横たわる Lie
キリは手をかざすと、今しがた食事を終えたばかりのリビングの隣の部屋を、和室から寝室へと変えようとした。それは、疲れたのであろうエルを気遣うための動作ではなく、やはり、夢を具現化することへの好奇心からに他ならない。
「やめて」
しかしこれを、エルは拒絶した。彼女自身も、それを気遣いと感じたわけではない。純粋に、自分の頭の中から生まれたこの家を、塗り替えられたくなかったのだ。
手を下ろすと、エルのほうを見た。椅子に座ったまま、少年のほうへ視線を据えている。
「こういうときは、すまない、って言えばいいんだよ」
それは怒りよりも、慈愛に満ちた指摘だった。
すまない、という感覚こそなかったが、
「すまない」
キリは言われたとおりにした。
無敵の少年はもう居ない。ここには、未知へ対する探求のしもべが存在するだけだ。
エルは微笑みを見せた。キリはそれを真似した。そして古い昔に、笑みを浮かべていたことがあるかもしれない、というぼやけた意識を、瞬間的に発露させたが、気に留めなかった。
二階部分の、奥の部屋へ場を移す。勉強机とベッド、あとはハンガーラックが在るだけだった。テレビもなければ、本棚もない。
ベッドに掛けられた布団はところどころが裂け、みすぼらしかった。ほかのものは新品のように傷一つなかったのに、これだけはその真新しさを感じさせない。だからと言って、キリが何かを発言することも、思考することもない。
そこへ横たわると、エルは布団に鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。その動作の理由に、まるで見当が付かないで居ると、
「懐かしい匂いがするの」
彼女は顔を埋めたまま、くぐもった声を出した。
エルを通し、何かを思い出すあの感触が、懐かしい、というものであることを、キリは把握する。
「それは、いい」
感想を漏らすと、彼女は喜んだ。
エルが眠りに落ちるまで、キリは周囲を見回していた。このような内部構造を持たせてみるのも、いいかもしれない。
勉強机の上には、写真立てが置かれていた。知らない男女に挟まれる形で、知らない幼子が写っている。みな、笑顔を見せている。この中央の幼子は、エルに違いなかったが、キリは成長を知らないために、二人を結びつけることはなかった。
引き出しを開けていくと、数冊の漫画と大学入試のための教材が置かれていた。キリは余り考えることなく漫画のひとつを手に取り、開いた。これまでキリは絵画に興味を示したことがなかった。というよりも、造形という発想しか、彼にはなかったのだ。平面に絵柄を描くことを、思いつかなかった。
「お前、俺のこと好きなんだろ?」
思い出されていく文字の形、目に留まったひとつの文を読み上げると、布団の中でエルが声を立てる。
「やめてよ」何が可笑しいのか、理解が出来ない。そもそも、可笑しい、という感覚が彼にはない。「あ、でもちょうどいいかも。そこに入っているもので、日常会話というか、感情というか、もっと、色々人間らしいところを覚えてよ」
これは、特段、キリを貶めようという意図が隠された発言ではない。純粋な、希望と言えた。
エルは、キリに人間らしくあってほしかった。
「わかった」
あとは、テレビでも作ってもらって、アニメやドラマを見せて抑揚を覚えさせよう。或いは友だちとの会話の記憶を流し込むのでもいい。彼女は思いながら、再び目を閉じる。
少年は漫画を読んでいたが、それは目に見えるものよりずっと少年らしからぬ行為でもあった。娯楽ではなく、あくまでも学習であるからだ。創作のものをそう表現するのも憚られるが、今よりはずっと「人間らしい発言をする」ための、言語学である。
元々は、彼はその姿のとおり、少年らしい存在であった。この世界へ生れ落ちたとき、彼はもっと快活で活発な存在であったのだ。
それが、自覚しない永久に居る間に、徐々に、見失われていった。頭の中にはまだ存在していたのに、感情や自己、人間らしいそれらを取り出すことが、難しくなっていった。色々なことを考え、創造に耽っていたせいである。なにより、一人きりであるから、必要性も生まれなかった。そうしているうちに、どんどんと奥の方へ沈んでいってしまったのだ。
だからこれはエルと会話をするための予習ではなく、復習なのだ。覚えたことを、覚えていたことを、復帰させ、定着させるための。
机の中にあった漫画の、半数ほどを読み終えた頃、まだ眠りに誘われていなかったベッドの上のエルから、
「隣に来て」
声が掛かった。
キリはそれに従う。理由は、考えないことにした。彼女が与えてくれるのだと、無自覚に、期待していた部分も、確かにあった。しかし彼女は、キリが隣に来ても、何か言葉を続けることはなかった。
二人は、エルが眠るまで、ずっとそうして、寄り添って横たわっていた。