写真と、その土地は、まるっきり違うものでした。
どうやら、合っているのは、土地の面積だけだった。
地面には草が生え、葦が生い茂り、地面は石だらけで、湿った敷地は小池が散在した。
大川は、再び土地のパンフレットを見た。
「広大な土地と広々とした家、第二の人生を送ってみませんか。超格安、一千万円で、1000坪の土地と、宅地を手に入れるチャンス、これを逃す手はありません。」
なんとも仰々しく魅力的な広告であった。
大川が、田舎に家を購入しようとしたのは、毎日の仕事に追われ、体を壊したことが、第一の引き金になった。
広告の出た、都内の不動産屋に行ったのは、その広告が出てから、二日後の日曜日だった。
広告の案内にしたがったそこは、本当に小さな、地元の不動産屋であった。
最近出来たと思われるほど、新しく、壁中に不動産情報が張られ、特に目を引いたのは、優雅な地方暮らしというキャンペーンのコーナーであった。
店主は、大柄で大分肥っていて、口につばをつけているようなねっとりとしている人であった。
「いらっしゃい。」
甲高い陽気な声であったが、目の奥が曇っているようでどことなくインチキ臭さがあった。
それでいて、人を値踏みするような目をしていた。
「ははっ、優雅な田舎暮らしのキャンペーンを見てきましたね。」
大川は頷いた。
「日本全国何処でもありますよ。一番いいのは、農業がすぐにでも出来る土地です。
よくいるお客さんは、自分の出身地を選ぶ人が多いですね。お客さんはどちらの出身ですか。」
大川は、自分の生い立ちを思い起こした。父は、牛乳会社に勤める、サラリーマンだったため、田舎の工場を転々としていた。今はその会社も、牛乳部門が別の会社になって、元の優良会社の面影はなくなっていた。
懐かしい気がして、幾つかの土地の名前を言った。
「おおっ、その土地でしたら、いい物件がありますよ。土地は1000坪、バス停まで、10分、平屋ですが、5LDKといった物件で、優雅な建物です。そうそう写真もありますよ。」クリアファイルから、店主は写真を取り出した。
広々とした農地に、優雅な、家屋が建っていた。
背景には、美しい山並みが広がり、空気も本当に澄んで見えた。
大川は、その物件を見るや、一目ぼれに近い感覚を覚えた。
「どうです、素晴らしいでしょう。大川さんが小さい頃住んでいた、町ですが、今は、炭鉱が廃坑となって、大分人口が減っているようですが、だからこそこんなに安く提供できるのです。この広々とした、土地が、あなたのものですよ。このまま農業をするもよし、庭にするもよし、ここには、都会にない優雅なセカンドライフを満喫できるのですよ。その上、以前、ここで農業をやっていた人が、残していった、トラクターとか、農業に必要なものは殆どそろっているとのことです。これは、町役場からの話ですが。ということは、殆ど、着の身着のまま行っても大丈夫ってとこでしょうか。」
納期に追われて、忙しい日々を送っている、大川には、あまりにも魅力的であった。
それを見て以来、大川は、その土地を本気になって買おうと思った。
まだ、見てもいないのに、不動産屋の言われるままに、大川はその物件を購入した。
それ以来、会社を退職するまではさほど時間はかからなかった。
周りの人々には、不動産屋からもらった写真を見せ、羨ましがられ、大川は本当に、熱に浮かされたように、まだ見ぬその土地に夢中になった。
大川には何も失うものは、家も家庭も、繋ぎ止めているものは何も無かった。
そもそも、大川には、愛されたという記憶が、一度も無かった。
また、愛したという記憶も無かった。
会社への愛着心も友達もほとんどいない大川を止めるものもいなかった。
退職して一週間後には、あっさりと家を引き払い、旅路についたのだ。
大川は呆然として、目の前に広がる光景を、見つめていた。
「だまされた。」そう思うしかなかった、買う前に、一度見ておくべきだったのだ。
一千万で買えるこんな魅力的な土地など、今の日本には、無いはずだったのを、気がつくべきだったのだ。
呆然として自分のものである家の前に立ちつくしていると、遠くから、一人の老人が、軽自動車でやってきた。
「よく、こんな辺鄙なところへよく来たな。」老人は、明るく、大川が落ち込んでいる様子には頓着せずに、話しかけて来た。
「それにしても、新しい地主が決まったって聞いたけど、よく買ったものだ。ここは、去年の夏の洪水で、何もかもが流されてしまった。それまでは農地としては、いい土地だったのだろうけど、ここに住んでいたのも、洪水の後に、都会へ出て行ってしまった。わしは、あそこに住んでいるから、いつでもたずねてくるといい、隣同士仲良くやりましょう。」と老人は、川向こうの立派な農地のずっと先に、点のように小さな家を指差して、言った。
そして、老人は、大川と自分の土地を、分けるように、大川の土地の境界を、教え始めた。
境界は、明らかだった。洪水で駄目になった土地は大川で、そうでない土地は、老人のものだった。あまりにもあからさまで、老人が大川を馬鹿にしているのかと、思ったりしたが、どうやら、本気で教えているらしかった。
大川は老人が教えてくれるまま、自分の物になった大きな土地をついて歩いた。
老人は、捨てあった棒切れで地面に線を引きながら、大川の土地を一周して、家の前に来ると、今度は、大川に家の鍵を渡した。
どうやら、大川が来るまでは、ここの管理をしていたようである。
家の白い壁には、去年の洪水の時に、ついたであろう水の痕がついていた。
家の中は、比較的綺麗で、どうにか人間が最低限住める環境にあるようだった。
「たしか、トラクターとかあるって聞いたのですが。」
大川はこの悲惨な状況に抵抗するかのように、ぼそりと言った。
「ああ、この裏に倉庫があるで、でも、殆ど動かない、エンジンが水に浸かって使いもんにならない。動かすには大分、手を入れなければならないなあ。ここで農業をするには大変だろうけど、納屋には、一通り道具はそろっているのでなあ。時々、手伝ってやるでなあ。」
老人は、あくまでも陽気であった。
「車は持っているなあ。」老人は、大川にたずねた。
大川が首を横に振ると、驚いたのかあきれたのか、眼をびっくりしたように大きく見開いた。
「なんとも、ここでは、車がないと、大変だなあ。買い物に行くにも、ここから一番近くの町でだって、50キロはあるなあ。まあ毎日ここに声をかけてやるから、欲しい物があったら言うでなあ。まあ、あまりに今までとかけ離れた生活をするのだから、逃げ出さんよう頑張ってなあ。あと飢え死にもなしでな。あとが大変だから。」
老人は、大川が明日にでも嫌気がさして、いなくなるのではと思っているようであった。
実際、大川は来るまでの希望は既に無かった。それどころか、あまりにも自分の無計画ぶりに、穴があったら入りたい気分であった。
老人は、そういうと、近所付き合いが嘘のように、結局名前も告げずに、帰っていった。
大川は、小さくなる車を見送ると、我が家を振り返った。
多分、若い農夫が希望にあふれて、生活していたのだろうと思われる、三輪車や家族全員のハートマークの傾いた表札がかかっていた。
明日には、家具や食べ物が到着するはずであった。
大川は、玄関を開け、これからの、生活をすることになる家へと、足を踏み入れた。
陽の光は、柔らかく、こげ茶色になった畳に、射しこんでいた。
どうも、座る気にはなれなかったが、ダイニングキッチンにテーブルと椅子があった。
こちらは、まだ座れそうであった。
水道の蛇口をひねると、大きな咳でもするかのような音が数回して、茶色の水が出てきたが、暫くすると、澄んできた。
どうやら飲めそうであった。
電気も、かろうじてつながっているようで、ガスもとりあえず出るようであった。
まだ、だまされた割には、幾分良心的であった。
とりあえず、大川は掃除を始めた。
とても綺麗になるとは思えないほど、汚れていた。
大川には、ここしかなかった。もう行くところが無かった。掃除をしながら、ここで頑張るしかない、と思った。
ものすごい孤独感が襲った。
翌日には、家具が運び込まれ、大分、人間が住めるようにはなるだろう。
そして、少しでも畑を耕す必要があった。それと、買い物用に車が必要であった。
少し落ち着いたら、車を買いに行こう。大川は思った。
それからの一週間は、大川にとって、とてつもなく忙しかった。
家具の据付や、掃除に、何より、畑の草刈が大変だった。
近所に住んでいる老人は初日に来て以来顔を見せなかった。
朝早く、石と草だらけの畑から、ずっと遠くの綺麗な畑の先にある老人の家から立ち登る細い煙が、そこで生活している老人の存在を、知らせるだけだった。
大川は、ようやく、町に行く決心をして、再び、リュックを背負い、一日一往復のバスに乗った。
バスには誰も乗っておらず、ひたすら、田舎道を50キロの道を3時間かけて、町に着いた。
町は、小さく、人口もおよそ一万人に満たないだろうと思われ、望むものが、獲られるのか、わからなかった。
中古の軽自動車のバンを買い、食糧を買うと、既に帰りのバスの時間が近づいていた。
リュクは一杯に膨らんでいた。通りを歩く人々は本当にまばらで、通る人それぞれが、大川を異様な目で見ていった。
商店街の、看板だけがいやに目につく。こんなところで、商売が成り立つのだろうかと大川は思った。
30分ほど遅れて、バスがやっと来た。
まったく田舎はこれだから困る、と大川は運転手を睨み付けた。
運転手は悪びれる様子もなく、ドアを開けた。帽子をはすに被り、腰はバスのシートに深く座り、せわしげに、マニュアルをカチャカチャと切り替えていた。
殆ど、暴走族みたいである。
重い荷物を、背負い、大川はバスの最後尾に座った。
バスに揺られながら、大川はこのあまりの悲惨な状況を振り返り、この後の生活を想像してみたが、何の展望も思い浮かばなかった。
新居への道のりは遠く、いつまでたっても到着しないのではと思えるほど、遠かった。
車内は暑苦しく、空いた窓からは生暖かい風が吹き込んでくる。
汗がとまらず、意識が朦朧としていく気がした。
陽がだいぶ傾くと、大川の畑が見えてきた。
畑というより、河原であった。夕日に照らされて、それなりに美しく映える。
ぼーっとした目でよく見ると、大川の畑に小さな古ぼけた社があった。
「なんだろ、あんなのあったかな。」
大川は、この一週間、その存在に気がついていなかった。
社は、大川の土地のど真ん中にあった。
どうして気付かなかったのだろうか、草原を見渡せばそこだけぽつんと飛び出しているために、必ずわかりそうなのだが、大川は社に近づくと、あちこち覗いて見た。
高さは1メートルほどで、驚くほど古めかしかった。
社の中を見ると、中は薄暗いが、割れたお皿と、もう読むことも出来なくなった札が、貼られていた。
畑の真ん中に社があるなんて見たことはなかった。家と比較しても、大分古く感じられた。
なぜこんなところにあるのだろうと、不思議に思った。
使われている木はすっかり灰色に覆われ、板はところどころ穴が開いていた。
明日には直してやろうと、大川は思い、家へと帰った、帰る途中で振り返ると、夕焼けにその社が、浮かび上がっていた。
確かに、その社の存在を昨日まで気がつかなかった。
その先には、あの老人の家から、夕餉の仕度をしているのであろうか、煙が立ち昇っていた。
翌日は、朝早く目が覚めると、大川は、草刈を始めた。
草の根は深く、取り除くには、かなりの力を要したが、大川は、辛抱強く引き抜いていった。
何時終わるともない、その作業に、今まで、たるんでいた筋肉が悲鳴を上げていた。
夕方には、畑の五分の一ほどを終えたところで、大川は昨日の社の修復にとりかかった。
社の構造は単純に、板を張り合わせて作られていた。
裏の倉庫に積まれていた、板をのこぎりで、同じ大きさに切り、割れている板と取替えた。
社は、釘は一つも使われていなく、板の張り合わせで、作られていた。
外した板は、力を入れることなく、簡単に外れる仕組みになっていた。
毎日、少しずつ修理していこうと大川は思った。
一つの板を取り替えて、大川は、ふと後ろに、何か気配を感じて、振り返った。
丁度、大川の真後ろに、ちょこんと子犬が、大川を見上げるように、尻尾をふって見上げていた。
こげ茶色の精悍な顔をした、本当に小さな子犬が、そこにいた。
なんとかわいい子犬だろう、ハスキー犬の一種だろうか、大川が手を差し出すと、その手に絡みつくようにじゃれついてきた。
大川が抱きかかえると、その軽さにさらにびっくりした。
「お腹がへっているのかい。」
多分、話しかけても解らないだろうなと思いながら、子犬の頭を撫でながら言うと、子犬はクーンと甘えるような声で、大川の顔を舐めまわした。
大川は、子犬を抱えて、家に戻ると、冷蔵庫から牛乳をボールに注ぐと、子犬は、そうとうお腹が減っていたのだろうが、一気に飲み干した。そして、もう少し、ねだるように、大川を見ると、小さく口を開け大川の指を舐め始めた。
さらに、大川は、ボールに牛乳を注ぐと、それもまた飲み干してしまった。
毎日この調子で、牛乳を飲まれると、あっという間に、冷蔵庫の牛乳は無くなってしまいそうであった。
買うには、50キロ先の小さな町の、スーパーに買いに行かなければならなかった。
購入した車の納期は二週間後で、それまでは本当に不便な生活を強いられそうだ。
子犬の飲みっぷりを見て、泣きたいような不安にかられた。
少し子犬は満足したのか、無邪気に大川にじゃれ付いてきた。
その日から、子犬は、大川から片時も、離れようとしなかった。
寝るときも、畑で草を刈っているときも、いつも一緒にいるようになった。
夕方になると、大川は社の修理をした。
夕飯時には、冷蔵庫に入れていた牛乳はなくなっていた。
田舎の夜は早く、陽の光が遠くの峰に隠れると、あっという間に夜になる。
テレビは見ることは出来なかったが、ラジオの電波は届くようである。
携帯も、どうにかアンテナが一本だけは届くようであった。
散々、犬とじゃれ付くと、明日の予定を頭の中で想像し、眠りについた。
畑になるには、まだまだ先のことであった。
多分、一年先か、もしかすると畑になるには、二年先かもしれなかった。
月の明かりが、ガラス越しに、まるで昼間のように差し込んでくる。
だまされたと思うと、なんともやりきれず、身内も知り合いもいないこの地で、言いようのない孤独感を味わっていた。
枕元では、子犬が、安心しきったように、腹を上にして、寝息をたてている。
一人でいるよりどんなにか孤独感が和らぐか、もし一人でこの月を見ていたらと考えるとこの子犬が本当にいとおしくなってくる。
そういえば、まだ名前をつけていなかった。
犬らしい名前を、思い浮かべるのだが、どれもぴったりとした名前にはならなかった。
何か、茶色の毛に精悍な顔つきで、今まで見てきた犬とはどこか違う、変な犬だった。
まあ、太郎にしとこう。大川は、月明かりに映し出されるその子犬を見て、思った。
明日には、又、町に行って、この子犬の牛乳や、食料を買わなければならなかった。
そう考えると、自然に心が落ち着き、眠りが襲ってきた。
どれくらい時間がたっただろうか、子犬の太郎が、しきりと大川の顔を、舐めるので、目が覚めた。
どうしたのだろと思えるほどの、じゃれかたであった。
大川は、月の薄明かりの中で、子犬の太郎を、布団の中に引き寄せた。
それでも子犬は、布団を這い出ようとした。
何かの音に反応しているようであった。
遠くから、牛の鳴き声が、聞こえる。
なんだろう今頃、大川は、立ち上がると、明りを点けた。
牛の鳴き声は更に大きくなり、どうやら家の傍まで来ているようだ。
玄関の扉が、大きく叩かれる。
子犬の太郎は、顔見知りが来たかのように、玄関で大きく尻尾をふり、大川を、振り向いて、早く開ける様にねだっているようであった。
「どちら様ですか」大川は、扉の外に声をかけた。
「近所に住むものですが、牛が逃げ出してしまって、どうにか見つけたのですが、家まで運ぶには、夜も遅いので、一晩とめてくれませんか。」
その声は、歳をとっていて、今にも、消え入りそうな声である。
子犬の太郎の太く長い尻尾が嬉しそうに振る様子は、外の人が決して怪しい人ではないことを、証明していた。
大川は、鍵を開けると、玄関の扉を開けた。
そこには牛の手綱を持った、日焼けして、真っ赤になった、小さな老人が、心細げに立っていた。
大川は老人に家に入るように、手招きした。
老人は、玄関先の扉の端に牛の手綱を結びつけると、しっかりとした足取りで、家へと入ってきた。
子犬の太郎は、本当に嬉しそうに、老人に頭をなすりつけていた。
居間に通すと、大川は、お茶とお菓子を出すと、びっくりするような速さで、食べ始めた。
「おいしいのう。こんなおいしいもの食べたことがないのう。」
みるみる、お菓子は無くなり、すっかり無くなると、ほっと一息つき、お茶を飲み干した。
「夜分に申し訳ないのう。」
老人は本当に申し訳なさそうに、大川を拝むように両手を合わせて、頭を下げた。
「おじいさん、いいですよ。気にしなくても、ここには、つい何日か前に引っ越してきたばかりですし、一人身ですので、お気になさらないでください。」
大川はそう言うと、来るはずないと思っていた客用の布団を、部屋の一つに敷いた。
特に、大川は、老人のことを聞くことも無く、部屋に案内した。
老人は、更に恐縮するように、大川に一礼すると、部屋に消えるように、入っていった。
子犬の太郎は、大川の傍に、ついて歩いたが、その歩きは、何か知性を感じさせる、歩き方で、まるで何十年も生きたような歩き方であった。
大川は改めて、明りを消し、子犬の太郎とともに、布団に入った。
家は、客がいるとは思えないほど、静かであったが、時折、外から、牛の鳴き声が、聞えた。
その鳴き声を、聞きながら、大川は再び眠りについた。
朝になって、大川が布団から起き出すと、老人はもう既に起きていて、牛のミルクを、子犬の太郎に与えていた。
「おじいさんおはよう。」大川は、老人に声をかけた。
「おはよう、昨晩は、ありがとうでのう。」
小さな声で、大川に、申し訳なさそうに、言った。
老人は、コップにいっぱいの牛のミルクを、大川に差し出した。
大川は、コップを受け取ると、匂いを嗅いだ。
ふっくらとした、おいしそうであった。
大川は、今まで加工していない牛乳を飲んだことが、無かった。
少し、不安を覚えたが、子犬の太郎が、美味しそうに飲む様子を見て、口に含んだ。
甘くふっくらとした、今までの飲んでいた牛乳が、安っぽく思えるほど、美味しかった。
一気に飲み干すと、老人の顔に笑みがこぼれた。
「どうじゃ、おいしいじゃろう。」
大川は、その美味しさに、コップを老人に差し出し、もう一杯飲み干した。
朝食を終えると、大川は、老人に別れを告げ、畑の草むしりに出かけた。
老人は、いずれ、帰るであろうと、そのまま広い土地に生い茂った、草を、むしり始めた。
暫くすると、老人が、鍬を片手に、大川のいるほうに歩いてきた。
「のう、そんな草取りしても意味がないでのう。根っこからとらないと、次からつぎへと、はえてくるでのう。」
そう老人は、言うと、鍬を、草の根に、ざっくりと振り下ろした。
見事なまでに、草は地面をはがれた。
確かに、大川の草を抜いた跡を振り返ると、草が成長を始めているのがわかった。
老人の鍬を振る姿は、見事なまでに完璧で、あっという間に、地面が掘り返されていく。
大川は、抜いた草を片手に持ちながら、老人の鍬を振る姿を、見ていた。
「かなわないな。」大川はそう思うと、草むしりを止め、畑の石をどけ始めた。
今までとは見違えるくらい早く、作業がはかどっていくようであった。
子犬の太郎は、大川と老人の間を駆け回り、少しでも興味のあるものをほじくりまわしていた。
昼時には、大川はおにぎりを作って、老人の元へと運んだ。
老人は、鍬を下ろすと、畑の畦に腰を下ろして、大川の差し出す、おにぎりとお茶を受け取った。
老人は、ぼろぼろの麦わら帽子をとり、大きく深呼吸をした。
大川もつられるように、空を見上げて、同じように、深呼吸をした。
空には、雲ひとつ無く、抜けるような青空が広がっていた。
太陽は、柔らかい光を投げかけ、畑に広がる、伸びきった草が風に揺らいでいた。
「それにしても、本当に美味しいのう。こんな米は初めて食べた。」
「コシヒカリですよ。それに最近の電子ジャーは更に美味しくしてくれるのです。」
「こしひかり。初めて聞く名前じゃやが、これは昔からおにぎりというでのう。」
ああ、話が食い違っているなと、大川は思い、コシヒカリがお米であることを説明した。
この爺さん農業をやっていて、コシヒカリも知らないのかと、不思議に思ったが、まあ、お米を作ってなければわからないかもと、大川は勝手に解釈した。
「おじいさん、今日はありがとう。」
大川は、本当に感謝しながら、老人に言った。
「いやいや、それよりも、ここを畑に戻すなんて、少し無謀な気もするが、そんなへっぴり腰じゃ何時までたっても畑にはならないでのう。」
大川は、その言葉に、恥ずかしくなり、顔が真っ赤になるのがわかった。
「それでのう。昨日、牛が逃げ出したというのは、あれは嘘でのう、この近所に住んでいるものでのう。家族はいなく一人暮らしをしていてのう。先日、火事で焼け出されて、行き場がなくなってのう。家を建て直すまで、ここに置いてくれんかのう。その代わりといってはなんじゃが、畑の手伝いと、毎日の、牛乳をあげるでのう。」
老人は、ゆっくりとした口調の中で、少しはにかむように、大川に言った。
大川にとってあまりにもいい話であった。
「おじいさん、そんな願いなら、こちらからお願いしたいくらいです。実は、農業は今までやったことが無くて、どうしたらいいか途方にくれていたのです。家も、自由に使って構いません。宜しくお願いいたします。」
「それじゃ、裏の小屋の隣に、牛小屋とわしの住処を作らせてもらっていいかのう。」
「おじいさん、それじゃ申し訳ないので、どうか家に住んでくれませんか。」
「いいのじゃよ、わしは牛と一緒がいいでのう。そうそう、紹介せんかったが、わしの名前は、権左衛門というでのう。まあ権じいとよんでくれでのう。」
大川は、ようやく老人の名前を知ることが出来た。そして、自分を紹介すると、老人と大川の間を跳ね回っている太郎を紹介したが、既に権爺には、既に知っているかのようであった。
老人と話していると、何か不思議な気持ちにさせられた。何もかも見透かされているようで、何か時間をも超越しているようなそんな感じであった。
昼食を終えると、二人は、再び草取りを始めた。
権爺が草を獲り、大川が、掘り起こされた石を取り除くといった風に、夕方まで、続け、夕方になると、権爺は牛小屋造りと、大川は社の修復へと、別れた。
それからというもの、同じような日々をすごしていったが、老人は自分の家の建て直しをする様子は、ほんの少しも無かった。
ようやく、待ちかねていた軽自動車が納車された。
食料も、これで、バスの時間を気にせずに、買出しにいくことが出来ることになり、大川は、一安心であった。
権爺も、免許も無いのに乗りたがり、子犬の太郎と、車の辺りを走り回った。
家に戻ると、玄関先に、夫婦と思われる大人と子供二人が不安そうに立っていた。
子犬の太郎は、開いた窓から、飛び出して、少し離れたところから、睨むように様子を伺っている。
車を車庫に入れると、権爺と大川は、何事かと近寄ると、大きな荷物を抱えた若い夫婦と小さなリュックサックを背負った子供が二人不安そうに立っていた。
「どうしました。」
大川は、つぎはぎだらけの服装に、目をやらないように、したが、どうしても、そのあまりにも貧乏そうな服装に眼が行ってしまう。
「ええ、私達は、この近くに住んでいるものですが、このところの、不景気で、どうしてもここで生活が出来なくなってきました。私達二人とも、ここで、生まれ育ったのですが、ここを離れるのは忍びないのですが、都会に出て、二人だけでも生活できるまで、頑張ろうとおもっているのです。でも、この子らが一緒だと、どうしても生活が出来ないので、どうか一年でいいですから、この子らを預かってくれないですか。あつかましいとおもうでえしょうが、お願いします。」
あまりにも切羽詰った様子である。
大川は、困った顔で、権爺を見たが、権爺はことの深刻さを理解していないのか、にこやかな顔を大川にむけているだけだった。
夫は、頬を赤くした細身で純朴に見え、奥さんは、少し受け口のたいそう綺麗な女性であった。
「そもそも、都会に出て、何をしようというのですか。」
「まだ、考えていないのですが、何かしらあるのではと思って。」
「住む所は決めているのですか。」
大川は、その若夫婦の無謀さに、少しあきれてたずねた。
「それもまだ。」
大川の顔が曇るたびに、夫婦の言葉が、小さくなる。
子供達は、子犬の太郎とじゃれて、駆け回り始めた。
無邪気なものだ。大川は思った。
「子供達は幾つですか。」
「四歳と三歳です。」
それまで、夫の背後に隠れるようにしていた奥さんが、夫より更に小さな声で言った。
「どうして、私のところなのですか。」
大川は、遠い向こうにいる老人の家ではなく、住んで間もない自分のところに来たのか、不思議になってたずねた。
「むこうのじいさんは、小さい頃からよく知っているのですが、今まで、一度だって、話したことがないので、こっちはいつのまにか、子犬や、老人や、牛が増えて、畑がだんだんと出来上がっていく様子は、傍から見ていて、輝いて見えたものですから。ここならば、子供達も快く引き受けてくれるだろうと思って。」
「それは、あまりにも都合よすぎませんか。お幾つかわかりませんが、子供をこうも簡単に人に預けて、いけるなんてありえないじゃないですか。」
「でも、私達の生活は、既にどん底で、もうどうしようも無くなっているのです。収入を期待した収穫物ももう二年も何も採れないし、どうですこんなつぎはぎだらけの服しか着られないのです。食事だって満足に子供らにあげることすら出来なくて。」
ついに、夫婦は泣き始めた。
大川は、その泣く姿に途方にくれた。
「まあ、泣いていたってしょうがないじゃないですか。ここで話すのもなんですから、家の中で話しましょう。」
大川は、そう言うと、その若夫婦を家の中に招き入れた。
若夫婦は、恐る恐る、入り、家の中を吟味するように見渡した。
若夫婦に続いて、権爺と、子犬の太郎と、それを追うように、子供が二人家の中に入ってきた。
居間のテーブルに座っても、若夫婦は、まだ泣いていた。
「何の計画も無く、何の就職先も決まっていないのに、無謀な事をしようとするのかのう。」
老人は、二人を心配そうに、二人を見ながら言った。
「あなたがたには、わからないのです。こんな道楽で農業の真似事をして、優雅に暮らしているのに。私らは、これ以上のない貧乏を味わって、こんなことってありますか。」
道楽で農業の真似事をしているという言葉に、大川の胸は痛んだ。
確かに、畑をつくろうとはしているが、単に草をむしっているだけで、何の作物を植えようとか、何を作ろうとか言うことは、全く無かった。確かに道楽といわれてもしょうが無かった。
それと大川は、この二人が、都会に出て、どんな人生を送るのか、想像してみたが、どうしても、幸せな人生を送るとは思えなかった。
「確かに、私のしていることは、道楽に見えるかもしれませんが、道楽でここを畑にしようなんて、決して思っているわけではありません。お金だって、あなた方が思っているほど持っているわけでもないです。」
なんか言い訳がましく聞えてきた。
「もし良かったら、お子さんをここに置くだけでは無く、都会で就職先を決めて、四人で行けるまで、ここで一緒に手伝って頂いてもいいのですが、私は、農業を全く知らないわけですし、あなた方は農業をやっていたわけですから。お金は差し上げることは出来ませんが、三食と、着物、部屋と就職にかかるお金はこちらで持ちますが、どうでしょう。」
二人は、うなだれたままだった。
子供達は、子犬の太郎と、まるで昔からここにいたように、家中を駆け回っていた。
若い夫婦が言葉を発するまで、かなりの時間を要したが。二人に会話は無くても、結論は出ていたようであった。
一度に四人の、見知らぬ人を、受け入れるなんて、自分でも、無謀と思ったが、最初に、子犬の太郎と、権爺と牛を受け入れたときから、全て受け入れる予定になっていたようであった。
「お願いします。」若夫婦の二人は、諮ったように同時に声をだした。
「じゃ、あなた方は、居間の先の台所の向こうに、離れがありますから、そこをあなた方の部屋にしましょう。
辺りは、次第に薄暗くなってきて、急に蝉が鳴き出したように、家中を覆った。
若夫婦が、自分達の部屋に、荷物を下ろしたころには、陽は完全に落ちていた。
権爺と大川は、新しい来訪者への夕飯をつくった。
その晩の夕食は、これまでに無いほど、賑やかで、大川は初めてここに来たときの、惨めな心細さが嘘のように、楽しい夕飯であった。
大川は、そっと心の中で、ずっとこのままでいけるようにと、祈っているのを感じた。
若夫婦の名は、砂川さんと洋子さん、子供二人は、ミサと翔太と言った。
翌日になると、早速大川は、ぼろを着込んだ四人の服と食料を買いに町へ出た。
小さな軽自動車に一杯に、詰め込み、四時間ほどで戻ることが出来た。
戻ると、子犬の太郎と、子供達が駆け寄ってきた。
軽自動車のトランクから出てくるものを見ると、子供たちが歓声を上げた。
畑から、草を抜いている権爺と、畑の隅の十坪ほどを畑にしようと耕していた砂川さんが顔を上げる。
家の中から、洋子さんが、洗い物をしていたのか、汚れた前掛けで手を拭きながら、嬉しそうな顔をして現れた。
まるで、クリスマスプレゼントを配るサンタの気分だ。
大川が、家に入ると、権爺と砂川さんも、家に入ってきた。
昼食の準備はすでに出来ていて、いつでも食べられるようだ。
昼食をとる間もなく、砂川さん家族が、着替えを始めた。
権爺も、大川の渡した、作業着を嬉しそうに、抱えて、自分の大川の家の裏手に建てかけの小屋に戻っていった。
20分もすると、みんな、見違えるように綺麗になって出てきた。
子供達は、胸のヒーローやヒロインのプリントを大川に自慢げに、見せじゃれ付いてきた。
権爺は、真っ白の作業着を、嬉しそうに頭を掻きながら入ってきた。
砂川さんは、部屋の扉を開けた瞬間から大川に、お礼を何度も言いながら、食卓についた。
最後に、洋子さんが、恥ずかしそうに、出てきた。
目を見張るほどの、綺麗さだ。
食事は、完全に冷めてはいたが、誰もが幸せそうで、子犬の太郎までもが、大川の膝の上で、嬉しそうに、頬を嘗め回していた。
「ありがとう、大川さん、何とお礼を言ったらいいのか。」
「お礼なんか、いいですよ。それよりこちらは、大助かりです。それにこんな美味しい食事を食べられるし、それよりも今まで、家族を知らずに生きてきたから、本当にうれしいです。」
外は、雨が降り始めていた。
あっという間に、部屋の中が暗くなり、雷が鳴っていた。
子供達は、テーブルの下に逃げ込み、頭を両手で覆っていた。
大川は、部屋の灯りをつけ、窓に近寄ると未完成の畑を、眺めた。
大粒の、雨粒が地面を叩きつけ、掘り起こしたばかりの、土からもうもうと埃を舞い上げた。
畑の遠くの端で、修理中の社が、霞んでみえた。
雷はそうとう近いところで、鳴り始めた。
家中が雷の音とともに、揺れていた。
一番大きな稲光が、畑の社に落ちた。
大川は、「落ちた。」とまるで独り言のように、言った。
権爺と、砂川さんが、近寄ってきた。畑にうっすらと細く、煙が立ち昇っていた。
家中が元の一人でいたときのように、薄暗く、静まり返った。
大川は、ボーっとしながら、窓ガラスに叩きつける雨を通して、畑を見ていた。
誰かが、ブレイカーを上げたようだ。
雨が止むまでは、さほど時間はかからなかった。
激しい雨が止むと、まるで嘘のように、夏の暑い陽ざしが射してきた。
畑を暑く熱し、水蒸気が畑と草むらの間を、たなびいている。
大川は社に向かうと、その焦げた残骸が、辺りに広がっていた。
一つひとつの祠の破片を拾い集めはじめた。
なんとなく心が飛び散ったような気がしていた。
丁度、屋根の残骸の、間に祠にあった像が濡れもせず、泥にも汚れずに横たわっていた。
その像は、阿修羅にも毘沙門天にも、弁財天にも見えた。
大川は、大事に持ち上げると、胸ポケットに入れた。
振り返ると、権爺は、せっせと畑の草むしりと、砂川さんは、家の傍で十坪ほどの土地を畑に変えていた。
もう畑は半分ほど草が取り除かれ、大分畑らしくなってきた。
遠くから、黒塗りのベンツが、猛スピードで近寄ってくる。
どう見ても、この田舎道には不似合いの車であった。
そうとう泥を跳ねていて、車の側面は、薄茶色に汚れていた。
大川の家の前につんのめるように止まった。
降りてきたのは、チンピラ風の二人の男で、肩をいからせて、アロハシャツにサングラスをしていた。
畑仕事をしている砂川さんにその二人が近寄ると、何か、話しかけていた。
しきりに砂川さんは、頭を下げていたが、どうも治まる様子は無かった。
大川は、どうもおかしいと駆け寄っていった。
「どういう了見かは知らないが、こんなところに隠れていやがって、散々探させやがって。」
大川が近づいていくと、若い方のチンピラが、大川に詰め寄り、胸倉をつかんだ。
「てめえか、こいつらをかくまっているのは。」
完全に切れている目であった。哺乳類とは思えない、どす黒い目をしたチンピラである。
サメに似ていると大川は思うと、副交感神経が刺激されるのを感じた。
「かくまっているとはどういうことですか。今の日本で、人間が逃げ隠れしなければならないことなどないはずです。それともこれはおどしですか。」
大川はやっとやっと言った。
「てめえのかくまっているやろうは、うちらに二千万の借金があるのだ、返済もせずに、逃げ隠れしやがって、さっさとこいつの家族を引き渡しやがれ。」
砂川さんは、うなだれるばかりで、しきりに頭をさげるばかりだった。
胸ぐらをつかまれていながら、大川は、最高級のベンツが目に入った。
こいつらまともに商売していないな。こんなチンピラがベンツなどにのりやがって。
大川は、つかまれた手を振り解いた。
「それにしても、こういう取立てが、本当にいいとおもっているのですか。既に、私の胸ぐらをつかんで、脅そうとしたことは、犯罪であることを、貸し金業のあなたたちが知らないわけはないですよね。」
30歳半ばに見える、もう一人の男が、大川のほうへ目を吊り上げながら見た。
精神が汚れていると、大川は思った。
やばいな、と大川は感じた。
ふと背後に人の気配がして、振り返ると、権爺が鋤を抱えて、いつでも飛び出せるようにたっていた。
大川は、それまでの緊張が嘘のようにとけ、不思議と笑い出したくなった。
「さて、砂川さんの事情も聞いてないし、あなたたちの事情も聞いてない。あなたたちは、砂川さんに二千万を貸したと言っているが、砂川さん、本当ですか。」
下げていた、砂川さんの頭が、ゆっくりと、上がって大川の顔を見た。
すがるような目だ。
「借りたのは、100万だけです。それ以上借りた覚えが無いのに、どんどん増えて。」
二人が砂川さんをにらみつけた。
「砂川さんは、ああいっていますが、本当ですか。もしそうだとしたら、完全に違法じゃないですか。」
「なにおっ。てめえは人から金を借りといて、しかもそれを踏み倒そうなどと考えやがって、逃げ出そうとしやがって、そっちのほうが犯罪じゃないか。」
若い方の男が言った。
「それよりお前は何か、弁護士か。」
「いいえ、ただの農夫見習いです。」
「アニキ、このちっこいの何か言っているぞ。」
若い風のチンピラは、自分の兄貴分の方をみて言った。
まだ黒い髪の、アニキと呼ばれたほうが、砂川さんから、大川へと体の向きを向けた。
権爺は、しきりと、大川の後ろで、自分の飛び出すタイミングを見計らっているように、大川の動きに合わせて、右に左にといった按配であったが、傍から見ると、どうも大川の背中に隠れているようにしか見えなかった。
そのアニキと呼ばれた男は、身長で、大川より頭一つ大きく、胡桃のような大きな目が、死んだ人間のように不気味であった。この不気味さに圧倒されてしまうのだろうなと大川は思った。
「なに。何か言ったか。」相当どすの利いた声である。
「ええっ。あなたたちのやっていることは違法ですといったのです。」
ここで引き下がると、状況は更に悪くなると大川は思った。
体中を、アドレナリンが駆け巡り、自然と手が震えてくる。
もう引き下がれない。うなだれる砂川さんを見て、大川は思った。
にらみ合いは続いていたが、相手のほうが圧倒的であった。
そんな状況が、暫くして、相手の目が、急に大川の目からそらした。
「又、明日来る。明日までに、二千万を用意するか、それともそこにいる砂川夫婦を引き渡すかどちらかにしろ。」
埒が明かないと思って、二人のチンピラが、今日は引き返すことにしたようだ。
斜に頭を傾げると、地面につばを吐き、二人は、泥で汚れたベンツに乗り込み、再び、泥だらけの道路を早いスピードで駆け抜けていった。
たぶん又明日、彼らは来るだろうと大川は思うと、思わず、大きなため息をついた。
砂川さんは、下げていた、頭を申し訳なさそうに、更に低くしていた。
「砂川さん、そう頭をたれていても、何も始まらない、家に入って、事情を聞こうじゃないか。」
大川はそういうと、砂川さんの、肩をなで家の中へ入るように促した。
家の中へ入ると、今のテーブルに、洋子さんが思いつめるように、テーブルの上を見つめていた。
まるで、みんなが入ってきた事を知らないかのようっであった。
テーブルについても、まるで葬式のように誰も言葉を発しなかった。
「すいません、迷惑をかけて。」
砂川さんが、今にも消え入りそうな小さな声で、言った。
大川は、何と言っていいかわからずにいたが、何か言わなければいけなかった。
今の隅では、小さな二人の子供が、子犬の太郎を間に挟んで、静かな寝息を立てていた。
「どうして二千万円も膨らんだのですか。」
「実際、借りたのは、100万円しか借りていない。」
砂川はそう言うと、ぼろぼろになった、バックを、かき回して、幾つかの、借用書をテーブルに広げた。
大川は、無造作にその紙を手に取った。
ふと砂川さんの隣にいる洋子さんが目に入った。
思いつめるような、目でテーブルを見つめるだけで、
その美しい容姿に、どうにか助けてあげたいという気持ちが湧き上がってきた。
手にした、借用書は、一番、若い日付で、10万円、20万円と、どう見ても、生活費として、借りていたとしか思えなかった。総額で100万は越えていなかった。
「本当に苦しかった。収穫が出来れば返せるだろうと思っていた。去年の水害で、ここの下流にある家の畑も流されてしまった。ここに住んでいた人も、もう諦めて、出て行った。先日、畑や家を差し押さえられて、もう行くところが無くなってしまった。都会に出て、働こうと決めたのだが、行く当てもなく、大川さんと、おじいさんが、開墾している様子を見て、子供だけでも預かってもらおうと思ったんだ。」
「子供達は、ここに置いて行くにしても、あなたたちはどうするつもりですか。都会は、すごい不況で、行ったからといって、職にありつけるとは限らないと思いますが。」
彼らの、今後の不幸が目に見えるようにわかった。
「だからといって、どうしたらいいのですか。私に出来ることは何も無い、もうやりつくしてしまった。」
テーブルに洋子さんの涙が落ちた。
「ここにいたらいいじゃないですか、私のほうで、今日来た連中はどうにか考えます。ここを手伝ってくれると本当に助かるのです。」
女の涙に昔から大川は弱かった。
「それでは、大川さんに申し訳ない。」
子供達が起き出して来た。
幼いとはいえ、子供達には、聞かせたくない話であった。
ミサが、洋子さんの隣に椅子を引きずって、座ると、心配そうに洋子さんの頭を撫で始めた。
まるで、大川が、お母さんを泣かしている悪人のようだ。
「まあ、明日、彼らが来たら、私からいいように話しておこう。二人は、もう彼らと話す必要はない。」
家族四人は、奥の部屋へと大川に頭を下げながら下がって行った。
本当に自分が悪人のようだ、大川は、テーブルで腕を組みながらそう思った。
大川は、ポケットの置物を、神棚に置くと、音の出ないほど小さな、拍手を打つと、縁側に出て社を造り始めた。
あくまでも、雷で崩れた姿は想像で造っていくしかないのだが、確かこんな感じだったと、思いながら組み立てようとするのだが、どうしても不恰好な社になってしまう。
確か釘は使われてなかった。
木々を交互に組み合わせて、外側に板を張り合わせるように造られていたということしか思い浮かばなかった。
権爺は何事も無かったかのように、畑の作業に戻っていた。
子犬の太郎は、縁側の大川を、見守るように、顔を大川に向け、静かな寝息をたてていた。
時折、大きな耳を震わせ、辺りの気配をうかがっているようにも思えた。
大川は、この社を、一人で作り上げなければならないと考えていた。
以前の社は、誰が造ったかわからないが、素晴らしい出来であった。それにあわせるように考えても、大川にはこういったものを造ったことも、考えたことも無かった。ただ、中学校のころに、技術の授業で、椅子を作ったことがあるが、お世辞にも綺麗な出来栄えでは無かった。それどころか、みっともなく、今すぐにでも捨ててしまいたいと思えるほどであったが、それは、家の中に結構長く、置かれていた。というのも、その大きさとかけた金額にあると思うのであるが、それを見るたびに、胸がかきむしられるような記憶がある。
これは一種のトラウマのように、今、こうして、木々に向かって、鑿を入れるとそのときの情景が浮かんでくる。
決して、うまく造れないだろうな。心の中からそういう返事が返ってくる。
それでも造り上げなきゃ。と一心不乱に木と板に向かっていた。
蝉の鳴き声が辺りを、支配し、闇が少しずつ近づいて来た。
家の中は、真っ暗で、誰も、居間に出てくる様子は無かった。
大川は漸く立ち上がると、足元に散らかった、木屑を払った。
「進んだかのう。」権爺が、部屋の明かりを点けながら言った。
大川は、顔を横に振ると、子犬の太郎を抱えて、居間に入っていった。
「かれらは明日も来るかのう。」
権爺は、不安そうに大川に尋ねた。
「多分来るだろうなあ。でも、権爺、安心してください。少し考えがありますから。」
大川は、権爺を安心させるように言うと、砂川さん達の、部屋をノックした。
返事が無い。
更に大きくノックし、返事が無いのを確認すると、大川はドアを開けて、中を覗いた。
部屋の明かりを点けると、部屋の隅に、子供達が、静かな寝息を立てていた。
部屋の中央にあるテーブルの上には、砂川さんの字で、「子供達をよろしく。」と書かれた紙が置かれていた。
大川は、その紙をとると、権爺に子供達を託すと、軽自動車に飛び乗った。
バスの時間はとうに過ぎていたが、追いつけるだろうと大川は思った。
急がなきゃ、FFの軽自動車は、まるでFRのスポーツカーのように、軽快に至る所でぼろぼろになった道を、駆ける。
タイヤのきしみ音が、日が落ちて、暗く静かな山の中に響き渡る。
カーブを抜けた、直線のずっと先に、バスの赤いテールランプが見えた。
車両の中は、明るくその様子を、うかがい知ることが出来た。
乗っている人を、確認すると、確かに砂川さん夫婦がいた。
二人は、顔を下に落として、今にも消え入りそうなほど、影が薄く感じられた。
バスと併走すると、砂川さんを見えるところまでくると、クラクションを鳴らした。
気がつかない様子だ。
対向車が来て、一旦、バスの後ろにもどるが、すぐさま、砂川さんの隣に車をよせ、再び、クラクションを鳴らすと、漸く砂川さんは、こちらに気づいたようだ。
こちらを見て、困ったような表情を浮かべると、手を左右にふり、戻る意思の無いことを、伝えようとしていた。
それでも、大川は、窓を開けると、大声で、声をかけるが、風にその声は、かき消される。
洋子さんが、ストップランプに手を伸ばすと、バスはゆっくりと、スピードを落とし、停車した。
ため息のような、ドアの音とともに、砂川さん夫妻がバスから降りようとしていた。
大川も、軽自動車を車道の脇の草むらに、車を停めると、バスの方に駆け寄った。
砂川さんは、バスの運転手に、少し待ってくれるか聞いていたが、バスの運転手は、ただただ顔を振るばかりで、いい返事は無いようだった。
砂川さん夫妻は、観念したのか、バスを降りた。
バスの運転手は、仕切りと、誰も乗っていないにもかかわらず、時計を気にしていて、砂川さんたちが降りると、逃げるように走り去った。
一瞬、大川と砂川さんの間に気まずい空気が流れた。
「すいませんでした。」
辺りは、闇に包まれ、大川の軽自動車のヘッドライトが、無ければ、そこに人が立っているのすら見分けがつかないほど真っ暗だった。
「子供を残して、黙って出て行くなんて。」
大川が、少し怒りながらいった。
「黙って出て行くのは、本当に申し訳ありません。でも私達がいれば、大川さんの迷惑になるし、話して出て行こうとすると、止められるし、こうすることが、一番いいと思ったのです。」
洋子さんが、黙っている砂川さんの代わりに言った。
「すこし、考えがあるって言ったじゃないか、このまま、出て都会に行っても、何かの職にありつけるという保障なんかないのだ。住む所も無い人間に、誰が信用するんだ。ろくな仕事なんか無い。子供のためにも、戻って欲しい。今日来た、連中のことはもう心配は要らない。保障する。ここから町までだって、朝まで歩いたって、着きやしないさ。明日、彼らの出方次第で考えても遅くないさ、その時は、駅まで、送ってやるさ。それまで、我慢して欲しいんだ。」
砂川さんは、もう既に、涙で顔がくしゃくしゃだった。
大川は砂川さんと洋子さんの肩にそっと手を添えると、車へと、導いた。
砂川さんたちは、素直に、大川に従った。
帰りの車の中は、重苦しく、大川のシフトをチェンジする音と、車の排気音が、車の中を、満たす。
空は、月や星ひとつ無く、軽自動車のヘッドライトが、路面を照らす。
家までは、思ったより早く着いた。
明りはついていて、権爺とミサと翔太、そして、子犬の太郎までもが、玄関先で正座して、待っていた。
砂川さんと洋子さんが、大川の背中の後ろから、入ると、ミサと翔太が、洋子さんに飛びついてきた。
玄関が泣き声で一杯だった。それにあわせるように、権爺の牛の鳴き声が聞えてくる。
大川は、子犬の太郎を抱えると、権爺にお礼を、言うと、権爺は、少し照れたような様子で、頭を掻いた。
砂川さん家族は、いつもの奥の部屋へ戻ると、大川は、冷蔵庫から、ビールを取り出すと、コップを二つテーブルに置き、権爺にビール瓶を向けると、それまでの緊張していた顔がほぐれ、嬉しそうに、テーブルについた。
ビールは、あっというまに、権爺の喉の奥に消えていった。
大川もテーブルにつくと、権爺と、自分のコップにビールを満たした。
「大川さん、何か考えがあるのかのう。」
権爺は、心配そうに聞いた。
「たいした考えがあるわけじゃないけど、もしかしたらという考えがあるだけだ。」
「もし、どうしてもということなら、わしの牛を売ってもいいでのう。結構なお金にはなるでのう。わしにとっては最後の財産じゃが、彼らを見ていて忍びないでのう。」
家の外から、権爺の牛が、その話を聞いてか、悲しそうな鳴き声をたてる。
「権爺、そんなことは心配ないさ。きっと上手くいくさ。権爺の財産も、砂川さんも、洋子さんも、ミサも、翔太も、そして、太郎も、どうかなるわけじゃないさ。」
ソファで寝ていた子犬の太郎が、自分の名前を呼ばれてか、大川の膝の上に、駆け上がり、大川の顔を、嘗め回した。
しばらく二人は、たわいの無い会話を交わすと、権爺は、大川の勧められるまま、大川のベットヘ、大川は、子犬の太郎とソファで眠りについた。
夏、真っ盛りの夜である。蝉がまるで、音楽のように眠りに誘う。
大川は、子犬の太郎の寝息を、耳元で聞きながら、眠りに落ちた。
朝は、あっけなく早く訪れる。
ソファの中で目を覚ました、暖かい湿気に包まれた、居間では、洋子さんが、朝食の用意をしていて、その傍で、おこぼれにあずかろうと、子犬の太郎が、お座りをして、しきりに、洋子さんの顔を覗き込んでいた。
大川は、ソファで伸びをし、大きなあくびをした。
子犬の太郎が、それを見て、駆け寄ってきて、大川に飛びついてきた。
大川は子犬の太郎を抱え揚げると、忙しそうに、朝食を作っている洋子さんに挨拶をした。
「ソファで寝たのですね。」
「ええ、何か権爺に、この家で寝て欲しくてね。砂川さんは。」
大川は、子犬の太郎の頭を撫でながら、聞いた。
「外で、畑仕事をしています。」
それを聞くと、大川は、居間のガラス越しに、外を見ると、柵を権爺と一緒に、畑の境界に柵を作っているのが、目に入ってきた。
守らなきゃいけない、大川は、思った。
「ミサちゃんと翔太くんは。」
「まだ寝ています。昨日は、遅くまで、起きていたので、眠いのでしょう。」
洋子さんがそういうと、わずかに、砂川さんたちの部屋のドアが開かれ、ミサと翔太が、覗いていた。
子犬の太郎を、下ろすと、腰をかがめて、おいでおいでをすると、二人は、飛び出してきて、大川に、飛びついてきた。
大川は二人を抱きかかえた。
「大川さん、砂川とおじいさんをよんで。」
無理に陽気を装おうと、しているのが、はっきりわかるその後姿は、少し寂しげだった。
二人を抱えながら、大川は、砂川さんと権爺の作業しているところまで行った。
作業に集中している砂川さんの姿は、今、彼らの中で起こっている、ことを少しでも忘れようとしているかのように、黙々と力強く、見えた。
「砂川さん、権爺、朝食が出来たって。」
話しかけるのが申し訳なくなるほど、一心不乱に柵へと向かっていた。
砂川さんのその様子は、生活に困って、いかがわしい金融業者から金を借りるような人には見えなかった。
年齢にもかかわらず、たくましく大川に比べて、はるかに大人に見えた。
砂川さんは、振り下ろした大きな木槌をおろすと、汚れたタオルで、汗を拭き、大きく頷いた。
登りつつある太陽が、砂川さんと権爺を照らす。
朝食をみんなで終えたころ、例の二人が汚れたベンツで来るまでは、さほど時間はかからなかった。
遠くから猛スピードで近寄ってくる、ベンツを見ると、大川はみんなを家の中へいれ、玄関先にたった。
車は、土煙を上げて止まり、中からエナメルの靴に、ちゃらちゃらした服の昨日の二人が下りてきた。
「逃がしたんじゃないだろうな。」
若い方が、ガムをかんで口をもぐもぐさせ、大川をすごみながら、言った。
昨日のアニキが、若い方の前に出て、大川を足元から、顔まで嘗め回すように、にらみつけた。
「砂川さんは、もう一円もお金は持っていませんよ。」
大川は、昨日とは、違って、少しも怖いとは思わなかった、それどころか、次第に冷静になっていくのがわかった。
「そんなことはわかっている、だがうちらは、手ぶらじゃ帰れないんじゃ。この二千万円の証文がある限りはな。」
大川の目の前に、100万円から膨れ上がった、証文をつきつけた。
「無いものは、払えないし、話を聞くと、最初に借りたのは、100万という話じゃないか、それがどうして2000万という数字に膨れ上がるのでしょうか。因みに、貸し金業の免許は持っているのですか。」
「なにおー、俺達は、お前のところに隠れている砂川に泣く泣く頼まれるから、貸してやっただけで、苦しいものとそれに答えるものの取引だ。関係の無いお前に四の五の言われる筋合いは無い。早く、砂川を出しやがれ。」
凄みは、更に増し、大川の顔へ殆どくっつきそうな程、近づいてくる。
かろうじて、手は出ていないようだ。
「どうでしょう、このままですと、私は警察にあなたたちを告発しなければならないのですが、元金を100万円として、その金利分と、あなたたちの手間を考えて、今、現金で500万を出しましょう。何時手に入るかわからない2000万と現金で、500万とでは、こっちのほうがいいのではないですか。そのかわり、その証文は渡してもらい、そしてもう二度と砂川さんに近寄らないで欲しいのです。」
二人は、顔を見合わせ、何か考える風だったが、昨日アニキと呼ばれたほうが、サングラスを外して、大川を見た。
吊り上った目ではあるが、今までの様子とは裏腹に、穏やかな様子だ。
大川は、絶対におれるつもりは無かった。
暫くお互いににらみ合いが続いたが、しまいにはアニキの方がおれた。
「それにしても強い目をしてやがる。しょうがない、何を言っても聞き入れる目じゃないな。よし、500万で勘弁してやろう。その代わり、警察に言いやがったら、ただじゃ置かないからな。それに警察からはそういった情報はすぐに伝わることになっているのだからな。」
もしこのチンピラが言ったことが本当なら、警察はもうおしまいだなと、大川は思った。
大川はアニキと呼ばれた男に頷くと、二人には外で待ってもらい、家の中へ入っていった。
玄関先では、鋤を持った権爺が、いつでも飛び出せるように、準備していた。
非力に見える権爺が、大川や砂川さんたちのために、頑張ろうとしている姿を、見ると本当に嬉しくなった。
「権爺、大丈夫だよ、全て上手くいくはずさ。」
大川は、権爺の肩を撫でながら言った。
本棚がある部屋に、大川は、入ると、机に向かい、彼らに渡す念書と控えを書き始めた。
少し時間を置いてもよいだろうと思った。
書き終えると、角に置かれた黒い昔ながらの手提げ金庫を持ち上げた。
振り返ると、子犬の太郎が、怪訝そうに大川を見ていた。
窓から射しこむ埃っぽい光線の中にすっぽりと覆うように、子犬の太郎がいた。
犬らしくない犬だ。その時ふと野性的な知性と、ありえないものがそこにいるように子犬の太郎に感じた。
大川は、子犬の太郎の、頭を2,3回撫でると、部屋を出た。
家中が死んだように静まり返っていた。本当にみんなこの家の中にいるのだろうかと思えるほどの静けさだ。
大川の後ろからは、子犬の太郎の廊下につめの当たるリズミカルな音が聞える。
権爺は、玄関先に腰を下ろし、鋤を横に置き、眠っているように、下を向いている。
大川が、玄関から出ようとすると、権爺も立ち上がり、出て行こうとしたが、それを、押しとどめて、手にした金庫を権爺に見せ、安心するように頷いた。
権爺は、大川の顔を見ると、しわくちゃな顔を、更にしわくちゃにし、今にも泣き出しそうな、顔をした。
玄関の外では、二人のチンピラが、砂川さんと権爺が、打ち付けた柵を抜こうとしていたが、どうあがいても抜けなかった。
大川が、玄関から出て行くと、二人は駆け寄るように出てきた。
「あまり遅いので、逃げたとおもった。」
若い方が、手についた泥を払いながら言った。
「逃げやしないさ。」
そう言うと、大川は二人に念書を渡した。
「俺達が信じられないようだな。まあいいか、印鑑は持ってないが、いいな。」
「印鑑が無いようなら、拇印で構わないから。」
大川は、金庫を開けると、朱肉を取り出し、渡した。
若いのが、金庫の中を覗き込み、お金が入っている事を確認した。
「俺だけでいいか。」若いのが言った。
「いいや、二人の拇印が必要だ。」
二人は、名前は書いたが、拇印を押すことをためらっていたが、漸く押した。
「これでどうだ。」
アニキと呼ばれているほうが大川に念書を戻すと、大川は拇印を確認した。
山内 義男と中野 信二という本名かどうかわからないが、書いていた。
大川は控えを金庫にたたんで入れると、もう一方を、渡した。
そして借用証書と交換に、500万を手渡した。
アニキと呼ばれている方が、若いのにお金を渡すと、金額を数え始めた。
手にした、借用証書に砂川さんの印鑑が押されていることを確認すると、大川は、胸ポケットからライターを取り出し、それに火をつけた。
ふたりはあっと言う声を発すると、証書は、見事に、灰となった。
「いいのかい、もう二千万は、灰になったんだぜ。」
アニキと呼ばれている、男が言った。
「あんたらと同じことを、砂川さんにやれということなのか。」
「もう渡しちまったものだ、好きにするがいいさ。金が必要になったらいつでもいいな、貸してやるから。」
「いや、もう会うことはないだろうさ。あんたらあまりこんなことをしていると、本当に警察につかまるぜ。」
大きなお世話というようにアニキと呼ばれている男が、大川の胸を人差し指で突っついた。
それをみた子犬の太郎が、唸り声を上げた。
小さいながら、迫力のある唸り方に、二人は、大川から一歩ひいた。
「その犬ころに、鎖でもつけとけよな。」
若い方が、金額を数える手を止めて、言った。
札を数え終えると、若い方が、アニキに頷いた。
「行くぞ。」というと、二人は再びベンツに乗り込み、来たときより、ゆっくりとしたスピードで、泥だらけの道を戻っていった。
辺りは、いつも鳴いている蝉の声さえ聴こえぬほど、静まり返っていた。
砂川さんたちは、大丈夫だろうかと、大川が振り返ると、玄関先に権爺を中心にして、砂川さんと洋子さん、そしてミサと翔太が立っていた。
砂川さんが、近寄ってきた。
「もう終わったよ。なんの心配も無いさ。後は、砂川さんの家に戻るなりいいようにするといいさ。」
深々と、砂川さんが、大川にお辞儀をして、
「大川さん、今までのようにここに置いてくれませんか、ここから先に家に戻っても、上手くやっていく自信はないのだ。それにもう家は抵当に入っていて、いつ無くなるかわからないし。それに大川さんから借りた500万円を大川さんの畑を作ることで返させて欲しい。それは洋子にしたって同じことだし。」
後ろで洋子さんが頷いている。
「落ち着いて子供達を育てられる環境が必要なのだ。このまま都会に出てもいいのだけど・・・」
「また、そんなことを言うし」
ミサが大川の手をとりぶら下がろうとしていた。
大川は、ミサを抱きかかえると、笑い出した。
「いいさいいさ、部屋は、沢山あるし、ここで権爺と二人で生活するより、大勢の方がずっと楽しいしね。それよりも私には、畑仕事の経験が全く無いから、砂川さんにここにいてくれることが、どんなにか助かるかしらない。」
「それよりこれからの生活費を考えていかなければならないね。明日、明後日には、町の農協に行って、お金を借りられるか交渉してみようと思う。」
砂川さんが、顔を左右に、振っている。
「ここは、町が倒産したばかりだから、なかなか渋いんじゃないかな、昨年、洪水にこの辺りがなって、うちも借りようとしたのだが、断られてしまった。」
「まあ、それは話をしてみるさ。こっちに収入が無いことには、向こうだって取るものをとれないだろうしね。」
大川は、少し考えるように、埃っぽい地面を見ていると、ふと何かを、思いついたのか、明るい調子に変わった。
「ちょっと、町に行ってくる。」
大川は、そういうと、みんなが見守る中、軽自動車に飛び乗った。
大川が戻って来たのは、陽の光が、山の中に消えかける、夕暮れ時であった。
車の音で、子犬の太郎と、ミサと翔太が大川の軽自動車に駆け寄った。
大川は、荷台を開けると、一抱えの肉と、野菜を取り出し、ミサと翔太に渡した。
二人は、よろけるように、家の中に運ぶと、家の中から洋子さんが、慌てて出てきた。
洋子さんの怪訝そうな顔を見て、大川は、楽しいことを思いつた子供のように顔中に満面の笑みを浮べながら洋子さんに言った。
「こんばんは、みんなでバーベキューをしようと思ってね、それに花火も沢山買ってきたからね。」
洋子さんのエプロンを引っ張っているミサと翔太に、花火を渡すと、小躍りするように嬉しそうに、花火に頬ずりをした。
それを見て、それまで暗く陰気に見えた、洋子さんの顔に笑みがこぼれた。
畑から、権爺と砂川さんが戻ってくると、バーベキューの用意はあっという間に終わった。
陽は完全に沈んでいたが、格子状に組んだ木々に火をつけると、辺りは昼間のように明るくなった。
鉄板の上で、肉や野菜の焼ける匂いが広がった。
皿を片手に、砂川さんが、焼けた肉をみんなに取り分けていた。
ミサと翔太が、大川の座っている、丸太の前に、花火を持ってきた。
昔の花火と殆ど変わらない、花火だった。
ライターの炎が、導火線に移ると、真っ暗な夜空に、火の玉が、大きな音を立てながら、あがると、天空に蓮の花のように広がった。それとともにみなの顔が、明るく照らされた。
ミサと翔太は、花火が上がるたびに、楽しそうに、空を見上げた。
花火が終わる頃には、二人は、疲れ果ててしまったのか、ひいていたマットの上で眠りに落ちた。
洋子さんは、二人を、抱きかかえると、家の中へと連れて行った。
火はまだついたままだった。
大川は、丸太を、火の傍に、引き寄せ、権爺と、砂川さんが座れるように囲った。
自然と、大川と砂川さんがそこに座り、権爺は、家の中から、ウイスキーを持ち出してきた。
コップにウイスキーが注がれ、三人は火に向かい合うように座った。
「大川さん、ありがとう。」炎を見つめながら、砂川さんが言った。
大川は、砂川さんの意思に反して、ここにとどめることへの、後ろめたさを少し感じながら、顔を振った。
「少しも気にする必要は無いですよ。権爺だって、ここにいて欲しいと思っているだろうしね。」
「そうだのう、家族みたいに思えてきたからのう。」
「大川さんは、結婚はしているのですか。」
砂川さんが、聞くのが申し訳ないように言った。
誰もが、最初に聞いてくる話であった。
「いいえ、一度も、昔は、結婚しそうなところまで行ったのですが、相手にほかに好きな人が出来てね。幸せでいてくれればいいけど。」
これも、いつも通りの答えだった。
「早くいい人を見つけないとのう。」
大川は、沢山のコンプレックスを抱えていた。
第一に、容姿であるが、誰一人この顔を好きになってくれる人なぞいないことを、経験として十分に知り尽くしていた。
誰かに愛されたことなぞ無かった。
それゆえ、人に優しくなりたいと思っていた。
子犬の太郎が、大川の膝の上に上がり、大川の顔を舐め始めた。
「それにしても、不思議な犬だのう。全く鳴く気配が無いし、指も五本もあるでのう。」
大川は、権爺のその指摘に、はっとなって、子犬の太郎の柔らかな、指を調べると、確かに、五本の指が、綺麗に並んでいた。
「たいていの犬は、四本でのう、最後の一本は退化して、付け根にあるでのう。」
「まあいいさ、こんなにかわいいから。」そう言うと、大川は、子犬の太郎に抱きついた。
「それじゃ狼の子供かな。」
大川は子犬の太郎とじゃれながら、言った。
「そうかもしれんのう。」
権爺が、子犬の太郎の顔を良く見ようと、近寄りながら言った。
「まさかね、もう何十年も前に絶滅しているし、こんな子供がいるようなら、必ず繁殖しているはずだから、人間に見つからないはずはないからね。それより、権爺と砂川さんの住民票を、ここに移したらどうかな、来年にはミサちゃんだって、小学校に行かなければならないしね。」
「大川さんがそれでよければ、明日にでも、町役場に行って来たいのですが。」
湿りがちな声で砂川さんが言った。
「じゃ、権爺と、一緒に行くといいさ。」
空から、ぽつりぽつりと、雨粒が落ちてきた。
「ありゃ、雨だのう。」
権爺は、真っ暗な闇夜を見上げながら、頬に当たった雨粒をさすりながら言った。
炎の中に、雨が落ちるたびに大きな音を立てて、火の粉が飛び散る。
砂川さんは、あわてて辺りを片付け始めた。
大川も、子犬の太郎を、脇によけると、それに続いた。
雨は次第に強くなり、湿気を大量に含んだ風も吹き始めた。
少し動くだけで、汗が体中から噴出した。
翌日になっても、雨は降り続いていた。
砂川さん家族と、権爺は、早い時間に軽自動車で、町に出かけていた。
静かな朝である。大川は、縁側で、社の外側を造っていた。
大川の傍には、少しずつ大きくなりつつある子犬の太郎が、寝そべっていた。
次第に大きくなる体と、大きな尻尾と、鋭い牙がただの犬でないことは明らかだった。
変なものだ、大川は思った。ここに越してきて、子犬の太郎を始めとして、権爺と、権爺の牛と、砂川さん家族四人と、あっという間に増えてきた。何か引き寄せられるように、人が集まるなんて、今まで一人で生活をしてきて、無かったことだった。それも良くそれぞれの人間を知っている訳でもなかった。砂川さんにしても、大川を知っているはずも無いのに、住民票すら移そうとしている。権爺だって、そうである。
もしかして又、騙されているのじゃないだろうか、あの不動産屋を思い出しながら、大川は思った。
四角い木に入れる鑿に力が入る。
鑿を入れるたびに、大川は、十字に木と木を組み合わせて、しっかりと組みあがっていることを確認する。
だんだんと出来上がっていく社を、大川は、元にあったところを頭の中で、イメージしていた。
雨のせいで、家の中はひんやりとしていて、薄暗かった。
大川は、社の出来を確認すると、鑿を下に置き、子犬の太郎のお腹を枕に横になって、降り注ぐ雨を見た。
子犬の太郎は、大川の額を大きな下で、舐めると、再び、大川の顔に、自分の顔をくっつけるようにした。
規則正しく、子犬の太郎の大きな鼻から、息が大川の顔にかかってくる。
まるでゆっくりとしたメトロノームのようだ。
雨樋から雨が滴り落ちる。
夢の中で、大川は、権爺や、砂川さん、洋子さん、ミサや翔太が、入れ替わり、騙された、大川を嘲笑していった。
大川には、もう何一つ残されたものは、無いという夢であった。
畑や、家も、持っている財産全てが、彼らのものであった。
社は、別であった。
出来上がった、社は、神々しく、壊れる前にそうだったという姿を再現していた。
社の中を覗くと、神棚とともに、子犬の太郎とそっくりな、犬が置かれていた。
犬というより、狼だった。
確かに、狼の彫像も、置かれていたのだろうな。
夢の中で大川は思った。
多分、大川はそうとううなされていただろう。
子犬の太郎が、しきりに大川の顔を舐めるので、目が覚めた。
鋭い目の中に、本当に大川のことを心配する子犬の太郎の姿があった。
大川は手を伸ばし、子犬の太郎を抱きしめた。
起き上がり、窓の外を見ると、雨はまだ降り続いていた。
遠くから、白い大川の軽自動車が向かってきた。
時計を確認すると、昼を優にまわっていた。
一瞬に思えた夢が、何時間も経っていた。
車が玄関先に止まると、大川と子犬の太郎は、みんなを出迎えた。
ぞろぞろと車から出てくる姿は、別人のように陽気で、晴れやかに見えた。
砂川さんと洋子さんの、手には買出しの食料と、権爺は畑に植える種や、苗を抱えていた。
権爺は、抱えたものを、嬉しそうに、大川に見せた。
洋子さんは、早速、昼食の準備に取り掛かり、砂川さんは、十坪ほどの土地に、今買ってきた種を植え始めた。
砂川さんは、開墾した十坪ずつを畑にしようと言う計画だった。
権爺の牛から堆肥をとり、土と上手く混ぜ合わせていた。
最初の十坪には、とうもろこしと、次の十坪には、ジャガイモ、そしてかぼちゃやナスに、紫蘇の葉や、きゅうり人参、大根と広げていった。畑は、次第に形となっていった。
玄関先から、洋子さんの昼食の合図で、みんなが居間に集まった。
「むこう500坪は、田んぼにするでのう。」
権爺が真っ先に宣言した。
確かに、この家には、お米が必要だった。
大川は、静かに頷いた。
「権爺さんが田んぼなら、私は、残りに、畑を作りますよ。半分は、さまざまな野菜と、のこり半分は、ビニールハウスで最高級のイチゴを作ろうと思っているのです。」
大川はそれにも頷いた。
「それじゃ私は、みなのお手伝いをしよう。そもそもなんも知らないからね。」
大川の言葉に、今度は権爺と砂川さんが頷いた。
「わたしも手伝う。」ミサが言った。
権爺が、ミサの頭を撫でながら言った。
「大川さん、言っておきたいのだが、わしの牛がもうすぐ、子供を産みそうなのだ。今いる小屋を、もう少し、大きくしたいのだがのう。」
そういえば、大川は権爺のいつもいるところを殆ど見たことが無かった。
「食事が終わったら、見に行こう。手伝えることは沢山あるしね。」
権爺が、ご飯を、口に運びながら、頷いた。
「わたしも。」「ぼくも。」ミサと翔太が同時に声を上げた。
食事が終わると、家の裏にある権爺の牛の小屋を見に行った。
元は、木を組んだ柵にトタンで覆った、簡単なつくりであったが、牛一頭には、十分な大きさだった。
そお牛小屋のすぐ隣に、権爺が寝泊り、しているやっと人一人が横になれるほどの、小さな小屋があった。
大川が権爺を振り返ると、権爺は照れたように、麦藁帽子を手にとって、相当薄くなった頭を掻いた。
「権爺、こんな所に寝泊りしていたのですか、こんなところじゃ体を壊してしまうじゃないですか。昨晩寝たところを権爺の部屋にするから今後は、そちらに寝てくださいね。」
大川の強い口調に、権爺は頷いた。
「なにからなにまで、お世話になっているでのう。この上、家まで借りるには忍びないでのう。」
「そんなこと構わないさ。それよりも権爺の体のほうが心配だ。」
大川たちが近づくと、小屋の開いたところから、目をむき出した、牛が怪訝そうに、見ながら、一鳴きした。
真っ黒に塗ったゴルフボールのような目だった。
牛小屋特有の、牛の糞尿の匂いが強烈に漂ってきた。
そういえば、こうゆう匂いだっけ、と大川は遠い昔に嗅いだ匂いを思い出していた。
大川が柵越しに、権爺の牛を見ると、確かにお腹が膨れていて、時折、お腹が震えるのが、見えた。
「うんうん、それにしても大きなおなかだな。」
大川が手を伸ばして、権爺の牛の鼻の頭を撫でると、長い舌をだして、舐めようとするが、よだれが手につきそうで、慌てて引っ込めた。
「ワーッ、汚い。」
ミサが大川の手を引っ込めると同時に、舌が手についたのを見て言った。
権爺は、柵を簡単に、またぐと、大きな牛に近づき、権爺の牛のお腹を静かにさすりながら、耳を当てた。
そして、砂川さんと、大川に手招きをした。
二人は、お互いに、目を合わせて、どうするかを、一瞬ためらったが、大川が柵を越えると、砂川さんや、ミサと翔太も権爺の牛に、近寄り、かわるがわる耳をお腹に当てた。
「動いている。ここに子供がいるの。」
翔太が、聞いた。
権爺は、嬉しそうに、頷いた。
「もう間もなくだのう。二三日後には、新しい仲間の誕生だのう。」
「雄かな、雌かな。雌だといいのだが。」
砂川さんが、雌を期待して、権爺に聞いた。
「それはわからんでのう。こんなに元気だと、雄かもしれないでのう。」
「まあ、生命の誕生がもうまもなくみんなで立ち会えればいいさ。それより獣医を呼ばなくても大丈夫ですか。」
大川が権爺に聞いた。
「大丈夫だのう。今は一頭じゃが、以前は100頭近く飼っていたでのう。お産はしょっちゅうだったからのう。最後の一頭が子種を宿しているって本当に嬉しいでのう。」
権爺は、藁で権爺の牛を拭きつつ、これ以上ないという笑顔を大川に向けた。
大川も、それにつられるように、権爺の牛のお腹をさすりながら、笑い出した。
久々に、みなの笑いが辺りを覆った。
これまでの重苦しい空気が、権爺の牛のおかげで取り除かれたようだった。
陽は開け放たれた入り口から射しこみ、漂う埃に反射してきらめいた。
小屋の角には、壊れかけの水桶と、飼葉桶が置かれていた。
「そうそう、農協と役場に行かなきゃ。」
大川は思い出したように言った。
時計を見ると、まだ二時を少し過ぎたころであった。
飛ばせば、四時過ぎには、町につける時間であった。
「ちょっと町に行って来る。」
大川は、権爺と砂川さんに言うと、手持ち金庫を部屋から持ち出し、軽自動車に飛び乗った。
町へは思ったより早くついた。
役場へと、足を運んだ大川は、至る所にあるパンフレットを探した。
おらの町、農業再建というパンフレットを大川は手にした。
おらの町への農業移住者求む。というタイトルだった。
内容は、定住を目的とした農業移住者に町が支援しようというものだった。
その金額は、安定した、収入を得るまでに、機会やや家屋、生産物、家畜の購入に関して年間一千万の無利子で貸し出せるというものであった。
大川は、話を、聞こうと、役所を、見回した、
人の声も無いほど、静かで、黙々と、誰もが、パソコンに向かっていた。
パソコンに向かう以外に、仕事が無いようであった。
大川がパンフレットを片手に、話を聞こうと受付で声をかけた。
黒ぶちの眼鏡をかけた歳の若い職員が、面倒くさそうに、パソコンから顔を上げてこちらを向いた。
他の職員は、顔すら上げようとはせずに、出来るだけ無関心を装っていた。
めんどくさそうに時計を見上げた。大川も一緒に時計をおった。四時三十分だった。
「すいません。よろしいですか。」
「話が長くなるなら、明日来てください。こちらも電車の時間があるのでねえ。」
黒縁の眼鏡を人差し指で、位置の調整をしながら言った。
「時間は取らせませんが、おらの町農業支援のパンフレットを見たのですが、話を聞きたくて。」
「ああ、それね。もう三年もそこに飾っているパンフレットですが、こんな田舎で、倒産しそうな町に来る人なんかいないのでね。こんなのに使うくらいだと、今いる生産者のためにつかうようにと、議会で問題になってね。でも使えるはずだと思うけど、土地はどちらになりますか。」
そういうと黒縁の眼鏡の職員が、大きな古ぼけた地図をどさりとテーブルに置いた。
大川が手提げ金庫から、登記所を確認して、住所を告げると、その職員はページをめくった。
そうして、少し、考えるように、大川の土地を、指先で撫でるように確認した。
「ああ、ここですね。一昨年だったか、この傍を流れる川が、氾濫しましてねえ。この土地は、もう農業指定地から外されているはずですね。いつまた川が氾濫するかわからないのでねえ。ほらここを御覧なさい。ここに堤防があるのがわかるでしょう。あの洪水で壊れている筈ですね。いつ大雨が降るかわからないけど、降ったら、この土地は、水であふれることは間違いないでしょうね。この土地で、農業するには、そうとう無理がありますね。まあそういう土地ですから、お金は、貸すことは出来ませんね。悪い土地を買いなさった。」
大川は職員のその言葉に、地図の職員が指差したところを、見つめていた。
絶望感と何時、洪水が起こるかわからない状況に、あせりも感じていた。
大川のあまりの落胆ぶりに、職員が何かを考えているようであった。
「まあ、もしこの堤防に土嚢が積まれていて、水が畑に流れ込まないということがあれば、大丈夫なのですが、なにせ財政破綻寸前の町ですから、工事は、確か二、三年先だったはずですが、それまでに何度か洪水が起これば、もう完全に畑としては駄目でしょうね。又来てください。その時は、必ずお役に立てますからね。」
職員の慰めも、むなしく辺りにこだまする。
今まで、パソコンに向かっていた職員が、次から次へと立ち上がり、帰りの仕度を始めた。
時計を見ると、五時まであと十分前であった。
目の前の職員も、仕切りと、時間を気にしているようであった。
「土嚢を入れる、袋って、手に入れることは出来ますか。」
大川は、やっと顔を上げて、職員を見た。
職員は、黒縁の眼鏡がずり落ちるのを人差し指で、直して少し考えるようであり、又、時間を気にしていた。
そして、諦めの表情が、顔に浮かんだ。
「ええ、ありますよ。災害用に、倉庫にあるのですが、差し上げてもいいのですが、なにせ、私も帰る時間が迫っていましてね。」
黒縁の眼鏡の職員が、辺りを見回して、帰る準備をしている他の職員を見た。
他の職員は、気の毒そうな顔を、黒縁の眼鏡の職員に向けていた。
「しょうがないですね。ここまで来るのに結構時間がかかったでしょうから。このすぐ隣にある倉庫まで案内しましょう。本当は、三時までに来てもらわないと困るのですがね。」
本当に困った様子で、腕の時計を気にしながら、駆けるように倉庫の鍵をとると、大川へついてくるように手招きした。
細い体を、面白いように前後に揺らして、その職員は、役場の隣にある倉庫へと、大川を案内した。
鍵を開けると、外の明るさとは対照的に薄暗く、山のようにさまざまな物資が積まれていた。
奥のほうから、その職員が、麻の袋を重たそうに抱えて持ってくると、外に置いた。
大川もそれを見て、一緒に持ち出した。軽自動車に積めるだけの麻袋を持ち出すと、職員は慌てて鍵をかけた。
「出庫伝票は、明日書いておくから、このまま車に積むといい。少し川があふれてもこれで大丈夫ですよ。でも、洪水には、まあ無理でしょうが。修繕までの二、三年を待つしかないでしょうね。」
殆ど、同情に近い言葉を、大川に投げかけると、腕の時計を見て、慌ててもといた役場へと戻っていった。
役場からは、帰り支度を済ませた職員が、次から次へと役場の門をくぐっていく。
守衛が、今にも門を閉めようと、待ち受けている。
車を、麻袋の山に横付けすると、全ての麻袋を押し込んだ。
洪水のことを考えると、大川は、胸が高鳴り、一刻も早く帰り着きたい気持ちで一杯になった。
農協へは、今日は行けないなそう思うと、もう一度、近いうちに、来なきゃと大川は思った。
車を出すと、門の守衛は、待っていましたとばかりに、ガラガラと音を立てて、門を閉めた。
また問題がおこってしまった。
とんでもない土地を買ってしまった。
これで洪水が起こったら、もうどうしようもない。今いる砂川さんも権爺も去っていくだろう。
彼らには、行くところも無い、そして自分もそうだ。大川は、麻袋で一杯になり視界の悪くなった車を運転しながらそう思った。
大川には、まだ銀行に、貯金が一人だと、二、三年は持つほどはあった。
それが唯一の救いであった。
町は、大川とは、反対に駅に向かう人々とすれ違う。
田舎の夜は、早い大川は思った。
麻袋はカビのすえたにおいで一杯だった。
大川は、窓を開けると、タバコに火をつけた。
夕闇に、町が沈もうとしていた。
家に帰ると、もう八時を過ぎていた。
車の音を聞きつけて、砂川さんと、ミサが手をつないで家から出てきた。
大川は、納屋に車をつけると、砂川さんに頷くと、麻袋を納屋に入れ始めた。
砂川さんも黙って、大川を手伝った。
「おじちゃん。夕飯が出来ているって。みんな食べずにまっているのだよ。」
ミサが、深刻そうにしている大川を、見ていった。
「うんうん、わかった。すぐに終わるから、一緒にたべようね。」
大川は、麻袋を全て納屋に入れ終わると、ミサを肩車して、家へと入っていった。
居間のテーブルには、洋子さんと権爺と、そして待ちくたびれて寝ている翔太が冷めた食事を前に、大川の帰りを待っていた。
大川が、居間に入ると、洋子さんと権爺が嬉しそうに振り向いた。
「ただいま。」
大川の声に張りが無いのをみんな気にしているようだった。
大きくなりかけの子犬の太郎が、大川の座っている椅子に、両手を置き、甘えるような声を出した。
子犬の太郎はどんどん大きくなっていくようだ。
もしかすると、マスチフ犬よりも大きくなるかもしれないと大川が思いながら、ごわごわとした首筋を撫でた。
砂川さんと権爺が、席につくと、洋子さんが、食事を暖めなおした。
権爺が、冷蔵庫から、ビールを取り出すと、大川の目の前にある、コップに注いだ。
大川は、一気に飲み干した。
「町からの補助は暫く出なさそうだ。」
空になったコップに、再びビールが注がれるのを見ながら言った。
大川は、辺りの空気が急に冷えるのを感じていた。
「まあ大丈夫さ、二三年持ちこたえれば、必ず補助は出るし、それまでの蓄えはあるから心配は無いさ。」
「どういうこと。」
砂川さんが、椅子から身をのりだして大川に聞いた。
「まあ、洪水が原因なのだそうだ。ここの土地がいけなくてね。ここの傍にある堤防が、壊れているらしくてね。二三年後には、改修工事があるというのだけれど、それまで持たせなきゃいけない。あの麻袋は、土嚢用でね。明日から土嚢を積んでいこうと思うのだ。権爺と砂川さんは今まで通りに畑と田んぼつくりを続けていただきたいのだ。」
「一人じゃ大変だのう。」
権爺が、心配そうに言った。
「空いた時間で、手伝おう。いずれにしろ洪水が何時発生するかわからないのだから、起こってからじゃ間に合わないからね。まあ畑のほうは、ずっと取り掛からなきゃいけないってこともないからね。」
砂川さんが、まかしとけという顔で言った。
「私も手伝うわよ。」
洋子さんが、台所から出てきて、手をエプロンで拭きながら、言った。
大川は、もし一人でここに住まなければならなかったことを考えて、ぞっとしながら、みんながいてくれることを感謝していた。
翌日の朝早く、大川と権爺と砂川さんとで、堤防を見に行った。
大川の土地からは300メートル程、離れているが、川のうねりの、丁度ぶつかるところで、大きく抉られるように無くなっていた。川の流れは、穏やかで川幅も二メートルくらいの小さな川だった。
堤防と、川の間には、葦が生い茂り、視界を見にくくしていたが、川は澄んでいて、川魚の泳ぐ影がいくつも出来ていた。
洪水になるには、水は今の五倍の水量は必要であったが、台風が来ようものなら、あっという間に水量が増すことは明らかだった。
草に覆われた堤防が崩れた跡を、三人は歩いてみた。
「敷石が必要だのう。まあ、畑から出てきた、石が沢山あるから、それを敷こうでのう。」
権爺が、ゴム長靴で地面を蹴りながら言った。
「石を押さえる木のはしらも必要だな。」
砂川さんが大川の顔を追った。
大川は、二人の話を、頷きながら聞いていた。
「思ったより、崩れてはいないね。」
大川はどのくらい作業が必要かを、考えていた。
「この夏が過ぎると、この川にも鮭が上ってくるでのう。沢山獲れるで、そんときはのう、みんなで獲るでのう。」
銀爺がみんなで鮭をとる姿を想像して、微笑んだ。
朝食を終えると、大川は納屋から、赤く錆付いてところどころ穴の開いた一輪車を持ち出してきた。
畑の外側には、権爺が掻き出した大きな石から小さな石まで山のように積まれていた。
大きな石を、抱え上げて、一輪車に乗せると、その重さに、権爺の力を思い知らされた。
一輪車が一杯になると、大川は、よたよたとふらつきながら、土手の決壊したところへと、運んでいった。
道は、途中で途切れ、幾度かひっくり返しては、また積み上げ、最後には、石を持ち上げ、手で運んだ。
思った以上に重労働だった。
一番大きく、重そうな石を、土手の川際に置いて、それに沿うように他の石を敷いていく。
昼時には、権爺と砂川さんが手伝いに来て、石を支える、太く長い木を地面に差し込んだ。
結局、その日の午後は、みんなが、その作業で、一日が暮れていった。
殆ど、運動らしいことをしてこなかったため、体中の筋肉が痛く、殆ど身動きが取れないほど疲れ切っていた。
夕飯を食べて、寝ている大川に、かわるがわるみんなが、声をかけて行った。
それにしても砂川さんにしても権爺にしても体力があるものだ。
何事も無かったかのように、ぴんぴんしていた。
時計はまだ9時を指していた。
大川はベッドの上からもう一歩も動けなかった。
子犬の太郎は、心配そうに、大川の傍から、離れようとしなかった。
そのまま眠りに落ちはしたが、体の痛さが、睡眠を浅くし、何度か目を覚ましつつ、朝になった。
朝になっても筋肉の痛みは、取れていなかったが、どうにか起き上がり、居間へと顔を出した。
「大丈夫かのう。」
権爺が、心配そうに声をかけた。
もう既に、権爺は、一仕事終えたようであった。
「牛が、今晩にも、生みそうでのう。ついていてやりたいんじゃがのう。」
「大丈夫ですよ。その時は、私も立ち会いたいですね。」
牛の出産に立ち会いたい気持ちがあったが、いつ大雨になるかわからない不安が、大川を奮い立たせた。
朝食を終えると、再び大川は、一輪車で石を川原まで運びはじめた。
子犬の太郎が、前になり後ろになりついてきた。
川原には、幾本もの木の柱が立っていた。
もう後は、石を敷き詰めて、土を盛って、土嚢を積み上げるだけだ。
何度も往復して、次第に石は高く積まれていく。
陽が次第に高くなる頃に、土手に上がり、休んでいると、ミサと翔太が、布の袋を持って土手に上ってきた。
「おじちゃん。これかあさんから。」
小さな手から、渡されたものは水筒だった。
ミサと翔太は、大川の隣に腰を下ろした。
「おじちゃんは何やっているの。」
翔太が、子犬の太郎の背中をさすりながら、聞いた。
ミサと翔太は、大川をおじちゃんと呼び、権爺を、おじいちゃんと呼ぶようになっていた。
「おじちゃんは、お父さんが一生懸命に作っている畑を守ろうとしているのだよ。」
大川は、水筒のキャップを開けると、まだあったかい、お茶を飲んだ。
「ああ、こうして石を積んで、土で埋めると、川が畑に流れないようにしているのだ。」
「でも、なんともないかわだけどね。」
ミサが、細い川の流れを見て言った。
「沢山雨が降るとね、川がこの何倍もの大きさになるのさ。そうすると、ここを伝わって、畑に水が入り込むのさ。それも勢いよくね。」
「小さな川なのにね。」
「これが、大雨になると、それはもう大きな川になるのだ。この土手の上のほうまで、水が来るのさ。」
「こわいね。」
「うん、本当に怖いし、今こられるとみんな困ってしまうね。」
大川の隣で子犬の太郎と翔太がじゃれあっている。
「大雨っていつくるの。」
「明日かも、来週かも、来月かもしれないね。」
「そんなのこなきゃいいのにね。」
ふと背後に人の気配を感じて、大川は振り返った。
洋子さんが、ほおかぶりして、身軽な服装で、土手を上って来た。
「手伝おうと思って。」
「わたしも。」「ぼくも。」
洋子さんに続いて、ミサと翔太が、声を上げた。
子犬の太郎が体を起こして、大川の頬を舐めた。
大川は立ち上がると、再び作業を開始した。
大川が石を運び、並べたその石をミサと翔太が整え、洋子さんが土盛りをする。
暑い日ざしが、川原を照りつける。
夕方が近づくと、土手として、次第に形を成してきた。
それでもまだ30センチほどの高さしかなく、三、四メートルもの高さに積み上げるのには、相当時間がかかりそうだった。
作業を終えて、家に着くと、家には誰もいなかった。
畑では、砂川さんが、せっせと鍬を畑に入れていた。
洋子さんが、明りをつけると、納屋から牛の声が響いてくる。
大川は、痛む筋肉を、引きつらせながら、家に入らずに、納屋へと向かった。
納屋では、権爺が、牛に声をかけながら、手にした藁で、牛の体をさすっていた。
「どんな按配ですか。」
権爺は、動きを止めると、薄闇の中で、顔中に満遍なく笑みをたたえて、大川を見た。
納屋の角に横たわった、権爺の牛が、目を見開き、大きな呼吸を繰り返していた。
権爺は、牛のお腹をさすると、その感触をしきりに確かめていた。
「元気な子牛が誕生するでのう。もう何時間かで、出てくるで。ほら、こんなに外に出たがっているでのう。」
大川にとって初めての経験である。
「何か手伝えることは、ありますか。」
「そうだのう、ここに灯りが全くないでのう、このまま夜になると全く見えなくなるで、よかったら何か灯りが欲しいでのう。」
そう言えば、納屋の中は、やっとお互いを認識できる程度の明るさであることに気がついた。
「獣医とか呼ばなくて大丈夫ですか。」
「大丈夫、わしはのう、今は一頭しか飼っておらんが、何十頭もの牛の出産を経験しているでのう。」
権爺の言葉には、牛の出産に大きな自信を持っているようであった。
確か、キャンプ用具の中に、ガソリン式のランタンがあった。
大川は、権爺に、大きく頷くと部屋へと戻り、大きなキャンプ用品を持ち出した。
中にはランタンや寝袋、バーベキューや木炭といったものが入っているはずであった。
初夏とはいえ、田舎の夜は寒かった。長丁場にはもってこいだと大川は思った。
居間を通るときに、大川は洋子さんに声をかけた。
「今日の夕飯は納屋の前で食べよう。」
大川の呼びかけに、洋子さんが、優しく頷いた。
「おじちゃん、何するの。」
大川が大きな緑の袋を沢山抱えているのを見てミサが、居間のテーブルの椅子から降りてきた。
翔太は、既にソファの上で、眠りについていた。
「納屋で、キャンプしようと思っているのだ。」
「へえっ、キャンプうれしいな。翔太、起きてよ、翔太。キャンプだって。」
完全に寝入っている翔太を、ミサは無理やりにでも起こそうとしていた。
翔太は、少し目を開けようとするが、すぐに、眠りについてしまう。
「しょうがないな、翔太は。おじちゃん、行こう。」
そうミサは言うと、大川の抱えている、袋の一つを取ると、重そうに引き釣りながら、大川の前を歩いていく。
外は、すっかり陽が落ち、灯りの無い、家の裏はすっかり暗闇に包まれていた。
大川が手探りで、袋の中からガソリン式のランタンを見つけた。
耳を当てながら、中身を確認する為、振ってみると、前回、会社の同僚とやったキャンプの残りのガソリンが入っていた。
空気を十分に送り込むと、胸ポケットのライターを取り出し、火をつけた。
たちまち辺りが明るくなった。
大川は、その灯りを元に、二つのランタンを取り出したが、二つとも空っぽだった。
車のガソリンタンクからガソリンを補充すると、一つを、納屋の中の灯りにし、一つを、入り口に置き、
そして、一つをキャンプ用にした。
テントは、八人用の大きなものだった。
砂川さんが、畑仕事から戻り、テントの設営を手伝い始めた。
「もう生まれそうかな。」
テントの張りを支える釘を打ち込みながら砂川さんが尋ねた。
「権爺は、もうすぐといっていたけど、まだまだかかりそうですね。」
「ほう、大層なものをたてとるでのう。まだ生まれんで、ゆっくりとまとうでのう。」
そう言いながら権爺は、納屋の柵を乗り越えると、小さなテーブルの椅子に腰を下ろした。
テントを建て終わると、洋子さんが沢山の夕飯を抱え、眠りから覚めたばかりの翔太の照らす懐中電灯を頼りに、運んできた。
みんなで、テーブルに食事を広げると、食事を始めた。
「砂川さん、畑のほうはどうですか」
大川が、砂川さんへと、たずねた。
「ええ、順調ですよ。トマトにきゅうり、ジャガイモに、レタス、白菜、人参、かぼちゃに、とうもろこしと、植えていますから、収穫が、楽しみですね。ただ、野菜が、誰かに、採られているような気がするのですが。」
みんなの目が砂川さんに集中した。
「採られているって、カラスとかいった類いですか。」
大川が聞いた。
「いいや、何かもぎ取られているので鳥ではないのだけど。」
「そう言えば、台所から食事が、無くなっているのよ。最近、気がついたのだけど、どうしても一食分、足りなくなるの。」
洋子さんが、不安げに、言った。
誰もが、お互いを見合った。
何か、誰かが一食多く食べているかのような雰囲気だ。
「わしは何も感じないがのう。」
「権爺の場合は、唯、気がついていないからじゃないか。」
砂川さんが、権爺の顔を探るように見た。
「そんな目で、見るでない。わしが、みんなより、一食多く、食べたりしちょらんがのう。一食でも多いくらいだのう。」
権爺は、疑われることが腹立たしいらしく、砂川さんの視線を、かき混ぜるように手を振った。
「そうよ、権爺が、そんなことするはずないじゃない。」
洋子さんの、助け舟に、権爺はほっとしたようだ。
「何も言ってないじゃないか、気づいて無いのじゃって言っただけだけど。」
「その目が物を言っているのよね。そうでしょ、大川さん。」
洋子さんの綺麗な容姿が、大川に同意を求めた。
頷かないでいられない。
「ほら、大川さんだって、そう言っているじゃない。」
「それより、確かに、もう一人いそうだねえ。一度、会ってみたいな。」
辺りを見渡しながら、出来るだけ、見えない相手に聞えるように大きな声で、言った。
今度は小声でみんなに言いました。
「物置の二階だねえ。」
みんなは頷きました。
暗くて、よくは見えませんでしたが、今にも、物置の二階から隠れている人の息が聞えてきそうだった。
確かに誰かが潜んでいることを、大川はそのとき確信した。
大川は、紙の皿に、食べ物を盛ると、物置の扉の内側に、そっと置いた。
もしかして明日まで、残っていなければ、誰もいないかもしれない。
いたらいたでそれも嫌だけど、そう大川は思った。
子牛の出産は、その後四時間ばかり経った、頃にやってきた。
権爺の牛の大きな鳴き声とともに、砂川さん、洋子さん、ミサに翔太、そして子犬の太郎と、全員が、権爺の牛の出産を目じかに見た。
子牛は、生まれるや、必死に立ち上がろうとし、薄暗いランプの光の下で、母牛の母乳を探し、乳を飲み始めた。
「かわいいね。」
ミサが、子牛を、大川から渡された、ふかふかのタオルで拭いている、権爺へと、声をかけた。
権爺は、ミサへ振り向くと、いつもの顔中をくしゃくしゃにする笑顔で返した。
「ミサや、子牛に名前を考えてのう。」
ミサは嬉しさのあまり、何度も頷き、洋子さんの袖をつかんで、洋子さんを見上げた。
「よかったわね。さあ、もう遅いから家に戻りましょう。ゆっくりと、名前を考えてあげましょう。」
そう洋子さんがいうと素直に、頷いた。翔太は、洋子さんの背中で眠りについていた。
その晩は、権爺と、砂川さんと、大川で、テントに泊まり、交代で、権爺の牛と生まれたばかりの子牛の面倒を見た。
朝は思ったよりも早くやってきた。大川は、納屋の入り口の、横に一本通しただけの、木にすわり、背中に朝日を浴びながら、タバコを吸っていた。
周りは、朝露に濡れ、背中に当たる陽の光がほんわかと暖かかった。
子牛は、納屋の角で、藁につつまれて、眠っていた。
辺りは、シーンと静まり返り、陽の当たる土からは、水蒸気が、上がっていた。
権爺の牛が、大きな声で、一鳴きすると、権爺も砂川さんも、テントから這い出てきた。
砂川さんが、大きなあくびとともに、伸びをした。
「どうかのう。」
「今は、納屋の角で眠っているようですね。」
権爺が、納屋に入り、納屋の掃除を始めた。
砂川さんは、覗き込むように、納屋を見ると、子牛の静かな寝息を確認すると、安心したかのように、テントを片付け始めた。
大川は、ふと思い起こしたように、物置に置いた、食事を取りに行った。
出来れば、残っていて欲しいと思いながら、物置の扉をあけた。
薄暗い、物置に大川が扉を開けたことで、朝日が差し込んだ。
食器は、お盆の上で綺麗に重ねられていた。
ズーンと心の中に響くほど、重い気分になり、どうしたものかと、一瞬考えたが、お盆を持ち上げた。
お盆の下から、陽の光に照られた乾いた土の上に、「ありがとう」という文字が浮かび上がった。
やっぱり誰かいるのだと、大川は、「ありがとう」の文字の嬉しさとは、別に、更に重苦しくなっていった。
物置の扉を、静かに閉めて、外に出ると、砂川さんが、片付け終わったキャンプ道具を片手に、大川を見た。
大川は、砂川さんと目が合うと、重なった茶碗を見せた。
「やっぱり、だれかいたのだね。」
砂川さんは、大川の気持ちを察して、声をかけた。
「やっぱり、誰か知らない人が、傍にいるのは、あまり気持ちのいいものじゃないな。」
大川は、砂川さんに頷きながら言った。
「探してみようか。」
砂川さんが、物置を見上げて言った。
大川は、砂川さんのその視線を打ち消すかのように、手をかざした。
「いや、向こうが出てくるのを待ったほうがいいさ。無理をしたってしょうがないしね。食事は、私が持っていこう。」
「それじゃ、洋子には私から言っておくよ。」
大川は、砂川さんからテントを受け取ると、みんなは、砂川さんは畑仕事、権爺は、牛の世話と、畑の開墾、大川と、洋子さんは、土手の修復といったいつもの生活へと戻っていった。
大川の生活は、朝に物置に食事と洗面器に水を張り、タオルと石鹸を運び、その後、堤防を作り、夕方になって社を造るという毎日を過ごしていった。
夏が過ぎても、相変わらず、物置の二階の住人は、顔を出そうとはしなかったが、朝に堤防の作業をしようと思うと、前日より確かに、作業が進んでいた。
誰かが、夜の間に手伝っているとしか、思えなかった。
大川は、ふと、会ってみたい衝動にかられ、ある晩に、待つ事にした。
土手の、端に寝袋を敷き、そこにもぐりこむと、ぴったりと子犬の太郎が寄り添っていた。
子犬の太郎は、子犬と言えないほど大きく成長し、セントバーナードよりも大きく、顔つきも、子供の頃に比べて精悍な顔つきに変わっていった。
「それにしても大きな犬だな。」
大川は、太郎の頭を撫でながら、言った。
太郎は、どこまで大きくなるのだろう。ふさふさとした尻尾をまるめて恭順の姿勢をする太郎を見て大川は、思った。
太郎は、大川の言うことを理解しようとしているのか、首をかしげながら、大きなざらざらとした舌で、大川の顔を舐めていた。
夜も深まり、うとうとしながら、待つと、太郎の激しく、大川の顔を舐めはじめた。
目を覚ますと、作りかけの堤防から、サクサクという音が聞こえてきた。
大川は、寝袋のファスナを開けると、体を起こした。
満月の灯りが、まるで昼間のように、川原を照らし、川の流れに反射して幻想的で、まるでごんぎつねの童話を思い起こすような風景が、そこにあった。
視線の先には、スコップで土を土手に盛り、固める人がいた。
女性だった。太郎は、大川の傍で、大川と同じように、その女性を見つめ、音がすたびに、大きな耳を、音のする方へと傾げていた。尻尾は大きく嬉しそうに、振っていた。
太郎は、こらえきれなくなったのか、大川の腕をするりと抜けると、駆け出して行った。
土手を、飛ぶように駆け下りると、その女性が振り向くや、飛びついた。
女性は、太郎の勢いに押されて、太郎の首に、腕を巻きつけながらひっくり返った。
「どうしたの、こんなに遅くに。さては抜け出してきたな。」
太郎の頭を撫でながら、優しく言った。
大川は、その光景をみると、なんだもう太郎は知っていたのかと思い、ゆっくりと、土手を降りていった。
灯りは、全く必要で無いほど、月の明りが明るく、その女性が、降りてくる大川の姿を、認めると、怯えたように逃げ出そうとした。
「大丈夫ですよ。何も心配することは、無いですよ。」
そう言うと、大川は、倒れている女性の、手を取り、起こした。
華奢な手だ。大川は思った。
起こすと、大川を見下ろすようなほど、身長が高く、今にも折れてしまうほど細かった。
大川は、近くの石に腰を下ろすと、傍にある、石に腰掛けるように促した。
その女性は素直に、大川の言うことに従った。
「少し聞いてもいいですか。」
大川は慎重に言葉を選びながら、言った。
暗がりの中で、女性が頷いた。
「物置にいるのですね。」
暫く沈黙があたりを支配した。
「ええ、食事いつもありがとうございます。少しでも、恩返しをしたくて、こうやってお手伝いを始めたのですが。」
言葉が続かなかった。
「それにしても、なぜ私の物置にいるのですか。」
搾り出すように大川が言った。
川の流れの音が、大きく聴こえるほど、静かだった。
「今は言いたくないのですが。」
月の光に照らされて、何か憂いを持ったその女性が美しく見えた。
「でも、決して悪いことをしたということではないのです。それは信じて欲しいのですが。」
その女性が大川を向いて言った。
その美しい容姿に、思わず大川は頷いた。
「名前は、教えてくれるのでしょうか。」
少し間をおいて、考える風だった。
「美貴といいます。」
「美貴さんか。わたしは。」
大川が言おうとすると、それを美貴さんがさえぎった。
「知っています。大川さんでしょう。物置では、みんなさんの声がよく響くものですから。」
「それにしても、物置で、暮らすのは良くない。家には部屋がまだまだあるから、家の中で、暮らしてくれないか。家には、砂川さんの奥さんの洋子さんもいるし、年齢的にも、近くて、話が合うのじゃないかなあ。」
「できればそうしたいのですが、でも大川さんに迷惑がかかるのじゃ。」
「迷惑なんかないさ、逆に物置にいられるほうが気を使うさ。それに家には風呂だってあるし、もう大分入ってないのじゃないか。」
そう言いながら大川が、美貴さんの目を覗き込んだ。
美貴さんの目から大粒の涙が、あふれていた。
太郎が、美貴さんに体を摺り寄せ、ぼろぼろに汚れた、ジーンズの膝に手を置いた。
もう既に、太郎とは友達らしい。
「それじゃ、決まりだね、今日から、大川家の一員だ。何があったかは知らないけど、いつか話してくれればいいさ。悪いことはしていないという言葉を信じようと思う。」
大川は、美貴さんにそういうと、腕時計を見た。
針は、三時をさしていた。
寒気とともに大きなくしゃみをした。
風邪かもと大川は思った。
「もう夜中の三時だ。家へ帰ろう。」
大川は美貴さんに、諭すように言った。
美貴さんは、大川に大きく頷くと、立ち上がった。
太郎は、美貴さんにしきりに甘えるように、擦り寄っていた。
「太郎は、よほど、美貴さんのことが好きみたいだ。」
大川は、少し嫉妬を感じて言った。
暗い細く草むらに覆われた道を、帰っていった。
家に着いて、居間に入ると、家中が静まり返っていた。
美貴さんを、テーブルの椅子に座らせると、大川は、コーヒーを作り始めた。
「あら、お客さんかしら。」
洋子さんと、砂川さんが起き出してきた。
二人は、椅子に神妙な面持ちで、座っている、女性を、見ると、全てを理解したかのように、大川と目配せをした。
「あら、あなたも大川家の一員になったのね。」
洋子さんがはしゃいだように言った。
「なんも心配ないさ。ここにいるみんなも、大川さんのお世話になっている連中だからね。」
砂川さんが少しでも安心させるように言った。
「まだ紹介していなかったね。ここの新たな住人になった、美貴さんだ。部屋は、突き当りの奥の部屋を使ってもらおうと思っている。幾つか事情はあるようだけど、今は話したくないそうだ。いずれ話してくれるだろうし、それまでまとうと思っている。」
砂川さんも洋子さんも大川に無条件に納得の表情を浮べた。
大川が、コーヒーを出すと、美貴さんはすぐさま、カップを手に取り、美味しそうに飲み始めた。
「あらっ。こんなに、汚れちゃって、髪なんかものすごくほつれているし、今、お風呂を沸かすから、入りなさいね。」
洋子さんが、大川に変わってキッチンに立ちながら言った。その言葉に、砂川さんが、すばやく反応し、風呂場へと向かった。
居間の賑やかさに、権爺が眠そうな目をこすりながら、起き出して来た。
権爺は、何事も無かったかのように、自然に、美貴さんの隣に、座った。
大川が、美貴さんを紹介すると、嬉しそうに握手の手を、伸ばした。
「だんだん、家族が増えてくるで。嬉しいことでのう。後何人増えるでのう。」
冗談のように、権爺が、大川に笑いかけた。
大川は、貯金のことをふと思い浮かべて、この人数で、あとどれくらいもつか、考えようとしたが、それもやめることにした。考えるだけで恐ろしかった。
ゆういつ、砂川さんのつくっている畑が救いだった。砂川さんの畑は次第に、作物が採れ始めて、食事に大分、助けとなっていた。
権爺の田んぼも大分出来上がりつつあり、来年には、きっと素晴らしいものが出来ると思われた。
堤防も、順調で多少の雨には耐えてくれるだろう。
まあ良いほうに考えるのが、楽であった。
季節が、秋に近づきつつあり、あせりも感じながら、冬が来ないことを祈った。
パンフレットには、深く積もった、雪の上で、雪合戦をする子供達の楽しそうな様子が載っていた。
それを考えると、権爺の後何人増えるのだろうと言う言葉とともに、いくら楽に考えようとしても、背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
美貴さんが、洋子さんが用意した食事を食べ終えるころに、風呂が沸いていた。洋子さんに促されるまま、美貴さんは、洋子さんの着替えを片手に、バスルームへと向かった。
「美貴さん、明日には、服を買いに、町まで行きましょう。」
大川は、居間のドアを閉じようとする美貴さんに声をかけた。
美貴さんは、ドアから、少しだけ、顔を覗かせると、嬉しそうに頷いた。
その笑みだけで、大川は、癒されるのを感じていた。
それから何日かが過ぎ、平穏に時間は流れていった。
社はほぼ出来上がっていた。
思ったような社で、後は外側にニスを塗って終わりであった。
縁側は、程よく秋の光が射しこみ、塗りかけのニスに光が反射する。
美貴さんが、大川の隣に座り込んだ。
昔からここの住人であるかのようにもう、完全に、この家になじんでいた。
「何を造っているのですか。」
大川は、ニスのへらで畑のほうを指し、雷が落ちた場所を指した。
「あのあたりに、こんな社が建っていてね、私がここに来てまもなく、雷が落ちて、壊れてしまってね、こうしてつくっているところなのだ。もうすぐ完成だ。少し以前よりも小さくなっているけど、ちゃんとしてうだろう。」
「手伝いましょうか。」
美貴さんは、大川のしていることは、何でも手伝いたがった。
大川への恩を返そうと思っているのかもしれない。
「美貴さん、大丈夫ですよ。これだけは、自分の仕事だと思っているのですから。」
それにしても、綺麗な女性である。ついついこちらを見つめる、美貴さんの瞳に引き込まれそうになる。
居間のテレビから、天気予想の女性の声が、聞こえてくる。
「沖縄に、上陸しそうな台風20号が、猛烈な風雨を伴い、更に発達して、北上中です、台風の速度は、自転車並みで既に、各地で、被害が出ている模様です。今後の台風情報に注意してください。」
それを聞いた大川の曇った表情に美貴さんが、反応した。
「台風、来るかしら。」
「自転車並みの速度って言っているから、こちらへ、来るには、もう一週間以上も先になるさ。その頃には、台風だって温帯低気圧に変わっているさ。もし来たって、堤防も半分ほど出来上がっているのだから、心配ないって。空だってすごく澄んでいるしね。それにしても天気予想って、本当に正確になったね。私が小さい頃なんて、しょっちゅう予想が外れていたけど。」
ニスが、塗り終わる頃には、陽もくれていた。明日には社を元あった場所に設定出来そうだった。
美貴さんと洋子さんとで作る夕飯は格別に美味しく、疲れきって帰ってきた砂川さんや権爺も嬉しそうであった。
本当に楽しい、夕飯であった。
大川は、こんな楽しく、食事をした記憶は無かった。
地方出身者である大川は、大学に入学以来一人で生活を始めて、いつも一人で食事をしていた。
すでに、二十年以上一人暮らしをしていた。
砂川さんは、畑でとれた作物の話を始めた。
今作っているものと、冬に向けて、砂川さんが考えていることをみんなに披露した。
白菜、ほうれん草、ねぎに大根と、砂川さんは一年を通して、みんなが食べられるように考えているようであった。
以前の砂川さんのどんよりとした暗い目つきとはうってかわって、生き生きとして、力強さがみなぎっていた。
それにあわせて、権爺も田んぼの出来具合や、来年には、収穫するつもりの、コシヒカリと日本酒の話を披露した。
急に部屋中に湿気が、こもってきた。
ふと権爺が、テーブルから立ち上がると、窓に近づいた。
「雨が降り始めているでのう。」
賑やかだったあたりの空気が、一瞬凍りついた。
みんなの視線を浴びて、権爺は、戸惑うような様子で、再び、窓の外を見た。
大川が、縁側の扉を開け、カーテンを開くと、外は、シャワーのような雨になっていた。
つい先ほどまで、晴れきっていのに、大川は、雨が降るのは一週間も先の話だと、思っていた
洋子さんが、急いでテレビをつけ、天気を確認した。
衛星からの映し出される、台風の大きさは、今まで見たことが無いほど、大きく、その雲の端が、大川の住んでいる地帯にもかかっていた。
ニュースキャスタが、しきりに地球の温暖化と巨大台風の関係を伝えていた。
各地で、被害が出始めているようであった。
「それにしても大きな台風だな。この進路をとると、ここにも来そうな感じだな。」
砂川さんが、心配そうに言った。
「堤防、もつかしら。」
画面を、食い入るように見ていた洋子さんが言った。
「明日は、みんなで、堤防を直そうでのう。」
大川は、じっと窓の外に降る雨を見ていた。
風が出てきた。
畑の伸びた作物を揺らし、辺りの木々もそれに合わせて、葉を揺らせている。
それにしても次からつぎへと問題がおきるものだ。
この成り行きだと、間違いなく堤防も決壊するだろうなあ、大川は思った。
みんなの目が大川と同じように、不安になっていることは、確かであった。
大川は立ち上がると、合羽に着替えた。
玄関に出ると、権爺、砂川さん、美貴さんが、それぞれ、合羽に着替えて、大川を待っていた。
「みんなもてつだってくれるのか。ありがとう。」
洋子さんが、ミサと翔太、太郎に挟まれて、見守るように、立っていた。
「台風の影響が少ないうちに出来ることをしたいと思ってね。」
大きな体の砂川さんが、小さな大川を見上げるように言った。
権爺も、美貴さんも砂川さんの言葉に頷いた。
玄関の扉を開けると、外は、霧雨が風に吹かれて、大川の畑中に舞っていた。
まだ、雨は強くなっていなかった。
すぐにでも大雨になるのは、想像はついた。
台風が、ここに来るまでは、まだまだ先の話だが、どれだけ雨を降らせていくのか、不安にかられる。
ススキが雨に濡れて、合羽に張り付いてくる。
川は、まだ大きな流れにはなっていなかった。
四人はすぐに作業にとりかかった。
砂川さんと大川は、岩と土を、権爺と美貴さんで、それを並べ、隙間に土で固めた。
風はあるものの、雨は断続的で、降ったり止んだりを繰り返している。
まだ、土手の半分にも満たない高さであった。
「あんな大きな台風が来て、大丈夫だろうか。」
大きな石を、手押し車から降ろし、息を切らせながら言った。
大川も踏ん張るように、石を下ろしながら、頷いた。
「どれだけ、この堰がもつかはわからないけど、川が何処まで上がってくるかだな。」
「家が流されたときは、水位がこの堰の上まできたでのう。この堰が決壊しなければ、大丈夫だったでのう。しかしのう、今回の台風は、強烈そうでのう、決壊したときよりも、相当大きいでのう。」
「まあ、やるだけやってみるさ。それで駄目なら、また一から畑の作り直しだ。みんながいるからまた出直せるさ。」
雨合羽の隙間から、雨の雫が入り込んでくるのを感じながら、みんなに聴こえるように言った。
「それもそうだ。」
砂川さんが、大川を見て、笑いながら言った。
その笑いに、美貴さんと、権爺がつられたようであった。
堤防の修復は、深夜遅くまで続いた。
みんなの懐中電灯の灯りの電池が切れかかっていた。
「明日にしよう。風が強くなってきているし、灯りもきれかかっているし。明るくなってから再開しよう。」
みなは、忙しく動かしている手を休めて、大川を見た。
みんなずぶぬれだ、と大川は思った。
「さあ帰ろう。」
大川はみんなを促した。
風は大分強くなってきている。
権爺の作りかけの、田んぼを守ろうとする姿が、真っ暗な闇の中で、懐中電灯に浮かび上がる。
「もう少しやっていきたいでのう。」
「権爺、もうこれくらいにしましょう。もう十分だ。」
「ただのう、大風が来て、もし決壊しなかったらのう。農協からお金が借りられるのだ。耕運機や飼料や買えるで。」
「それも、そうだけど、僕らがつくった堤防だもの、そう間単に決壊することはないと思うのだ。土をもって、石を引いてその上、太い杭を差し込んでいるのだから。もしこの上を水が溢れたとしても、決壊したときの水量にはならないし、畑にはきっといかないはずさ。今日はこれくらいにして、明日、明るくなったら作業を進めましょう。」
権爺は大川にうながされるまま、手の動きを止めた。
家にたどり着くや、誰もが自分の部屋に戻ることもできずに、合羽を脱ぐやいなや廊下で倒れるように眠り始めた。
洋子さんがあわてて、毛布をそれぞれにかけてまわった。
大川は、立ち上がると、居間に入り、テレビをつけ、サスペンス映画の字幕に流れる台風情報を確認した。
台風の勢力は、風速32メートルと相変わらず巨大な勢力で、徐々に近づいていた。
それにしても、温暖化の影響で、年々台風の規模が大きくなっている。
北極の氷が今年の夏には、消えてしまうそうだ。
台風との関連では、海中の塩分濃度が低くなり、水の蒸発量が増えて台風が巨大に成長するそうだ。
大川は、洋子さんのいれてくれたコーヒーを持ちながら、画面に流れる字幕を追った。
世界中が何か間違っている方向に進んでいる。
人口は毎年一億人以上増え続け、世界的な不況の中であえいでいる。
まあ、自分だけが不幸だと思えるだけ、幸福なのかもしれない。
手に力が入らずコーヒーをこぼしそうになる。
「だいぶつかれているようね。みんなも玄関で寝てしまって、どうしようかしら。大川さんも少し部屋で寝たらどうですか。」
「みんなをおこすよりこのまま寝かせておいたほうがいいね。わたしも、このまま居間で仮眠を取ることにするよ。夜が明けたら、また堤防つくりだからね。」
「お風呂を沸かしときますね。」
大川は、それに答えることもできずにテーブルに顔を押し付けるように眠りに落ちていった。
いつ、床に落ちたのか知らぬ間に、床に寝ていた。
毛布がかけられ、傍には太郎が張り付くように、寄り添っていた。
うすぼんやりと時計を確認すると、8時をまわっていた。
太郎が顔をなめはじめた。それにしても大きな舌と牙である。
大きさはもう大川と同じくらいの大きさになっていた。
こんな犬を今まで見たことが無かった。
時折見せる野性の目の冷たさに、ぞっとすることがあるのだが、太郎は大川に完全になついていた。
居間は、湿気をたっぷりと含んで、@@@@
テーブルでは、砂川さんや権爺や美貴さんがすでに、黙々と食事をしていた。
「外はどんなあんばいかな。」
大川は、誰に言うでもなく聞いた。
「まあ、降ったりやんだり、強い風がふいたりやんだりで、その間隔がだんだんと、短くなってきているでのう。」
「ニュースじゃ、今晩にもこの地方を台風が襲うって、自転車並みの台風からだいぶ足が速くなったようです。」
権爺の話に付け足すように砂川さんが言った。
大川は起き上がると、廊下に出て、外のカーテンを開いた。
水蒸気で曇ったガラスを手で、拭いた。
確かに、昨日より風は強く、時折いかにも台風が近づいているぞっていう、激しい雨が降り注いでいる。
外に見える木々は、風に揺られて、大きくうねっている。
「大川さん、食事ができていますよ。それと、お風呂も。」
洋子さんが、テーブルの椅子を引いて、大川を促した。
大川は太郎にしがみついて起き上がると、紙をかきむしりながら、テーブルの椅子に腰を下ろした。
「洋子さんは寝たのかい。」
箸を手にしながら、大川が聞いた。
「ええ、少し、でも私は皆さんのように堤防の作業をしているわけではないですから、無理はききそうですから。」
「すまないでのう。」
権爺が深々と、洋子さんに頭を下げた。
「さて、わたしたちは、先に堤防に行きますから、大川さんも、風呂から上がったら、来てください。」
砂川さんが、大川に気を使うように言った。それに権爺と美貴さんが頷いた。
大川が、風呂から上がり、合羽に身を包んで堤防に向かった時には、すでに、大川たちの作った堤防の真ん中まで水が増水していた。しかし、勢いのある水に、彼らの作った堤防は、少しも流されること無く、しっかりと水を食い止めていた。
権爺が、土を一生懸命盛ろうとしても、勢いのある雨のせいで、川へと流されていく。
「権爺、砂川さん、美貴さん、もう土は、無理だから、できるだけ大きな石と、杭を打ち込むだけにしよう。」
声が風に流され途切れ途切れになりながら、大川が言った。
遮二無二、みんな働いたが、夕方には、川の水量は、増え続けついには、築いた一番上まであふれそうになった。
作業するには限界であった。
大川は、みんなに、もう帰ろうというジェスチャをした。
みんなはしょうがない、というふうに頷いた。
少しずつ、石と石の隙間から、水が、畑のほうに流れ出していく。
ふと大川が、堤防の上を見上げると、洋子さんが、みんなに大声を張り上げて、いた。
風と雨で声が流され、何を言っているのが聞こえなかった。
大川はそれを見ると、駆け寄った。
「ミサがいないの。」
声が風にかき消される。
「ふと目をはなした隙に、ミサの姿が家からいなくなったの。」
「牛小屋や納屋は調べたかい。」
「ええ、どこにも見当たらないの。」
何事かと、砂川さんと権爺、美貴さんが、集まってきた。
「ミサちゃんがいなくなったようだ。」
雨の中、砂川さんの顔色が変わるのがわかった。
大川は、ふと堤防を作っている向こう側に黄色い合羽を着たミサを見つけた。
ミサは、みんなを発見して、みんなが作っている堤防に降りて、わたろうとしていた。
「危ない」
大川は、叫んだ。
みんなが振り向くと、同時に水の流れに、足を滑らし川に、飲み込まれていった。
大川は、それを見るや、合羽を脱ぎ捨て、一瞬みんなを振り返ると、飛び込んでいった。
みんなは、引き止めるのに手を伸ばすのがやっとであった。
水は、とてつもない速さで流れ、渦を巻き、大川の姿はあっという間に、見えなくなった。
再び大川が、顔を水面に出すと、ミサの黄色い合羽が、浮き沈みしていた。
それを見ると、大川は全力で、近寄り黄色い合羽を引き寄せた。
ずっしりと重く、濁流の中でもまれそうになる。
耳元で、ぶくぶくという水の音が激しく聞こえる。
背中に大きな痛みを感じた。
風に倒された、柳の木であった。
大川は、とっさにしがみつくと、その木の上に、ミサを押し上げた。
遠くから、太郎がものすごい勢いで、駆け寄って来た。
柳の木の根元で、一瞬くるりと回り、何か考える様子であったが、すっとその木を渡り、
ミサの黄色い合羽の隙間に口を入れると、堤防の上まで引きずり上げた。
息をきらせて到着した、砂川さんが、ミサに人工呼吸を始めた。
枝につかまりながら、大川は、意外と冷静に、その様子を見ていた。
太郎は、それを見ると、次に、大川を助けようと、再び柳の木の根元にきたが,
柳に水が覆いかぶさってきたのと、大川の体のほとんどが、水に浸かっているため、
うろうろするばかりであった。
ごうという風の音で、あたりの音は聞こえない。
ようやく、権爺と美貴の姿が、大川の視界に入ってきた。
川は、海のように大きな波をたて、大川を水の底にひきずりこもうとする。
柳の木も、悲鳴をあげ、今にも根元からちぎれて、ながされそうだ。
腕の力もだんだんと、ぬけていく。
砂川さんが、ミサから離れると、大川に腕を丸めて、円を描いた。
ミサは、大丈夫だったようだ。
それを見ると、大川は、大きく頷き、手を上げて家のほうを指した。
砂川さんは、それを見ると、ミサを抱え上げて、堤防を降りていった。
権爺と美貴と太郎は、相変わらず、何もできぬまま、
倒れた柳の根元で、行ったりきたりしていた。
川の水は、冷たく体中の感覚が麻痺してくる。
風は相変わらず、強く吹きつけて、上に下にと大川を攻め立てる。
突然、大川がつかまっていた、柳の木の根元が崩れた。
木につかまりながら、大川は周りの景色が流れていくのがわかった。
「あっ、流されている。」
そう思うと、岸にいた権爺と美貴さん、太郎が大川のつかまっている、柳の木を追いかけ始めた。
柳の木はものすごい勢いで流され、権爺と美貴さんの姿は、風雨の中に消えていった。
柳の木に覆いかぶさってくる。
そうした中で、木が浮かび上がった瞬間に息継ぎをする。
どこまで流されたか、どれだけ時間が経ったのか、わからなくなってきた。
大分、水は飲んでいるようだが、まだおぼれるほどではなかった。
ふと、小学校の低学年だったころ、銭湯の女風呂で、おぼれた記憶がよみがえってきた。
ぼこぼこと、口の中にすいこまれていくお湯と、お湯の中から見えるたくさんの女性がいたが、誰一人大川がおぼれていることに気がついていないようで、また悪ふざけをしているとしか、見られていなかったようであった。
そのときは本当に死というものを知ったような気がしていた。
銭湯の女風呂でそういう境地を悟るということは殆どのひとはないと思うのだが、確かに湯船の縁に両手をもたげて、むせるその姿は、いまこうして、木にしがみついている状況を思い起こさせた。
むせるのは一瞬で、川の水は再び大川の体を水底に引きずりこんだ。
不思議と大川には、死への恐怖は感じなかった。
水は容赦なく大川の口の中に流れ込んでくる。
ものすごい水の力が大川を川の中に引きずり込むと、あっという間に木が離れていった。
もう大川には川の流れに逆らうことはできなかった。
そう思うと、意識が次第に遠のいていった。
突然、大川はふとものすごい力でそれでいてやさしく引き上げられるのを感じながら、大川は完全に意識を失っていった。
どれくらい意識を失っていたのかわからないが、目を覚ましたのは、町にひとつしかない病院のベッドの一室であった。
その間、大川は、今まで一生分の夢を見ていた。怖い夢、楽しい夢がうずまく中で、
カーテンの隙間からもれる日差しがやけにまぶしく、最近では殆ど感じなくなっていた爽やかなみずみずしい感覚がよみがえってきた。
その光がさえぎられると、目の前に権爺の姿があった。
「おおっ、目を覚ましたでのう。美貴しゃんほら、大川さんが目をさましたでのう。」
窓の外を眺めていた美貴さんが、権爺の言葉にベッドまで駆け寄り、大川の顔を覗き込んだ。
大川には二人の顔がやけにやさしく、そして眩しく感じた。
「どれくらい、こうしていたのでしょうか。」
「もう二週間になるで。」
権爺は、うれしそうに、目を細めて、大川に言った。
「もう目が覚めないと思ったわ。お医者さんだっていつ目覚めるかわからないって。もしかしたら一生そのままかもしれないって言っていたし。それに、私たちお金が無いから、毎日ここにこられないし、砂川さんも子供たちがいるし、それで、・・・それで権爺と私が看病することに・・・」
なだれのように、美貴さんがまくし立てるが、もう最後まで言葉をいいきることはできなかった。
しきりに、美貴さんの頬を涙が伝わっていく。
「ミサは大丈夫だったかい。」
「ええ、大川さんがいなきゃ今頃どうなっていたか。砂川さんが、どうしても大川さんの看病をするって聴かなかったのっだけど・・・」
「畑のほうは大丈夫だったかい。」
大川がおそるおそる、権爺に尋ねた。
「おお、畑のほうじゃが、ほんの少し水が畑の隅をこすったくらいで、まったく影響は無かったで。堤防からあふれた分の水だけで。堤防は予想以上に丈夫だったで、大川さんが回復したら、また残りをやるでのう。」
「ああよかった。これで、もしかして農協からお金が借りられるかもしれない。」
「まだそんなことを考えるより、早く体を元にもどしてくださいな。」
美貴さんが大川をいたわるように、大川の上にかかっている毛布をかけなおしながら言った。
「入院費大分かかったのだろうな。それと、私の部屋の隅に手提げ金庫があるのだけど、その中にここの入院費ぐらいは入っているので、それを使って欲しいのだ。」
「明日砂川さんが来る予定でのう。そのときに伝えるし、この病院の支払いは、退院時で良いって行ってたでのう。」
ちょうどそのとき開かれた病室のドアから、50歳近いめがねをかけた背の小さい看護師が入ってきた。
「あら、目を覚ましたのね。それじゃ先生を呼んできますので、静かにしていてくださいね。」
「看護師さん、私の退院はいつになりそうですか。」
「何を言っているのですか、二週間も意識をなくしていたのに、すぐに退院できるものかしら。」
つっけんどんで、さもめんどくさそうな言い方で大川のすぐに退院したいという願望を打ち消した。
翌日には、砂川さんと洋子さん、ミサと翔太がやってきた。
大川がベッドの上で、上半身を起こしているのを見るや、ミサが大川に飛びついてきて、泣き出した。
大川は、その小さな頭を撫でながら、砂川さんと洋子さんの何度も謝る姿に、もういいよというように、小さく手をふった。
「よかった、大川さんが目を覚まして、このまま意識がもどらないままだったら、どうしたらいいかと洋子とそればかり話して・・・」
涙を流す砂川さんと洋子さんを、大川はやさしく見返すと、その涙は更に大粒の涙へとなっていった。
「ミサちゃんが無事でなによりだった。ただ気になるのは、意識を失う瞬間に、ものすごい力で、引き上げられたきがするのだけど。」
「ああ、それは太郎だ、どうも大川さんしか懐かないようで、食事はとるのだけれど、誰にも近づこうとはしないのだ。ただ玄関先で、大川さんの帰ってくるのを待っているようで、じっとうずくまっているだけなのだ。本当に変わった犬だ。」
砂川さんが、涙をふきながら言った。
「そういう意味で、ミサや翔太にしても、おじちゃんはっていつもきいてくるのだ。大川さんが元気になって帰るとどんなにか喜ぶことか。」
「おじちゃんか」
大川は、何か懐かしい言葉を聞いたようにいった。
そうしていると、医師が開かれたドアから入ってきて、大川の横にいた権爺をどかすと、ペンライトで眼底を確認し、聴診器で確認した。
大川は、心配そうに見ているみんなをやさしく笑いかけ、退院する日を思い浮かべた。
それから一週間ほどかかったが、体力的には以前の体力を戻すにはまだ相当時間がかかりそうだった。
砂川さんは畑へ、権爺と美貴さんは堤防の補強に、洋子さんはまとわりつく、ミサと翔太をかまいながら、家事をしている。
大川は縁側に出ると、ほぼ出来上がっている社に色を塗り始めた。
よく神社の色と同じように、オレンジに近い赤であった。
その隣には、太郎がすやすやと眠っていて、時折大川のたてる大きな音に、反応して大きな耳を震わせる。
社は、素人大工にしてはよくできたと思うほど、よいで出来栄えであった。
みんなを守ろうと思っていたのが、いつのまにかみんなに守られている、そんな気がした。
生まれて初めて感じる、心の平穏を今ようやく手にしたと思った。
社に色を塗り終わると、縁側に大の字になり横になった。
風は気持ちよく、大川を撫でるように通り過ぎ、やわらかく暖かい日差しが差し込んでくる。
入院しているときには気がつかなかったことであるが、あの暑い太陽は去り、秋の匂いがそこにあった。
太郎は、何時の間にか、大川に寄り添うように顔を寄せてくる。
大川は太郎の首に手を回すと、頬ずりをした。
大きく開かれた口から、赤い舌が大川の顔をなめまわす。
それにしても、だんだん怖いほど大きくなっていくと大川は思った。
大川は、社の塗装が乾くのを待つと、夕方になってみんなが戻ってくると、その社をみんなで担ぎ上げ、元あった場所へと置いた。
置いた瞬間に、畑一面に強い風が吹き、青々とした作物を扇いだ。
その時、大川は何かが変わると確信した。
社の周りを囲んだ、権爺、砂川さん、洋子さん、美貴さん、ミサと翔太が、本当に楽しそうに笑っている。
みんなの顔を、夕陽が照らしだす。
畑全体の黄金色の実りが、喜んでいるように風に右に左になびく。
まるで、古い時代の一つの風景を切り出したようだ。
家から、電話が鳴っているのが聞こえる。
洋子さんが、みんなの輪から離れると、駆け足で、家へと向かった。
今頃、なんだろうと、大川は洋子さんの後姿をみつめた。
社は、昔からそこにあったように、この畑に溶け込んでいた。
「今日は、この社の前で夕飯にしようか。」
大川は、その楽しさにつられて言った。
「それがいい、今夜は丁度、満月になりそうだのう。」
権爺が、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにさせながら大川に答えた。
ミサと翔太は、飛び上がって、大川に飛びついてきた。
「それじゃ、準備を始めようか。今日は、お祭りだ。」
砂川さんが、大川に笑いかけながら言った。
「大川さん」家の玄関から、洋子さんが大声を張り上げている。
「役場から、補助がおりるそうよ。堤防も直してくれるって。」
それを聞いた大川は、近くにいた、砂川さんと強い握手をした。
「これからが、大川農場のスタートだな。」
砂川さんが、うれしそうに大川の手を撫でた。
「砂川さん、権爺、美貴さん今後とも宜しくおねがいしますね。」
みんながスクラムを組むように、大川を囲んで喜び合った。
その夜は、砂川さんが祭りといったように、大騒ぎだった。
それは、夢のように楽しく。一晩で家の食べ物や飲み物をすべて、みんなの胃の中に収めてしまいそうな勢いだった。
大川は、テーブルに座り、お酒を飲んでいたが、砂川さんと権爺はすでに酔いつぶれて、社の傍に横になっていた。
月はまるで昼のように明るく照らし出し、その平地を照らし出す。
そういえば、太郎がいなかった。
テーブルには、洋子さんや美貴さんが眠っていて、ミサと翔太はそのテーブルの下で、静かな寝息を立てている。
今、起きているのはどうやら大川だけのようであった。
そういえば、社を置いた時から、太郎の姿は見当たらなかった。
大川は、あちこち太郎を目で探した。
大川は、裏にある山を見上げると、そこの山の中腹に張りだした岩の上に、太郎がいるのを目にした。
なんであんなところにいるのだろう。
大川は、眠い目をこすりながら、その岩の上に見入った。
太郎の姿はいつもの何倍もの大きさに見え、野生を感じさせる。
突然、太郎は、顔を月に向けると、大きく「ワオーン」と吠えた。
それは、到底犬の鳴き声ではなく、よくテレビで見る、狼の鳴き声であった。
「太郎は狼だったのだ。」
日本に、絶滅したとされる狼が、まだここに生き残っていた。




