英雄参上
真っ先に異変が起きたのは、辺りの信号機だった。普通に動いていた信号機が突然赤信号から変わらなくなり、道行く人はある種の危機的予感を察知した。この街に住まう人々にとって異変とは日常的にあることであり、特別騒ぎ立てることではない。これ以上発展しなければ良いだけであり、今の段階で騒ぐ住民は、この街にはいないのである。
クラクションすら鳴らさずただ信号が変わるのを待ち続ける車の行列は、見慣れぬ者にとってはかなり奇妙なもので、ただ一人、秋葉さんだけがついていけずキョロキョロと辺りを見渡している。
『本部より各員に告ぐ。これより作戦No.rabbit-14.日野区中央道銀行襲撃敗北戦を開始する。各員行動開始』
『バド1了解』
『バド2了解』
『バド3了解』
インカムを操作して、マイクに声を通す。
「ダーク1、了解」
振り返ると、ガントレットの甲を叩き合わせヘルメットから覗く口元に笑みを浮かべた太刀風さんと、刀の柄に被せた鞘掛けを外し三度笠を少しだけずらして僕を見る斯道さんがいた。軽く息を吐く。
煙草を口にくわえ、中途半端に伸びた髪を指で梳き上げた。赤錆とよく笑われる茶髪がなによりも黒く、そして流れるように伸びていく。耳の後ろ辺りから纏め上げ、旋毛より少し下で一本に結い上げる。そのまま撫でるように無造作に払うと、髪は腰まで伸び続けた。
最後の一口を深く吸い、煙草を足元に落とす。踵で踏み消し吸殻を指で中空へ弾き飛ばすと、消しきれてなかったのか、一粒の火花が風に舞い瞬いた。
「闇よ」
言葉が契機となり、足元から粘り付くような闇が僕を包んだ。足を、腰を、胸を、肩を、首を、腕を、波打つが如く闇を纏う。粟立つようにざわめいたのは一瞬だけ。後に残ったのは、無機質な黒のコートとマフラーだ。風もないのにはためき、乾いた音を立てる。
「太刀風舞」
「おう!」
「斯道武市」
「へい」
二人の堕名を呼ぶと、背中越しに跳ねるような声が反って来た。同時に、溢れんばかりの信頼と歓喜が燃え上がる。
今から僕は、七緒明日輝ではなくなる。
人としての存在を棄て、名前という証明を棄て、僕は、一人の悪になるのだ。
俺の名前はダーク・アブソリュート。
それ以上でも、それ以下でもない。ただ一つの闇になる。
「行け」
「よっしゃ行くぜー! 」
爆ぜるような笑い声が辺りに響き渡り、一斉に空へと飛び出した。
――――――――
「本当にすいませんでした……」
「こちらこそ軽率でした。すいません」
僕は頬の赤く腫れた紅葉を擦りながら頭を下げた。秋葉さんは首を真っ赤に染めてさっきからずっと平伏している。そりゃあ確かに痛かったけど、こんなに謝られたら怒るものも怒れなくなってしまった。
「そろそろ頭を上げて下さい。もう大丈夫ですから」
女性相手に強引に動くことも出来ず、中途半端に伸ばした手がむなしく宙で止まる。覗き込むように秋葉さんの顔を見ると、半ば泣き出しそうな顔になっていた。なんか、泣かしてるみたいで罪悪感が。
「それが普通の反応ですから、そんな気に病まないで下さい」
「はい……」
消え入りそうな声で返事をして顔を上げる。恐る恐る、と効果音が聞こえて来そうな視線を向けて来た。
「あの、今更って気もするんですが、本当に七緒さんは、その、ダーク・アブソリュートなんですか?」
「叩く前に聞いて欲しかったですね」
縮み込む秋葉さん。
「冗談ですから萎縮しないで下さい。確かに僕はダーク・アブソリュートてす。証拠もお見せ出来ますけど見ますか?」
「いえ! 大丈夫です!」
首を千切れそうなほど強く振り、その反応にまた軽く傷ついた。確かに悪役と言われていきなり信じるような人間はいない。秋葉さんが怯えるのも仕方ないことだ。だけど、やっぱりへこむね。
軽くため息を吐いて、気持ちを切り替えた。説明しなければいけないことは山ほどあるのだ。こんな所で落ち込んでいられない。
「それじゃあ、具体的な部分に行きましょう。さっき悪役の能力って言ってましたよね。この業界ではそれをニューセンスと呼んでいます」
「ニューセンス、ですか?」
「はい。なので便宜上能力者はセンス保持者と呼ばれます。指名手配されている悪役は皆、センス保持者なんですよ。僕も、太刀風さんも、斯道さんも。それに秋葉さん。あなたもです」
「…………」
反応出来なかったのか、秋葉さんは息を飲み目を見開いた。それでも視線は僕から外さずに、次の言葉を待っている。
「そして、実の所英雄達もまた、センス保持者なんですよ」
―――――――
ビルから道路に降り立った瞬間、辺りから全ての音が消えた。足音も、会話の声も、針のような鋭く尖った静寂が奪い、一瞬だけの無音が響き渡る。動こうとする者はいない。まるで祈っているかのようだ。夢であれ。嘘であれ、と。
「……亜悪だ」
間の悪い通行人の誰かがぼそっと呟いた。しかしその言葉は意外なほどはっきりと聞こえ、近くにいた全ての者の耳に届いた。誰もが現実を忘れ、呆れるほど俺達のことを見つめる。俺はぐるりと見渡し、声を張り上げた。
「我が名はダーク・アブソリュート!! 全ての者を闇色の絶望に染めてやろう!!」
その言葉が引き金だった。
街が音を取り戻し、即座に悲鳴を上げた。叫び声、動乱、狂気、目まぐるしく鳴り響く恐怖の金切り声を身体の全てで受けて、俺は両手を広げて合図した。それを視認した偽装トラックから武装した軍人のような戦闘員溢れだし、辺りを制圧していく。一呼吸遅れて反応した道路沿いの店が緊急用のシャッターを一斉に下ろす。重厚な防弾幕が下りると街は灰色に包まれ、硬質な金属音と共に戦場へと様変わりした。人々は言葉とも判別のつかない叫びを上げながら地下避難通路へと殺到し、押し合い、突飛ばしながら群れを作って消えて行った。
喧騒に掻き消されながらも緊急車両のサイレンは徐々に近づいてくる。信号が変わるのを待っていた車は運転手に見捨てられて道路上に放置されていて、それが僅かながらも時間稼ぎになっていた。その間に作戦を進めて置かなくてはいけない。目標の銀行に進み、防弾幕の前に並ぶ。
「やれ、ストレンジ」
「承知した」
刀の中でも一際長い打刀の鯉口を切ったストレンジ・ナイツは、やや緩慢な動作で柄を握り、ふわりと揺れるように歩みよった。草履の掠れるような足音が、途中から一人の物ではなっていく。
「皆克四連」
言うが早いか、ストレンジ・ナイツの右腕が肩口から映像を重ね合わせたようにぶれ、淡い虚像から実体を得た四本の右腕が同時に刀を抜いた。重なりあっていた刀の軌跡は途中から放射状に別れ、防弾幕に四筋の痕を残す。刀身が日の光を反射して煌めき、息つく間もなく再度振るわれた。無造作とも見える太刀筋でバラバラに動く全く同じ右腕。防弾幕は次第に形をなくしていき、数秒の間で細かな残骸へと変わり果ててしまった。積み重なる瓦礫の向こうに合った強化ガラスも障害とはならず足元に崩れていく。ほぼ全ての防弾幕と強化ガラスを切り裂くとストレンジ・ナイツは一歩下がり、元からそうであったように腕を一本に戻して刀を鞘に納めた。
銀行の中にいた市民は悲鳴とも取れぬ叫び声を上げながら奥へと逃げ込もうとするが、必死の形相の銀行員に止められて動けない。入り口の壁が全て消え俺達が踏み込むと、狂乱は更に激しくなった。落ち着いている者は一切いない。迷彩服を着た戦闘員がホールに広がり小銃を構えると、一際高く悲鳴が上がった。
「ハッハッハッー!! どけどけ!」
悪の権化のような高笑いを上げて駆け出したラフ・テンペストは、ガントレットの甲を叩き合わせ鈍色の両拳を左右に広げた。即座に風が彼女を取り巻くよう旋風となって密集し、彼女の踏み込んだ右足へと集束していく。振り上げるように後ろに反動をつけた左足を一瞬止め、右足を床がひび割れるほど踏み込む。瞬間、張りつめた空気がラフ・テンペストのブーツの裏で文字通り破裂した。限りなく体積を圧縮された気体は彼女を天井へと吹き飛ばし、同時に蹴り上げられた左足の力によって、腕を中心に回転しながら宙を舞うラフ・テンペスト。天井を削り取りながら銀行を横断した彼女は、在ろうことか市民のど真ん中へと降り立った。ブーツの金属が擦れ合う音を響かせ着地すると、天井へ広げた両手を突き上げ、また高笑いを始めた。
既に銀行員の制止は意味をなくしていた。むしろ銀行員らがこぞって奥へと逃げていく。小銃を構えた戦闘員達はその間も防犯カメラを破壊し入り口付近に置いてあった観葉植物などを集めている。俺は外へ戻り、インカムを操作しながら辺りを見渡した。人影は一切消えて、静寂が支配している。
「ダーク1よりバド1へ。銀行の制圧を完了した。中にいた市民は奥の地区通路から避難。作戦に遅れなし。どうぞ」
「こちらバド1。了解した。第二行動へ移行する。それから、英雄が二人そっちへ行ったわ。恐らく彼方のお相手よ」
思わず安堵のため息が出た。いつ来るかと少し心配になっていたのだが、予想通り一番乗りらしい。向かって右側から近づいて来る緊急車両のサイレンはかなり大きな物となっている。ふと左を見ると、昼間だというのに眩しいほどの光源が車の隙を縫って迫っていた。インカムに戻る。
「ダーク1視認した。これから輝ける剣姫と嘆きの巫女との戦闘に入る。参入のタイミングはそっちに任せた」
「了解。それじゃあ後で」
通信を切り、偽装バスに合図を送る。武装した運転手が頷きバスを動かし始めた所で、左右から声が聞こえた。半ば無視するように空を見上げ、長い嘆息を吐き出す。また風もないのにコートがはためき、マフラーが揺らめいた。頬の赤みが見えないように位置を調節して、光源に向き合う、なかなか早い動きだ。僅かに苦笑し、身体から力を抜く。
「ダーク・アブソリュートーー!!!!」
若い女の子の絶叫のような声と共に、光源が空へ打ちあがった。弧を描き道路に乗り捨てられたトラックの上に着地して仁王立ちすると、俺に向かって力強くゆびを指す。
「こんな気持ちいい日に面倒起こしやがって! この後友達とアイス食べに行く予定だったのにどうしてくれるんだ! 今日こそお前を倒して終わりにしてやる! この根暗野郎!」
気持ちの良いくらい身勝手な罵倒をした女の子は、指していた右手を強く横に切り、初めて見せるポーズを取って俺を睨みながら口元に笑みを浮かべた。
かなり我の強そうな女の子は、市内にある公立高校の制服を着ている。水色のチェックが入ったスカートと淡いネイビーのブレザーが可愛いと評判の制服であり、まだ真新しさが抜けきれておらずどちらかと言うと服に着られていると言った様子だ。張りのあり過ぎる膨らんだ胸元にはやや大きすぎる赤のリボンを締めているが既に緩めてしまっていて、ブレザーとシャツのボタンをいくつか外しだらしなく首元から鎖骨まで見えてしまっている。白みがかった長い金髪は頭のてっぺんでお団子にしていて、短剣の細工があるシルバーのバレッタで留めていた。光はどうやらその髪が発していたらしい。
「来たか、じゃじゃ馬姫。それとお供の文学巫女も」
俺はトラックの上の彼女を無視して道路の向こうから息を切らして走ってくるもう一人の女の子を見た。こちらの女の子も同じ制服を着ているが模範生のような正しい着方をしていて、スカートも膝下までおろしている。やや短めの濡れたような黒髪が四方に飛び跳ねていて、細い眼鏡も汗で曇っている。かなり急いできたのだろう、迫り出した胸が激しく上下していて、息も切れ切れだ。これから戦闘だというのに、ペース配分も考えず全力でついてきたのだろう。
「お、お供じゃ、ありません! はぁ、はぁ」
「……そうか」
軽く眩暈がした。いつもながら、こんな調子で英雄としてやっていけるのかと心配になる。大体この文学巫女は肉体労働に向いてないんだから後方支援専属になればいいものをどうしてじゃじゃ馬姫の後をいっつもくっついてこんな最前線に…………と、危ない危ない。僕がいつの間にか俺を押しのけて出て来ようとしていた。引っ込んでろ馬鹿野郎。
「ちょっと巫女は休んでなさい。ね? 息整ったら支援してくれれば良いから」
輝きの剣姫が呆れたように目尻を下げて手を払った。返事もできないのか、嘆く巫女はふらふらと頭を何度か上下させて歩道の脇に倒れ込む。心配そうに見つめていた剣姫だが、ここにいる趣旨を思い出したのか、両手を腰に当てて俺に向き直した。口元に快活な笑みが戻る。
「さーて、それじゃあ行くか煤野郎」
剣姫の髪がまた光り輝き、彼女の両手が白金の閃光を放ち始めた。それは決壊寸前であるかのように手の中で暴れ始め指の隙間から漏れ出している。剣姫は両手を突出し何かを握るような素振りをし眉に力を込める。同調して髪が金色の輝きを増し、手の中で爆ぜていた光が急速に光剣を生成する。刃渡りは約六十センチ程で細工は一切ない光の十字剣が、彼女の手の中に現れた。振る度に残光を残すその剣は、彼女の神名の元にもなったものである。
「ダーク・アブソリュート。お前の闇、この輝きが突き通す!!」
ラストの台詞の元ネタ誰か分かるでしょうか。