風景 Landscape
キリが人間へ近付いていくこともそうではあったが、もっと本質的な問題を述べると、エルの脳内には「人間における習慣から離れなければならない」「超越した存在にならなければ」という思いが隠されている、ということである。
エルの頭に触れ、キリがものを作り出す。
疲れや空腹を覚えたように、エルも、キリの創造力を、目の前で見て、学習している。
この世界に、言語を介し思考を行う生命体が二つになった。そして創造主たる片方は、突如として来訪した異分子を、姿勢としては、受け入れた形となる。それは、排斥出来なかったから、とも言えたが、彼女が少年に「与えた」ことが、ここに残されている要因とも言える。
手をかざして消えなかったからと言って、エルの存在を消滅させることが不可能なわけではない。彼が毎日容易く行っている「殺す」という行為を、もっと、実質的に行えばいいのだ。つまり、何かを作り出して、それの作用で生命を絶つ。キリにもその方法は残されていた。
しかしそうしなかった。彼の知識欲、好奇心が、そうさせなかった。
思惑は別として、それはエルが最初に、キリに言葉を掛け、いくつもの驚きを与えてしまったがゆえに、なのだ。
「見つけた」
食事を終えたエルが充足の渦の中で中空を眺めていたところに、キリが声を掛けた。
緩慢な動作で、視線が合う。
「見つけた、と言っていた」
これは、特に意図があって齎された言葉ではなかった。会話をしようと思ったのに過ぎない。
「あれは」しかしエルは、この言葉に心を乱した。「えっと」
言葉が続かない。その理由がキリには想像出来なかった。より正確に言うなれば、答えがこれであると明言出来ないのだ。ぐるぐると回る鍵が、音を鳴らさない。それは、彼の余り触れてこなかった、感情の部分が根底に潜んでいるからである。知識と経験は別物であり、経験の記憶がない彼には、何かを言いよどむのにどんな理由があるのか、やはり、明言出来ない。
悪かった。聞かなかったことにしてくれ。
そういう気遣いも、彼の経験のうちにはない。
ひたすら時間が過ぎていく。ただし、キリはそれを気にすることはない。納得のいく答えが導き出せるのならば、どれだけを費やしても思考をしてきた。それに比べれば、僅かとも言える。
エルのほうでは、そうは思えなかった。彼女は今のところ、時間にも疲れにも空腹にも縛られている。対人の経験がある。表情のない少年に見つめられて、困ってしまったのだ。
まだ、自分は人間という殻から抜け出せていない。
それを理解して、また、悔しくなる。
しかしこのようなことを、悩む必要は、エルにはない。キリは与えられたものを、簡単に飲み込むからだ。この世界のルールは知っているのに、彼女はキリのことをまだ幾ばくも知らなかった。
「それより」この誤魔化しは苦しかったが、それを感じるのはエルだけだ。「今日はもう寝ようよ」
キリには睡眠は必要なかったし、また、エルによって再認識した空色も、まだ明るかった。
ただキリは、そのようなことを気にするよりも、また、別の言葉が頭に浮かび、回答を求めた。
「眠ると、夢を見る」
思いつくままに口に出される言葉は、散文詩のような印象を与える。
「そうだよ」
或いは少年は少女と出会ってからずっと夢心地なのかもしれないが、それよりも、話題が逸れたことを、エルは喜んだ。
「夢は、イメージか」
「大体そんな感じ」
「大体」も「そんな感じ」も理解できなかったが、肯定されたようであることは、認識できた。
「エルが眠っている間、ずっと頭に触れていたい」
状況が違えば、愛の囁きのようでもあった。
しかし二人とも愛を知らない。
「起きたら、どんな風景になっているんだろう」
だから純粋に、エルは想像を楽しんだ。
そして、彼が付けてくれた名前を、初めて使ってくれたことに、顔を綻ばせたのだ。