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鬼灯宴  作者: 手這坂猫子
1/15

綺織と千彩 1

 電車から降りた綺織(あやおり)は何かに両目を突き刺されたように感じた。とっさに閉じた目蓋を手で覆ったが、痛みがなければ何も突き刺さってはいない。実際はそれまで涼しい電車の中にいた彼女がプラットホームの日向に出た瞬間、容赦なく正面から照りつけてきた太陽の日差しに目が眩んだだけだった。

 手で影を作りながらそっと目を開けると、一年ぶりに見る田舎の景色が広がっていた。木材と漆喰で作られた瓦葺の民家や店の並び。透き通った青色の壜に入ったラムネを売る露天商。鮮やかな黄緑色の田圃と眩しいほど黄色に輝く向日葵畑。辺りは夏の気怠さと生温い空気が満ちていたが、都会に溢れる蒸し暑い熱気や喧噪は感じられない。その景色の中にぼやけた濃い紫の斑が次々と浮かび、一度気にし始めると消えるまで癇に障る。綺織は何度か目を強く閉じては開いてを繰り返した。

 綺織にとって夏休みの約三分の一が終わっているこの日、彼女は田舎の祖母と二人きりで暮らしている()(あや)のもとへ向かっていた。千彩は綺織の四つ年が離れた妹で、生まれつき病弱な身体である。都会よりも静かで空気の綺麗な田舎で療養させることは、姉妹が事情を理解して自分達の意見を主張できる年齢になる前から両親によって決められた。綺織は夏休みの間、遠く隔たっている妹と数日だけしか会うことができない。しかしそのせいで姉妹の仲が気まずくなることはなく、二人ともお互いに会う夏の短い期間をいつも心待ちにしていた。

 駅舎を出てすぐ手前にある白蛇の石像が入り口に置かれた古いアーケード通りを逸れ、綺織は郵便局裏の路地に入った。赤いポストがなければ普通の日本家屋にしか見えない立派な瓦葺の郵便局は、路地に大きな影を落としている。日陰に入り、綺織の口からはほうと息が漏れた。路地を進んでいくと道は急な上り坂となって、民家の数がほとんどない地域へと続いている。

 祖母と千彩が暮らしている一軒家は、坂を上り切ったところにある道を真っ直ぐ進んでいけば自然と辿り着く。平坦な道を歩き始める頃には影がなくなり、雲一つない青空で燦々と輝く太陽が再び綺織を照りつけてきた。次第に首筋がじりじりと焼けるような熱を感じ、彼女は時折首筋に手を持っていった。少しでも涼しくしようと思い、普段は胸の辺りまで伸ばしっぱなしの黒髪を一房に束ねて後頭部に結んでいたのだが、どうやら効果は日差しの下に出るといまいちだと綺織は嘆息した。

 腕時計を確認すると、正午を少し過ぎていた。白い砂塵の眩しく光る乾き切った道が緩やかに伸びている。晴れ過ぎたあまりぼやける風景の先に、一年ぶりに見る祖母の家が揺らめき立つ陽炎で形を歪ませていた。徐々に石垣と古びた門がはっきりと見えてくる。綺織は一歩一歩確かめるように、ゆっくりと歩いていった。

「……着いた」

 一度立ち止まって額の汗を拭い、小さく呟く。ほとんど緑に埋もれた石垣の中に建つ祖母の家は、すぐ後ろに深い林を背負って静けさの中で眠るように存在していた。蔓草が絡みついた藍鉄色の門を通り抜けると、綺織の眼差しは落ち着きなく動いた。そして石垣に囲まれた庭の木陰で、籐製の揺り椅子にちょこんと座った千彩の姿を見つける。

「千彩」

 綺織が声をかけると、それまで真剣な表情で鉱石の図鑑を読んでいた千彩はぱっと顔を上げて微笑んだ。

「姉さん」

 閉じた図鑑を揺り椅子の上に置き、千彩は小走りで綺織に寄ってきた。肩口で切り揃えられた黒髪と対比するように白い肌の中、唇だけがやけに赤い。どこか眠たげにも見える顔立ちは彼女の穏やかな気性を表しているようだった。カサブランカの花びらを想わせる白い薄手のワンピース姿は清楚さを感じさせる。一年前と全く変わっていない妹の姿に自然と綺織は口元を綻ばせた。

「久しぶりだね、千彩」

「うん。久しぶり。……姉さん、また背が伸びた?」

「もうすぐ止まりそうだけどね。千彩は相変わらず小さいな」

 実際、千彩は同年代の成長期らしい少女と比較しても発育の乏しい体型だった。姉と二人で並べば背丈が頭一つ分よりまだ差が大きいことがわかる。病弱であることが原因なのだろうかと真剣に考えていたときもあったが、綺織は妹相手に下手な気を遣おうとはしなかった。

「わたしはそのうち伸びるからいいの」

 どこか澄ました表情で言った千彩に綺織は声を上げずに笑う。二、三年前には同じことを言われては「姉さんの意地悪」と泣きそうになっていた千彩だったが、精神的にはしっかり成長しているらしい。

「今年もまた、たくさん実がなってる」

 ふと、視界に入った石垣――その傍に並んだいくつもの植木鉢を見て、綺織は呟いた。

「姉さんって昔からホオズキが好きだよね」

「うん」

 祖母の庭には多くの植物が育てられている。今の季節に花を咲かせているものは主に凌霄花、ブルーサルビア、立葵だ。しかし綺織はもう花の季節が終わり、大きく立派な実をつけているホオズキを一番気に入っていた。深い緋色の提灯を連想させる姿に興味を持ち、その中に隠れた宝玉のような丸い果実を目の当たりにして以来、綺織は幼い頃からホオズキの虜になっていた。

「あ、そうだ」

 何かを思い出した様子で千彩はワンピースのポケットに手を入れた。その手が綺織の前に突き出されたとき、色白の細い指は何か蜜色に輝く透明な水晶のような石を持っていた。

「十六歳の誕生日、おめでとう」

「……へえ。覚えてくれてたんだ」

 ゆっくりと瞬きをして、どこか意地悪げな笑みを浮かべて綺織は言った。当たり前だと言うように、千彩はわずかにむっとした表情を見せた。

「昨年もちゃんと言ったじゃない。今年くらいは数日遅れても何かあげようって気になったのに、いらないの?」

「冗談だよ。それで、これは何?」

 受け取った石は握れば手の中に隠れてしまうほどの大きさで、きらきらと雲母を散らすように輝いて見えた。不思議と石に触れている肌がわずかに温かく感じる。まるで石の中に灯火が封じ込められているようだ、と綺織は思った。

「この前、いつもより身体の具合がよかったから林の中を散歩してたの。そのときに偶然これが落ちてるのを見つけて、綺麗だったから姉さんにあげたいと思って拾ったんだよ」

「本当に綺麗だね。……だけど、いいの? せっかくお前が林で拾ったものなのに」

「いいの。姉さんが持ってて」

「ありがとう、千彩。大切にするよ」

 綺織が頭を撫でてやると千彩ははにかんで頷く。その後、家の中から玄関に出てきた祖母が目を細めて綺織を歓迎した。綺織は千彩と連れ立って一年ぶりの祖母の家に入った。

 ひんやりとした天井の高い玄関や、薄らと沈香が香る廊下は祖母の家特有のものだ。廊下も階段も曇り一つなく磨かれ、手摺の浮彫模様にさえも埃の溜まったところがない。居間に入ると、この季節にしては暑さが静まっている。幼い頃それを疑問に思った綺織が祖母に訊ねると、窓の外にある凌霄花が緑のカーテンとなって熱を防いでいるおかげだと教えられた。祖母が育てた凌霄花は二階の窓に届きそうなほどもある丈で、見事な蔓を繁らせている。青々とした葉は窓や庭に早緑の影を落とし、その葉影の中で美しく咲いた花の薄紅色が透けていた。

 綺織は祖母から渡された一杯の麦茶で渇いた喉を潤し、三人での昼食を済ますと居間の中を歩き回り始めた。これは祖母の家でしか見られないものに飽きず興味を示す彼女の行動として恒例だった。湾曲した把手がついた戸棚から始まり、その上にある銀メッキの置時計、会津塗り宝石箱のオルゴール、丸い水晶の文鎮、陶器の花瓶、そういったものを手当たり次第触れていきながら部屋をゆっくりと一回りする。居間には珍しくて凝った趣向の古めかしい小物が多く、一年前と同じものを前にしても綺織は飽きなかった。

「欲しいものがあったら持って帰ってもいいんですよ」

 時々祖母が微笑んでそう言ったが、綺織は決まって同じ返事をした。

「それじゃあ意味がない」

 どれだけ欲しいと思ったものがあっても、それは祖母の家にあるからこそ価値があるものだと綺織は昔から考えていた。都会の喧騒に紛れて建つ自分の家に置くよりも、自然に一番近い場所に建つこの家に存在しているからこそ、時計や花瓶といったありふれたものでも不思議な魅力を持つようになるのだと信じている。

「姉さんは面白いね」

 千彩に言われ、綺織は何か言い返そうとしたが思い止まって口を閉じた。恐らく物心ついたときから祖母と二人で暮らす千彩は、綺織が夢中になる小物をそれほど特別だとは思っていない。普段から見ているものなのだから当然だろう。年に一度都会から田舎を訪れる綺織が知る感覚は、千彩も祖母も知らないものだ。自分だけにしかわからない楽しみはそのままに隠しておこうと綺織は小さく微笑んだ。そんな姉を不思議そうに見つめていた千彩は思いついたように再び口を開いた。

「姉さん。今から林に遊びに行かない?」

「えっ」

 突然の誘いに綺織は目を瞬いた。

「私はいいけれど……。でも、こんなに日差しが強い昼間から外に出て大丈夫なの?」

「今日は身体の調子がいいの。日除けのために帽子もかぶっていくから平気よ」

 赤いリボンを結んだ麦藁帽子を手にする千彩に、綺織はしばらく考え込んだ。確かに今の千彩の顔色は比較的いいように見える。しかし彼女の記憶が正しければ、一昨年同じようなことを言った妹と遊びに出かけたところ、林の中に到着して二十分も経たないうちに倒れてしまった千彩を背負い、綺織は大慌てで祖母の家に戻ったという過去があった。そのため、姉妹が外で遊ぶのは気温の低い早朝や夕暮れ時といった時間か曇りの日が多い。

「千彩。綺織は二年前のことがあるから不安なんでしょう」

 祖母が優しく声をかけてきた。すると千彩は「ああ……」と呻くような声を出すと、姉の顔色を窺うようにおろおろとし始めた。

「あのときはごめんね、姉さん。でもわたし、最近は結構調子がよくなったんだよ。本当に大丈夫だから……」

「行ってきなさいよ、綺織」

 妹と祖母に言われ、沈黙して悩んでいた綺織は小さく頷いた。

「うん。じゃあ行こうか」


 

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