稽古-2 Lesson-2
「せっかくだから、今度は出すほうの練習をしてみようかな」
何か言葉を挟まれることが恐ろしく、少女は間断なく続けた。
少年は泥沼の思考の中に居た。自分が何者であるのか。悩み続けた命題を、再起させ、もしかすると「人」なのかもしれないと、考え始めていた。この時点で、彼は著しく退化したと言わざるを得ない。
カレンダーやハンバーグ。共有される様々なイメージは、彼がそれを知っているからに他ならない。時間を気にせず、食事をしない彼にとって、それらは何の意味もないはずなのに、どうして知っているのか。
それは、必要としていたときがあったからだ。と結論付ける以外、彼には選択肢が浮かばなかった。
自分は人である、と認めたところで、彼が今までと全く別の生命体に変化するわけではない。あくまでも、退化するだけだ。結局、自分が何者であるのか、という命題に対する本質的な答えを見つけたとは言いがたい。
しかし、自分が時間や食事を気に掛けていたとき、というものが存在すると言うことは、自分はこの世界以外の、恐らくはエルの居た世界に住んでいたことがあると、そういうことになる。それはエルが自分のことを知っていたと思うに足る「見つけた」という言葉からも、確固とした事実らしいと裏付けられる。
その世界を自分は知らない。少なからず覚えてはいない。
ここにエルという生命体が「来訪」してきたということは、別の世界が存在することは認めなくてはならないが、自分がそこから来たという記憶は、いくら掘り進めようとも発掘されない。
これは、どういうことになるのだろうか。
キリは、自分が酷く不完全なものに思えた。思えてしまった以上、彼はこの世界において、不完全なものとなる。彼は自身の連続性を疑った。
なぜ成長しないのか。
どうして少年の姿かたちをしているのか。それらを考える。考え続ける。
「サンドイッチくらいなら出せそうな気がするな」
エルの言葉は完全に消沈したものだった。キリには聞こえなかったかもしれない。或いは、エルがそれを望んでいないかのような、ささやかな囁きだった。
返事をしない少年の前に立ち、手をかざしてみせる。
その動作を見てようやく、キリは我に返った。
彼女は自分と同じである、と明言できなかったとしても、似たようなものであると認識してしまった。ということは、彼女のこの手が、自分を消してしまうこともあるのではないか、そう、彼は「恐れた」。
しかしエルに、そのような意思も、能力も、ない。
重要なのは、それでもキリが恐れてしまった、ということである。
「どう念じればいいの?」
自分のほうをようやく見た少年に、少女は純粋な疑問を提示する。
少年は半歩、隣に避けてから、
「作り出すときとは逆のことをする」
冷静を「装った」。
「逆?」
「そう。消すときは」
「意識から外す」
「その逆ということは」
「意識するってこと?」見た目だけではずっとキリのほうが幼いのに、エルはそれに対する無駄な感情は持って居ない。「全然わかんない……」
眉根を寄せる少女を前に、少年は完全に冷静に戻った。
思考を、放棄した。それは、逃げに違いなかったが、それを決めるのはキリ自身である。今はとにかくそんなことを考える必要はない。恐れることもない。この目の前の少女は、考え、喋るヒトガタに過ぎない。
「イメージする。それが大事なんだ。エルのイメージを具現化したのと、手順は同じ」
「あのとき、どうやって考えていたかな」こういうことは、意識するとわからなくなってしまう。「えーっと」
「じゃあ、何か、思い浮かべてみて」
「えー、何かって……」両手で顔を覆い、心を無にする。「はい」
少年は以前と同じように、少女のこめかみに指を当てた。
そしてそこにイメージされていたものを、手をかざして作り出す。
出てきたのは、黒いセダンだった。
「こういうこと」
「全然わかんない」いっそ可笑しくなってエルは一人笑った。「想像して、手をかざすだけ?」
頷いて返す。
そこに在るものが見えなくなる。それはつまり、脳がそこに在る物体を認識しないから起きる。
逆に見えているものは、脳がそれを認識している。
ということに、過ぎないのだ。だからこそこれは、能力というと、少し仰々しい。
「やってみて」
少女は手を、車を覆うようにして上げた。ぎゅっと両のまぶたを閉める。
消すときに何も考えないことが重要であったように、作り出すときも、作り出したいもの以外のことを考えるのは好ましくない。しかしこのときエルには、それが出来なかった。
この、眼前の車のせいである。ただの、車。それでもエルには特別だった。
家族との、思い出。
置いてきた、家族との。
「だめだ」
諦めたというより、これも、放棄だった。つまり、エルも、逃げた。自分という存在から。
結局、エルの思い浮かべたベーコンレタスのサンドイッチを、キリが作り出した。
それを食べながら、やはりこの行為に意味を感じることが出来ない、彼はそう、思った。自己保身の意識はない。




