学習 Learn
エルにとって、これは遊びにも似ていた。
自分よりも身体の小さい男を前にして、頭を差し出し、指で触れさせる。イメージを移していく。
それは当然、今までに経験したことのない遊びだった。新鮮味で言うなれば、彼女のほうこそそれを覚えているかもしれない。だが、それを凌駕する別の感情を、エルは自覚している。
何でもいい、と答えたため、エルはカレンダーから連想された時計のイメージを彼に見せた。しかし時計自体は、知っている。この世界における時計は、定められた順序で時を刻むことはなかったが、エルによって、それは今この瞬間、正しいものへ上書きされた。しかしキリにとって、時間という概念が重要になったわけではない。
そうして彼は、エルの脳を経て、様々なことを思い出していく。そう、思い出していったのだ。彼はそれらを知っていた。ただし、正確な形、色、音はうすぼやけ、作り出すには曖昧だっただけである。これまでに浮かべてきた哲学的、芸術的思考が、輪郭を削っていた、それだけの話なのだ。
棄てたはずと思っていたものが棄て切れていなかった。それは自身の脳の容量の広大さを、彼に知らしめた。だからこそ、彼は忘れる、という動作を、棄てた。今ここでエルから伝えられる情報を、彼はもう忘れることはない。一秒ごとを刻む時計。明るい空には太陽があること。やがてそれは月に取って代わる。どうやらそういった、酷く些末な物事が、エルの元々居た世界、キリの作らなかった世界では重要なことらしいのだと、学習する。
やがてキリの指先に触れ、それを離すと、
「ちょっと疲れた」
エルは小さく零す。少年には疲れという感覚がない。しかし彼女がそう言うのであれば、今彼女はそういった状態にあるということだ。ルーティン化されたものではない、突発的な事象を、彼は楽しんだ。
「休もうか」
流れ来る様々なイメージ、それは知識とも言えるが、エルの持つそれらが、キリを随分と人間らしくさせた。疲れたら休む。その矢印の向きを、彼はずっと知っていたかのように、理解する。
「おなかが空いた」
空腹感を持たないキリにとって、エルの言動はいちいち面白かった。初めて見る動物を、四方から眺め、観測している。観測者であれば、抑圧的干渉をすることは好ましくない。
「何か作ろう」エルの心の赴くままに、キリは準じた。「イメージを浮かべて欲しい。食べたいもの」
「食べたいものかあ……」
このヒトガタは、よく悩む。それは、キリの回転させる思考とは別のものだ。もっと低俗で、些末な問題に対し、ぐるぐると巡らせている。
自分の存在が何であるのかをエルは知っているのだろうか。
そうした大問題をすでに解決させているから彼女はこのような刹那的な命題に、時間、を費やすのかもしれない。
キリにしてみれば、そういった思考を浮かべることは、今までにあり得なかった。
「よし、いいよ」
「情報を、伝えて」
それはどんな形をしているのか。それは何で出来ているのか。匂いは、味は。それによる充足感はいかほどのものか。
イメージを移されただけで、キリはある意味で、満腹感を覚えた。
手をかざし、出てきたのは皿に乗ったハンバーグであった。
「おいしそう」でも、とエルは周囲を見回す。「路上で食べるのはちょっとなあ」
キリの作り出した世界は、エルの住んでいた世界と、全体像は近しいものらしい。キリにとってここが「路上」である自覚はなかった。彼の行動、即ち思考と創造は、おおよそがここで行われる。睡眠も、食事も、排泄も必要としない彼には、ここで十分だった。
皿を大事そうに持ち上げ、
「どこでもいいの?」
問われた言葉に、少年は目線を逸らさぬまま頷く。
しかし少女は不服そうな顔をした。それは理解の及ばないものだった。評価も視線も陰口も存在しなかった世界において、この異分子が初めて、キリに対して嫌悪を見せた。
「触って」
手を伸ばし、髪の合間を縫って皮膚に触れる。伝わったイメージを、
「これを作ればいいのか」
頷く彼女の言うとおりに、形にする。
今までに作ってきた家々と、何が違うのかは、彼には理解できなかった。
いくつかのそれを打ち消して出来上がった家に、少女の先導により踏み入る。斬新だったのは、彼女の流してきたイメージには、内装にもこだわりがあったことだ。もちろんキリも、家の外観だけを何度も作ったわけではない。オブジェとして、より複雑であるほうが、彼の脳を刺激した。しかしそれは、実際的に用いることを意識した「家」ではない。あくまでもオブジェなのだ。だから、位置関係にこだわったことはなかったし、より複雑であることを求めるため、広い空間を作ることはなく、入り組んだものが多かった。
扉を開け、エルは手を使わず器用に靴を脱いだ。
キリは靴のことを知ってはいたが、履こうと思ったことすらない。
「同じのでいいから作っておいてね」
もちろん、汚れることもないのだが、エルはそれを気にした。彼女にとっては、それが当たり前の考え方なのだ。
リビングのテーブルの上に皿を預け、椅子に腰掛ける。こういった何かのための道具を、作ってみようと思ったことがなかった。手をかざせば、何でも出来たからだ。疲れも、空腹もない。ものや身体を預けようという発想が存在しなかった。
座るよう促され、大人しくそこへ座る。もちろんお互いにそのようなことを浮かべることはないが、どちらが世界の主か、不鮮明になる動作だった。
「いただきます」
手を合わせ述べられた言葉を、キリは理解できなかった。謙譲も、献上も、なかったからだ。
ヒトガタではない、人間、という生物の行動が、彼に次々と学習させる。本来、学習することは、より高みへ向かうことだが、彼にとっては、そうではなかった。目の前で、疲れと、空腹を見てしまった。
このようなことを続ければ、学習により、ついに、身体に「退化」を刻むことになるが、彼はそれを知らなかった。