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鬼灯宴  作者: 手這坂猫子
3/15

真紅郎と碧彦 1

 真夜中に目を覚ました綺織は、何気なく顔を千彩のベッドへと向けて強張らせた。ベッドにいるはずの千彩がいない。千彩は病弱だが夢遊病を患っていると言われたことは今までになかった。そのうえ一度眠りにつけば熟睡する性質で、熱に魘されても夜が明けるか誰かが無理に起こすまで起きる気配を見せない。そんな妹が真夜中に一人で起きてどこかへ行ったとはにわかに信じがたいことだった。綺織は飛び起きると辺りを見回した。電燈のスイッチを入れずとも、今の綺織にはランプの真鍮の留め金まではっきりと見えていた。だが千彩の姿は部屋のどこにも見えない。

「!」

 外から物音が聞こえた気がした。綺織は窓辺に近づくと、はっと息を呑んだ。

「千彩」

 千彩は庭にいた。花を閉じて眠りについた植物に囲まれ、月明かりの下で何をするわけでもなく、ただじっと佇んでいる。

「千彩、どうしたの。部屋に戻って」

 声をかけたが起きているはずの千彩は何の反応も示さなかった。姉の声が全く聞こえていないかのように、そのままふらふらとした足取りで歩き始めたかと思うと綺織の視界から消えていく。

「一体どうしたんだ、あいつ」

 綺織は逸る気持ちをなんとか抑え、二階で眠っているはずの祖母を起こさないように足音を消して庭へと出た。しかしそこにはすでに千彩の姿はなく、藍鉄色の門が開いていた。不安と焦燥に駆られながら家の敷地を飛び出た綺織は、林の中に入っていく千彩の後ろ姿を見つけた。急いでその後を追う。

「千彩っ」

 咎めるような口調で呼び止めたが、千彩は立ち止まりも振り向きもしない。ただ黙々と歩き続けていた。綺織は千彩の後ろから追いついて腕を掴んだ。千彩は抵抗せずに立ち止まったが、正面に回った綺織が見たその瞳は何も映していなかった。まるで深海のように途方もなく深く暗いばかりだ。綺織は声をなくし、初めて見る妹の顔に呆然としていた。やがて千彩は機械的な動きで再び歩き出した。混乱していた綺織はしばらくその場に立ち尽くしていたが、千彩の後ろ姿が小さくなると同時に我に返り、再び彼女の後を追った。

「ねえ。千彩、どこへ行くつもり?」

 初めて訪れた夜の林は、昼間緑として見えていたもののほとんどが闇に溶け込んで黒と化していた。月が出ていなければ間違いなく彷徨う羽目になっていただろうと思うほど、暗い。どこにいるのかわからない梟の鳴き声や風で草木が靡く音以外、店も民家もない林は無音に等しかった。都会ならば真夜中であってもネオンや街灯のおかげで十分に明るさを感じる。これほどまでに暗くて静かな夜は初めてで、それが綺織を無性に心細くさせた。声をかけても千彩が何も返さないとわかっていながら、彼女は妹の後ろを歩きつつ時折話しかけることをやめなかった。

 やがて獣道を進み、空き家が見えてくる林の奥までに到達した。途端に、綺織は目を瞠った。そこにはいつもと全く違う光景が存在している。空き家の一室に明かりが点っているのだ。綺織が唖然としていると、千彩は突然足を止めた。

「姉さん」

「えっ。……千彩?」

 千彩は眠たそうな表情で目を擦り、辺りを見回した。だが何故自分が林の中にいるのかは理解できていないようだった。

「あれ、どうして……」

「自分で気づいてなかったのか」

「何が?」

「お前、一人でに起きて私が止めるのも聞かずにここまで歩いていたんだよ。ついさっきまで」

 それを聞くと、信じられないと言うように千彩は目を見開いた。

「今までに同じようなことは?」

「……なかった、と思う」

 眉を寄せながら小さく答えた千彩に、綺織は釈然としない表情で「不思議なこともあるね」と言った。

「でも、今はもっと気になることがある」

 綺織は千彩の手を引き、空き家の垣根に近づいた。中から漏れてくる明かりに照らされ、満天星の影が焼きついた地面にそっと身を屈める。千彩も明かりが点っている空き家は気になるらしく、姉の行動に倣った。煌々と明るい部屋の中は、垣根越しからでも驚くほどはっきりと捉えることができた。

 白いカーテンが束ねられた窓から見える居間らしき室内には、天井から電燈が吊り下げられていた。その明かりの下で二人の少年が向かい合っている。二人は何事か言い争っているらしく、双方の間には緊迫した空気が漂っていた。

「この辺りでは見たことない人だ……。二人だけで住んでるのかな」

「静かに」

 綺織に言われて千彩が自分の口を左手で覆ったと同時に、少年達は日除けの下りた扉から庭に出てきた。しかし垣根の外にいる綺織と千彩には気づいていないらしい。少年の年齢は二人とも千彩と同い年か一、二歳ほど年上に見え、いずれにせよ綺織よりは年下のように見える。

 彼らは真っ白なブラウスシャツを着て、夏だというのに真珠のスティックピンを挿したクロスタイ――片方は赤色、もう片方は青色――をきちんと巻いていた。黒のズボンは膝よりも上までしか丈がない短いものを履いている。さほど顔立ちは似ていなかったが、月明かりで青白く輝く白銀(しろがね)の髪も服装もクロスタイの色を除けば同じであることから、どことなく双子のような雰囲気があった。

「本当に信じられない。なんで最初からぼくに言わなかったんだ。もう満月の夜まで一週間もないんだぞ」

「ごめん。ぼく一人で作り直そうと思ったんだけど……。どうしても見つからないんだ。壊した拍子にどこかへ飛んでいってしまったみたいで――」

 最初に口を開いた赤いクロスタイの少年は、暗がりの中でもはっきりとわかるほどに鮮やかな紅色の瞳で相手を睨みつけている。そして青いクロスタイの少年は眉を下げ、その下にある瑠璃色の瞳をわずかに伏せていた。どうやら紅色の瞳の少年が一方的に腹を立て、瑠璃色の瞳の少年が彼に叱られているようだった。

「馬鹿っ!」

 紅色の瞳をつり上げた少年は腕を振り上げ、鋭く叫ぶと同時にもう一人の少年の頬を打った。綺織と千彩は思わず声を上げそうになったが堪え、さらに食い入るように見つめた。しばらく無言のまま少年達は向き合っていたが、そのうち頬を打った方の少年だけがさっさと家の中へ入っていった。一人残された瑠璃色の瞳の少年は、打たれた左頬に手を当てて静かに泣いているようだった。

 ぱきり、と足元で音がした。静かな林の奥、その音はやけに大きく聞こえた。ぎょっとした綺織が横目で千彩を窺うと彼女は「ごめんなさい」と唇だけを動かした。どうやら千彩が枝を踏みつけて音を立ててしまったらしい。

「誰」

 少年は綺織と千彩のいる垣根に視線を向け、声をかけた。姉妹の間に緊張感が走る。覗き見をしたという後ろめたさから言葉が出ない。綺織に引き寄せられた千彩は、そっと姉の袖を掴んだ。自分より年下の少年が何をしでかすか決まったわけではないが、綺織は万が一のことがあったら千彩を庇うつもりでいた。

「そこにいるんだろう」

 そう言うと突然、少年が綺織達がいる方向へ真っ直ぐ走ってきた。彼が垣根に衝突すると思った綺織と千彩は反射的に目を閉じる。がさっという音と満天星が揺れた気配に目を開けると、月明かりが差していた自分達の頭上に影がかかり、満天星の葉がいくらか舞った。次の瞬間綺織のすぐ隣に瑠璃色の瞳の少年が立っていた。どうやら少年は――多少足が満天星を散らしてしまったらしいが――尋常でない跳躍力で高い垣根を飛び越えたらしい。綺織の袖を掴んだ千彩の手が震える。

「誰、きみ達」

 少年は涙を拭うこともなくそのままにして、再び訊ねた。はらはらと頬を伝った雫がクロスタイに落ちて光る。その表情は泣き顔と言えるほど歪んでいない。幼い子供が初対面に見せるような若干の不安と困惑、そして好奇心が混ざったような表情だった。

「綺織」

 短く名前だけを述べた後、綺織は千彩の肩を優しく叩いて促した。

「……千彩」

 小さな名乗りだったが少年の耳にはちゃんと聞こえたらしく、彼は頷く。

「ぼくは碧彦(あおひこ)

 少年は自分の名前を告げると、その後は黙って二人を見つめていた。覗き見したことを気にしている様子はないが突然現れた来訪者をどう対処するべきか悩んでいるようだった。しばらく三人の間に沈黙が続いていたが、最初に碧彦が口を開いた。

「中に入るかい。お茶くらいなら出せるよ」

「私達が入ってもいいの?」

 何が原因かはわからなかったが、先ほどまで碧彦はもう一人の少年と喧嘩していたはずだ。あの怒っていた少年が突然の第三者である自分達を歓迎するとは思えない。余計にややこしい事態になるのではないかと綺織は千彩と顔を見合わせた。

「もしかして、(しん)()(ろう)のことが気になる?」

 碧彦はもう一人いた紅色の瞳の少年と思われる名前を口にした。綺織が頷くと、彼は人懐っこい笑みを見せた。

「構わないよ。むしろお茶を飲んでゆっくり話した方が、真紅郎も落ち着くだろうから」

 ようやく涙が止まったらしい碧彦は、目元や頬の雫を指で拭った。そして綺織達がいる位置の数歩先にある蔓の絡みついた木戸を開け、二人に手招きする。

「……姉さん」

 屈んでいた体勢から膝を伸ばした綺織を、千彩は不安げに見上げた。

「千彩。こんな機会滅多にないんだから、行ってみよう」

「でも……大丈夫かな」

「きっと大丈夫だよ。ほら、立って」

「…………」

 意を決したらしく千彩は綺織の左腕に両手でしがみついた。姉妹は全く思いがけない経緯で憧れの空き家に足を踏み入れることに戸惑いを隠せないまま、碧彦のいる木戸へと向かった。

 

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