綺織と千彩 2
祖母の家を出た綺織と千彩は、ことごとく草木に覆われた昼下がりの林を歩いた。何年も降り積もった朽葉が地面を柔らかくし、その中に二人の靴底が埋め込まれていく。
緑という緑は一つとして同じ色を持たないということを姉妹に教えたのはこの林だった。瞳の奥に溶け込んでいくような濃い緑もあれば、今朝萌えたばかりに見える薄い緑もある。葉叢の隙間から差し込む木漏れ日や、草の中にひそむ影さえもが様々な緑色をしていた。振り返れば緑、遙か彼方も緑だ。途中で枝分かれする細い道を曲がると緑は一層深く空を覆う。それら全てが風に吹かれて絹のように波打つとき、綺織は心地いい眩暈を覚えた。
時折翼を開く微かな音が聞こえ、遙か緑の天井を緩やかな影が滑っていく。鳥だと気づいて綺織が顔を空に向けて見回すが、その姿は葉陰に埋もれ、探し出すことは難しい。鋭く鳴き交わす声だけが響いていた。
「今の鳴き声、何の鳥かわかる?」
「雀鷹だと思うよ」
「ツミ?」
「うん。漢字で雀と鷹って書くの」
へえ、と相槌を打ちながら綺織は額と項を手の甲で拭った。汗までもが透明な緑に染まっているように感じる。
「具合は大丈夫?」
「三回目」
「何が」
「家を出てから姉さんがわたしに、大丈夫? って訊いてきた回数。そんなに心配しなくても平気だよ」
綺織の隣を歩く千彩はくすくすと笑った。
二人にとって林の中で遊ぶことは、派手に走り回ったり木を登ったりすることではない。綺織が千彩のゆっくりとした歩調に合わせて歩きながら一緒に草笛を吹いたり、都会育ちの綺織にとって珍しい植物や昆虫、小動物、鳥を探してはその名前を千彩が説明する。そうして静かに会話をするだけで、二人は十分に楽しめた。
「あ、千彩。これって木苺?」
「本当だ。昨年はなってなかったのに」
小振りの赤い実がいくつもなっている木苺を見つけ、二人の目は輝く。
「全部食べたら駄目だよ、姉さん」
「わかってる。こういうものは鳥や栗鼠のために残すのがマナーなんだよね」
「うん」
綺麗に色づいた食べ頃の木苺をそれぞれ四つずつ食べ、口の中に広がる甘酸っぱい素朴な味に二人は口元を綻ばせた。
「そう言えば、千彩は栗鼠以外にこの林で動物を見たことある?」
「山犬なら歩いているのを見たことあるよ」
「大丈夫だったのか」
「うん。意外と大人しかったからね。その他には……わたしはあまり見たことないんだけど、狐とか狸もいるみたい。あと鼬とか」
「ふうん……。いつか見てみたいな」
「でもきっと無理よ。どれも夜行性の動物だもの」
そうか、と頷いて綺織は再び歩き始めた。
「姉さん。今日も空き家に行く?」
不意に千彩が訊ねてきた。その質問の返事が肯定であることを知っていながらわざわざ訊ねる妹に綺織はふっと微笑んで答えた。
「当たり前」
空き家は獣道を進んだ先、林の奥まったところにある。五年前に綺織と千彩が林で遊んでいる最中見つけたときからすでに人の気配がなく、ひっそりと存在する家だった。何故こんな場所に空き家が存在しているのかは今でも謎だ。小さな庭を囲む満天星の垣根は相変わらず荒れ放題で綺織の背丈と同じくらいに成長している。そのため家の様子は外からでは容易にわからない。しかし、中の見えないことが余計に二人を惹きつける。
千彩の体調が優れているとき、綺織は必ず妹と連れ立ってこの空き家がある林の奥まで訪れた。そのたびに蔓の絡みついた木戸をこじ開けて侵入したいという衝動に駆られる。一方で、何の秘密もない単なる空き家であることを知って落胆したくないという思いがあった。それ故今まで二人は空き家のすぐ近くまで訪れても、自分達の衝動を押し殺して、決して中に入ろうとはしなかった。
「千彩、この前一人で林に来たって言ってたけど」
「うん」
「そのとき、この空き家の中に入った?」
林全体に溶け込むような緑色をした満天星の葉を触りながら綺織は訊ねた。千彩はすぐ首を横に振った。
「ううん、入ってないよ。大体一人でこんな奥までは来れないもの」
「……それもそうだね」
いつ体調が急変するかわからない千彩の外出は専ら祖母が同伴する。しかしこの空き家に訪れることは五年前から祖母に内緒にしていた。二人だけの秘密を共有することで、姉妹としての繋がりがさらに強くなるような気がしたからだ。そのため、千彩は綺織がいない間空き家がある林の奥まで行ったことがない。いくら遠く隔たれた姉妹でも、空き家を見る機会だけは同じだった。
綺織と千彩はそのまましばらく空き家の周りで蝉や鳥の鳴き声を聞いていたが、次第に青い空の中で雲が桃色を滲ませるようになると林を出た。
祖母の家に戻った二人は夕食と入浴を済ませ、庭に面した部屋で眠ることになった。千彩が普段寝室として使っている部屋は二階にある祖母の寝室の隣だ。一階の庭に面したこの部屋は決まって姉が来たときにだけ使っている。室内にはベッドが二台、小さな長方形のテーブルを挟んで並べてあり、壁側にはガラス扉のついた戸棚の他に桐箪笥とチークの文机があった。
枕の下に千彩から受け取った石を忍ばせ、綺織はベッドの上で天井を眺めていた。家の造りが古いせいか、天井は高く、四隅に漆喰の浮彫が施されていた。真ん中から大きな球形の電燈が吊り下がっている様子は気球が浮かんでいるように見える。そのうち綺織はテーブルに置かれているランプを引き寄せ、火屋を外した。以前祖母に教わったやり方で燈心に火を点け、またゆっくりと火屋をかぶせた。透明に磨かれたガラスの中でとろりとした炎が揺らめき、橙色に輝く。部屋にはかすかなアルコールの匂いが漂い始めた。
「明かりを消すよ」
千彩がベッドにもぐるのを横目で見ながら、綺織は電燈のスイッチを切った。天井から吊り下がっていた大きな白熱灯は青白い像を残して消えた。しかし、二台のベッドの間にあるランプは煌々と点っているため部屋の中は十分明るい。暗さに目が慣れると眩しいくらいだ。綺織は前もって荷物の中から取り出していた純文学の小説をランプの明かりで読み始める。
「姉さん。その本、何?」
千彩はうつ伏せた状態で顔だけを姉の方へ向けて声をかけた。色白な彼女の顔は、ランプの明かりで照らされているこのときだけ日焼けをしたような肉桂色に見えていた。
「読書感想文の課題。他はもう七月中に終わらせたけど、これだけまだ読み終えてないから。残り半分くらい」
「面白い?」
「読む本は自由だったんだ。これは私が選んだものだから、当然面白いよ」
「じゃあ、読み終えたら貸してくれる?」
「いいよ。これは下巻だけど、上巻も持ってきてるからそれを貸すね」
「うん。ありがとう」
綺織はしばらく小説を読み耽っていたが、千彩がすっかり静かになったことに気づいて顔を上げた。見ると妹は右腕を頭の下にして眠り込んでいた。
「そのままだと痺れるよ」
小さく呟いた綺織は静かにベッドを出て千彩の枕元に立ち、頭の下になった腕を外した。それからテーブル上のランプにガラスの蓋をかぶせた。炎はすうっと闇に吸い込まれ、辺りは真っ暗になる。
「……姉さん」
綺織がベッドで横になろうとしたとき、千彩が再び声をかけてきた。囁くような掠れた声だ。
「なんだ。まだ起きてたのか」
わずかに驚かされた綺織は溜め息をついて、暗闇の中で妹の顔を探す。窓から差し込むわずかな月明かりで、彼女の白い頬が枕の中に沈んでいる様子がすぐにわかった。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ。千彩」
今度は本当に眠ってしまったらしく、それきり千彩は何も言わなかった。綺織も仰向けになるとすぐに目を閉じた。