鬼灯宴とカガチ 1
満月が夜空に顔を出すと、窓から外を眺めていた綺織と千彩はそわそわし始めた。時計を確認すると、九時まであと十数分という時刻だった。
「そろそろ行こうか」
「うん」
綺織が昼間露天商から買ってきた四本のラムネと、作り置きしていた水蜜桃のコンポートを半分ほど容器に移したものを持って二人はそっと家を出ようとする。しかし玄関で靴を履いていると、思いがけない声が聞こえてきた。
「今夜も林へ行くのですか?」
二人は肩を跳ね上がらせ、振り返る。いつの間にか祖母が廊下に立っていた。
「気づいてたの?」
「ええ、最初から」
そう言って祖母は微笑んだ。今夜はもう林へ行ってはいけない――そう言われると思った姉妹は同時に肩を落として溜め息をついた。しかし祖母は二人にとって予想外のことを口にした。
「出かけるなとは言いません」
「えっ」
「ちゃんと帰ってくるのなら、好きなだけ遊んで来なさい。けれども気をつけてくださいよ。もう随分と昔のことですが、夜にあの林へ出かけたきり帰ってこなくなった人もいるのですから。そのときもちょうど今と同じ満月でした」
「……うん。わかった」
「ちゃんと帰ってくるって、約束するよ」
その言葉に祖母は頷き、黙って二人を送り出した。
四本のラムネを紐でまとめたものを綺織が、コンポートが入った容器を千彩が持って、二人は林の中へ入っていった。
林の奥にある獣道から満天星の垣根に囲われた空き家が見え始めると、二人とも自然と急ぎ足になって木戸に向かった。庭では、すでに真紅郎と碧彦が立っている。
「こんばんは、二人とも」
「こんばんは」
「やあ綺織、千彩」
「時間ぴったりだね」
真紅郎は麻袋で覆った鬼灯燈を、碧彦はバスケットを手にしていた。
「きみ達は何を持ってきたんだい」
「ラムネと水蜜桃のコンポートだよ」
綺織はラムネを胸の高さまで持ち上げ、千彩は持っていた容器の蓋を開けてみせた。途端甘くて芳醇なコンポートの香りがふわりと漂う。
「あ、そう言えば二人に言い忘れていたことあるんだ」
言いながら碧彦はバスケットの中から何か平たいものを二つ取り出した。よく見るとそれは白い狐面だった。祭りの露店で見かけるようなプラスチック製ではなく、粘土らしきしっかりとした素材でできているようだった。狐の目は、面を顔につけても何も見えないのではないかと思うほど随分と細い。さらにその狐面は鼻から下がない、主に目元を覆うようにできているものだった。
「これ、お面?」
千彩が訊ねると、碧彦は頷いた。
「招待状を直接受け取った者ではなく、誘われて鬼灯宴に参加する人は面をつける決まりがあるんだ。ヴェネツィアの仮面舞踏会みたいなものだよ」
手渡された狐面をしばし黙って見つめていた綺織だったが、前髪を軽く払いながら顔につけた。千彩もそれに倣う。紐も何もついていないその狐面は、二人が顔にあてがうとぴったり吸いつくように自然と落ちなくなった。不思議なことに目の部分に穴が空いているように見えなかったにも関わらず、視界ははっきりとしている。鼻から下が露出しているため息苦しさは微塵もない。
「うん。それでいい」
碧彦が微笑むと、綺織と千彩はお互いの顔を見合わせた。顔の上半分だけを隠している姿はどことなく滑稽な気がしたが、これから鬼灯宴に行くのだという緊張感が高まった。
「鬼灯宴はどこで開かれるの?」
「ここよりもっと奥へ進んだ場所だよ。赤い曼珠沙華が咲いている道を進む」
真紅郎の返事を聞いて、綺織は怪訝な表情になった。曼珠沙華はもう少し秋に近い季節でないと咲かないはずだ。千彩を見ると、彼女も妙に思ったらしく小首を傾げていた。
四人はランプと鬼灯燈を持った真紅郎を先頭にして、林のさらに奥へと進みだした。綺織や千彩は林の中で遊ぶとき、必ず空き家がある場所より奥へは進まないようにと決めていたのだが、真紅郎はずんずん奥まった獣道を歩いていく。
「あ、曼珠沙華」
千彩が声を上げた。それに反応して綺織が視線を下に向けると、確かに自分達が進んでいる先に赤い曼珠沙華の花が咲いていた。そこから先、いくつもの曼珠沙華が一定の間隔を空けて咲いているのが見える。
「鬼灯宴が開かれる場所に近づいてる証拠だよ」
「この曼珠沙華は鬼灯宴に訪れる者のため道案内をしてくれるんだ。このときだけしか咲かない」
どこか懐かしさを感じている声色で、真紅郎と碧彦は説明した。
赤い曼珠沙華に沿って歩いていると、突然前方に杉の大木が現れた。示し合わせたかのように四人は足を止める。真紅郎の持つランプが点っているにも関わらず、何故かその杉の大木より先の様子は暗闇に呑まれ、全く見えない。
「さあ、行こう」
真紅郎は声をかけて三人を促し、自分達の頭上に長く伸びた杉の枝をくぐった。すると突然、夏の暑さが嘘のように消えて涼しい風が肌を撫でたかと思うと、杉の木立に囲まれたぽっかりとした広場が現れた。
杉の枝々には豆ランプが飾られ、橙色の灯火が広場を明るくしていた。その下にはすでに大勢の大人や子供達が集まっている。こんなに賑やかな集まりであるのに杉の大木を通り抜けるまでは、広場が見えなかったどころか人々の声も楽器の音も聞こえなかった。
広場の中央には白い布をかけた細長いテーブルがあり、その両脇には多くの椅子が並べてあった。テーブルの上には人々が持ち寄ったらしい食べ物や飲み物が、積み重ねられた銀食器の間に所狭しと並んでいた。
宴はまだ始まっていないらしく、人々は三々五々広場の中を散策していた。大人達は地面に直接座って語り合ったり、楽器を奏で、子供達は楽しそうに飛び跳ねたり、辺りを駆け回ったりしている。広場の光景を見てしばし呆然としていた綺織と千彩だったが、碧彦がテーブルの上にバスケットを置く姿を見て、自分達も持っていたラムネとコンポートをバスケットの隣に置いた。麻織りの白い布の上にラムネの青い影が落ちた。
「姉さん。見て」
「え?」
「あの人と、向こうにいる子。わたし達みたいにお面をつけてる」
千彩が言った通りだった。楽器の演奏者を眺める、綺織と同い年くらいの少年が犬のような面をつけている。そして他の子供達と一緒にはしゃぐ五、六歳くらいの少女がつけているのは狸のような面だった。いずれも、綺織と千彩がつけている狐面と同じく、全体的に白くて顔の上半分だけを隠している。
「彼らも誘われてここに来たんだろうね。ちょっと話してみよう」
綺織は千彩の手を引いて、犬面をつけた少年に近づいて声をかけた。
「こんばんは」
少年は振り返り、姉妹の狐面に若干驚いたような反応を示した。
「もしかして、きみ達も?」
「うん」
「へえ。俺以外にもいたんだ」
「あそこの女の子も、そうみたいだけどね」
綺織が指差す方向にいる狸面の少女に目をやると、犬面の少年は口元に弧を描いた。
「俺、鬼灯宴なんて全然知らなかったよ。でも最近仲良くなった先生に誘われて、面白そうだったから初めて参加したんだ」
「先生って学校の?」
「いや、俺が勝手にそう呼んでるだけ。まだ名前を教えてもらってないからな」
犬面の少年はさっきまで眺めていた楽器の演奏者に向き直り、続ける。
「……ほら、クラリネット担当で向かって一番右の人だよ。あれが先生」
クラリネットを吹く面々の中、向かって右端にいるのは眼鏡をかけた初老の男だった。白髪が混ざった茶色の髪を丁寧に撫でつけている。眼鏡の向こうに見える緑色の瞳は知的で少年が先生と呼ぶのに相応しい、どこか教師然とした雰囲気があった。彼は視線に気づいたのか、楽譜から顔を上げると三人に向かってウインクした。少年は軽く手を振る。
綺織は犬面の少年に会釈をした後、千彩と一緒に碧彦のもとへ戻った。