稽古-1 Lesson-1
キリのそれも大概のものであったが、エルの探究心も、負けてはいなかった。
人間を超越する、枠を飛び越えるためには、どうしてもキリの創造力を吸収する必要がある。エルは散々考えた末に、人間性を放棄するというネガティブな向きの考え方をやめ、維持したまま、片足だけ踏み出せないものかどうかと、都合のいい捉え方をした。何でも出来るキリが作り出した世界で、自分だけが何をも出来ない状態でいるのは、これから「遊ぶ」には不都合が過ぎる。それに何事も、挑戦してみることは美徳とされる。
エルの申し出を、キリは受け入れた。それは、自己の能力を、他者が行えるのかどうか、という実験に近い思惑からだった。何せこれまでにはヒトガタをいくつも生み出したばかりで、彼らはさらに何かを作り出すどころか、言葉も発さず、思考も行わない。エルのような「対等」な立場の生命体が「同等」の能力を持っているのか、また、持つことが出来るのか。初めての対象であるからして、キリには実に興味深い事柄だった。
家を出るとき、
「作ったんだ」
キリが靴を履くのを見て、エルは驚いて声を出した。まさか本当に作るとは思っていなかった。あくまでもキリは自己の好奇心に突き動かされているだけで、時計や空色が正常になったところで彼本人には無意味であるように、この靴という存在も、彼の好奇心を充足させるとは思えなかった。
ということは、キリは、自分のために靴を用意し、こうして隣で履いているのではないか。
それは自己満足に違いなかったが、エルは喜びを顕にした。
二人で外に出る。
「こうやって見ていると、すごく日常っぽいのにな」
眼前を流れる人、正確にはヒトガタたちを、エルはぼんやりと眺めていた。路上には、人が右往左往している。そして知り合いを見つけると立ち止まり、他愛もない話をする。それがエルの世界での「日常」であった。
ここを歩くヒトガタたちは意味もないところでひとり停止し、数分経つとまた歩みを再開させたり、床を五十回小突いたりしている。全てはキリがそのような回路を作ってみたかった、という一言に尽きる。意味はない。
「っぽい」と表現されるということは、それと同一ではない。似ている、に過ぎない。また言い草もあって、やや否定的な文言ではあったが、キリはそれを気にするどころか、エルの申し出のために、手をかざして全てのヒトガタを消滅させた。
「作るのと消すの、どちらからやろうか」
「消すの」
答えた彼女にも、考えがあった。
消せたほうが、キリの作り出した不愉快なものをすぐに消滅させることが出来るからだ。例えば、あの花のようなものを。
「これは、技術が必要なことではない」キリは右腕を伸ばすと、手のひらで家のひとつを視界から隠した。「今、エルには、あそこに在った家が見えない」
「うん。見えない」
「あそこに、どんな家が在ったか覚えている?」
「えっと、緑色の屋根の……、形はぼんやりしかわからないな」
「それでいい。いや、覚えて居ないほうがいい」
「どういうこと?」
「例えば」キリは言って、右手を下ろした。「今、会話の中で出てきた、緑色の屋根、のイメージだけが頭の中に残った。だから」
そこにあった二階建ての家は、屋根だけのものに変わっている。
「緑色の屋根だけが、残った」
「そういうこと」
「どういうこと?」
しかしエルにはその理屈がほとんど理解できなかった。
物事に執着しがちな人間には、難しいことなのだ。
「ものを消すときに大事なのは、考えないことだ。手をかざし、下ろす。それだけの動作を、ただ行う」
「全然わからない」
「技術も要らなければ、思考も必要ない。消す、とはそういうことなんだ」
雑念の多いエルには全く無理な話に思えた。
「とりあえずやってみる」
見よう見まねで手を上げると、キリがほとんどを消した緑色の屋根を、覆い隠す。考えない、考えない、と考えている自覚も湧かないまま、十秒ほどで手を下ろしたが、そこには依然無意味な屋根が据えられたままだ。
キリに教わるには、もう少し言葉や人間性を持たせてからのほうが良かったかもしれない、という後悔も、雑念のひとつである。
「消す、を根本的に理解する必要がある」
「キリは理解しているの?」
「十全には、まだ」悔しさの欠片も垣間見えない。「単純な言葉で説明するのは難しい。それでもエルに合わせて言うならば、意識から外す、というのが大事なんだ。そこに在ったものが何か、考えないことが」
「今、考えなかったよ?」
「考えていたから、消えなかった」
「考えていなかったけどなあ……」
「反復することが大事だ。出来るまで、やり続ける」キリは今までもそうして様々なことに答えを出してきた。「それしかない」
もっと簡単な手立てはあった。
エルには出来るよ。
その一言だけで、本来エルはものを消す能力を習得できるのだ。それは、キリがこの世界の創造主だからではない。何より彼女は異分子で、キリには消すことも出来なければ構造を再構築することも出来ない。ただ、それだけで、エルは自分にはそれが可能なのだと思い込めるのだ。
考えないとは即ち、当たり前のこと、に昇華するのと近しい。彼はこの世界に起きる全てを「当たり前」なのだと消化できる。エルの感覚にしてどれくらいか、ずっとここに居たキリだからこそ、それは簡単に行えるのだが、そのキリから、出来ると言われる、たったそれだけのことが、この世界の異分子には重大なことだった。
二人はそれに気付かないまま、何度も、手を上下させていた。
稽古は、まだまだ必要そうである。