リビング Living
リビングに場を戻す。睡眠を取ったとは言え、時間の経過は僅かなものであった。もとより、キリにとってはないものに等しい。
テーブルに対座し、しかし沈黙のまま、コチコチと、時計が正確な時を刻むのを聞いている。
エルは頭の中で、今しがたキリの作り出した自分の夢のイメージを、何度も、咀嚼していた。あれは、見たことのある花によく似ていた。とてもそうであると断言出来る要素は存在しないが、それでも自分が夢に見るならば、あの花なのだろうと、感じている部分があった。
それは一体、どのような心境から生み出されたのだろうか。
自分の見た夢を思い出せないことが歯痒かった。思い出せない、と思い込んでしまうことが、悔しかった。そうやって自分の能力に制限をつけてしまうことが。
エルは、人間の枠を超越することが出来ていない。再三、忠告は貰っていたし、目の前でキリという存在を目視しているにも関わらず、それでも、あくまでも人間としてキリと対峙していたいという想いが、無意識において繁殖し続けているからだ。そのために全てを投げ出しここを訪れ、彼を見つけ出したのである。彼はすでに人間性の欠片も失っていたが、幸い、自分は、自分を見失わなかった。ならばこのままで居るほうが、このままの自分でキリに人間性を取り戻させるほうが、きっと最善の手立てなのだと、諦めにも似た過信が胸中に潜んでいる。
運命、という不確定なものに、人間はがんじがらめにされている。
全てのものは偶発的ではなく必然的であるのだと、思い込んでしまうことにより、自分の意思を、抑圧してしまう。
感情は、邪魔だ。
怒り、喜び、悲しみ、蔑み。様々な思惑が、エルの居た世界では渦巻いていた。それによって幸福を得る人、不幸を被る人、色々な人間を見てきた。もちろん、自分もそのどちらかに属してしまっている認識も、あった。
そういった全てを、彼女はもとの世界に置いてきたつもりだった。
「ねえ」
思考を中断させると、エルは少年に声を投げた。キリは漫画で得た言葉遣いを定着させるために口をもごもごとし、反芻させていたのを止めると、
「どうした」
返答をする。こういう場面においては、声音はやさしいほうがいい。だが、彼にはまだうまくは出来なかった。所詮は付け焼刃、安定しない。
「あなたはいつも、何をしているの?」
「思考、創造」もしくは、とキリは続ける。「何もしていない」
「ずっとずっと、何年も考えたり作ったりしていただけ?」
「そう。何年、と考えたことはないけれど」
少年の言い草は、少年というには大人びている。安定こそせずとも、少なからず当初よりは無機質ではなくなった。
「昔のことを思い出すことはないの?」
「昔も、今も、未来もない。全ては一瞬なんだよ。些末な問題なんだ」
エルにはよく理解できなかった。
だから、
「私、今いくつに見える?」
全く素っ頓狂な質問を繰り出したが、キリはこれに動じることがない。
何せ答えは、
「わからない」
の一言だけに尽きるからだ。
時間、月日の概念を忘却していれば、人が、一体どれだけの時間を要しどれだけ大きくなるのかも、忘れている。ましてや彼自身の身体に成長はない。この世界において成長によりその質量を増幅させるものは何もない。
「十七だよ」
「Q、か」
「アルファベットは関係ないよ」
「十七年は、長い」
「長かったよ」
二人の会話は、会話というには粗末だった。
しかしこの狭いリビングルーム、そして彼の作り出した広大な世界においては、どんな会話であれ、唯一のものに変わりはない。或いは全ての会話が、埋没してしまうにせよ、絶対的にそこにしか存在し得ないものでもある。
「私はここに住む。キリはいつもどこにいるの?」
「路上。全てのことは、そこで行っている」
「じゃあ」
エルはこのあとに言葉を続けるのに、酷く時間を要した。
それは、いつから、自分が望んでいたことなのか。その明確な数値は導き出せないが、どんなものよりも、果てもなく、望み続けていたことは確かだ。
ずっと、こうしたかった。
二人の男女に育てられたが、そうではなく、エルはキリにそばにいて欲しかった。
そうだ、エルは、キリを知っている。探し求めていた。ずっと、ずっと。
「一緒に、ここで暮らそう」
でもそれは、悟られてはいけない。キリには、自分との関係を、悟られてはならないのだ。
もしそれを知ったら、彼は、この世界から消滅してしまうかもしれない。
自分が存在する、というのが、彼にとって、幸か、不幸か。それを考えるには、彼女の成長は未熟だった。しかし、そのほうが、ずっと彼女にとって楽だ。
「構わない」
この返答で、エルはひとまず、第一段階をクリアしたと言っていい。
これから、二人の生活が始まる。