言語 Language
少女はこの世界において、エルという名前を得た。それは、今まで持っていた名前とは、別のものである。
少年は彼女がどこからやってきて、どうして自分に声を掛けたのか、そして、見つけた、に内包されるエルの意図を読み取ることを、行わなかった。それは、他者との会話から得られる充足感に、支配されていたからに他ならない。自分では作りえなかった、言葉を、声を持つヒトガタを前に、彼の内面は急激に色を変えた。
「あなたの、名前は?」
恐る恐る、エルは問うた。それは、相手が創造主であるからというには、どこか親近感のある言葉だったが、彼女が少年を恐れていることは、紛れもない事実である。そのような感情をこの眼前の身体が作り上げていることを、当然、少年は見透かすことが出来なかった。そのような構造を、自分では組んだことがないからだ。
少年は初めて他者を得た。今まで、その記号を有することも、欲することも、また、必要自体もなかったが、エルの来訪により、状況は変わった。
彼に、名前が在ったという記憶はない。これは、棄てたのか、或いは、見失っているだけなのか、その別を彼自身には付けられなかった。
ゆるゆると首を振って返すと、
「じゃあ、お礼に、私が付けてあげる」
エルは微笑んだ。それはすでに、対等の立場からのものへ変わっている。
少年には「お礼」という言葉の意味は理解出来たが、なぜエルがお礼をするのかは、わからなかった。仰々しく創造主と言えど、彼は右も左も知らぬ幼子に等しい。否、エルの存在が、彼をそのような位置に落とした。
考えるような素振りはしばらく続いた。少年は彼女がどのような名前を自分に付けるにせよ、それがどのような意味を持ち、どのような意図から付けられるのか、それらに期待が向いていた。彼にとって名前自体はなんだってよかった。或いは誰しもが、そうであるように。
「キリ。キリと呼ぶね」
「キリ」繰り返し、その音色を楽しむ。そして、なぜそう付けられたのかを、思考する。「一人、きり」
声にする方法を知らずとも、彼の頭の中には膨大な数の言葉が収納されていた。それゆえ、類似するワード、そのワードの持つ意味を、金庫の鍵を開けるようにぐるぐると合わせていくことが彼には可能であった。結果、かちりと音を鳴らしたのがこの言葉であっただけで、それを絶対的な回答であると思ったわけではない。彼には、自信を持つ、という心の動きがない。それはもちろん、他者が居てこそ生まれるものだからだ。
人さし指を立てると、
「当たり」エルは嬉しそうにした。「もっと怖い人かと思ってた」
「怖い?」
キリは未知の生命体に対し、ここで初めて疑問符を投げかけた。言葉尻を上げ、訊ねたのである。これまでの会話で、エルは自分に対し回答を提示してくれることを、キリは学習していた。そうであるならば、ただ頭の中心に浮かんだ些細な感想を口にするよりも、ずっと「会話」として成立するのだと、理解したのだ。これは、身体的には絶対に訪れない、内面の、成長と言ってよかった。そして一方では、自分自身の思考によって結論へ向かうことを放棄したことに他ならず、退化とも言える。
少年に驕りはない。
それは本来、創造主らしい感覚の欠如である。前述の通り、創造主は創造したものへ執着しない。自分と比べることがないのである。そうしないのは、自分が作り出すものが自分より上位に来ることがないという、根底に置かれた事実によるものだ。これらを、作り出す者は前提として無意識に据え置いている。
少年も、同様である。しかしここで問題となるのは、エルは、キリの作り出したものではない、ということだ。つまり、自分の内面の一部ではない。
無意識において、このたった一つの疑問符が、少年がエルを、同等或いは上位のものであると認識してしまったことを示している。
「うん、漠然とした、イメージだよ」
その返事は誤魔化しに違いなかったが、キリの興味はそちらには向かない。
イメージ。
先ほどのカレンダーのイメージを、頭の中で思い浮かべる。ずっと忘れていた、知っているはずの一覧。見失っていた記憶を掘り当てる感触。
「もっと出来るのか」
キリは相手の目を見ると、人差し指を自身のこめかみに宛がった。そして、今度はそれをエルのほうへ向ける。学習したばかりの、貼り付けた笑みも。
「出来るよ。出来たからね」回答としては、不明瞭とも言える言葉で、「何が見たい?」
言ってから、その不器用な笑顔を、エルは笑った。