スクランブル
「アスキサン大丈夫です?」
「ごめ、ちょ、無理」
大通りのコンビニの駐車場で、僕は地面に手をついて死にかけていた。酔った状態で風呂に入る身体に悪いってよくいうけど、まさにその通りだ。全力疾走したら心拍数と血圧、体温の上昇によって吐き気と目眩で立つことすらままならないとは。おえ。
なんとか身体を引きずり、防犯カメラの届かない所まで来てようやく倒れ込んだ。コンビニで買った一リットルの水とコーヒーを冷たいコンクリに投げ出し、バクバクと暴れまくる心臓の上に手を乗せ息を整える。目を閉じても、瞼の裏をセンスの悪い色の光が飛んでまったく落ち着けない。荒れた呼吸が気持ち悪かった。でも、全力で走ったお陰で五分でここまでつくことが出来たのだ。それだけは行幸である。
「さっきのってなんだったんですか? 猫が木から降りられなくなったって」
ポケットの中から少しだけはみ出た画面に猫の顔を覗かせて、スティーがスピーカーから聞いてきた。フェンスに背中を預けペットボトルを手繰り寄せる。
「あれは、秘匿通信外、での暗号だよ。猫は悪役、木は作戦、つまり、撤退失敗ってこと」
深く息を吸い無理矢理呼吸を安定させると、アルコールが本格的に回ってきたのか視界が歪んできた。頭が重く身体を一定に支えられない。ぐらりと上半身が地面につきかけてやっと身体を元に戻せるほどだ。そろそろ限界である。スティーの声も、だんだん遠くなり始めていた。相槌にもならない言葉を返しながら、僕はやけに重い腕を伸ばしてペットボトルのコーヒーを掴んだ。手元に引き寄せて、身体全体を使って蓋を開ける。
コーヒーの色というのは偽りの黒だ。カフェオレなんか見て分かるとおり、コーヒーというのは濃い焦げ茶色をしている。まあ茶褐色だのなんだの別のいい方もあるが、結局コーヒーは黒に見えて黒ではない。そんなことを思いながら僕は苦さと安さだけが売りのコーヒーを両手で掴み、解れかけた意識を何とか操って少しづつ飲み始めた。不味い。が、それがいい。
三分の一ほどなくなったペットボトルの中に、液体状にした闇を少しづつ創造していく。偽りの黒の中に、本物の黒を混ぜ込んでいくのだ。闇はコーヒーと混ざりつつ僕の身体の中へ流れ込んでいく。その奇妙で不快な違和感を、不味い苦味がかき消してくれるのだ。そうでもしないと途中で全部吐き出してしまう。
結局倍近くなった闇入りコーヒーを飲み干しペットボトルを投げ捨てた。闇を飲む、という違和感を身体が気づいて拒絶する前に、急いで両手を胸に当て息を深く吐いた。この場合肺の中に空気があると邪魔だ。一息分だけ浅く息を吸い、目を閉じ口を開く。イメージするは。己の心の臓。
「闇の鼓動」
言葉が契機となり、体内に取り込んだ闇が一気に吸収された。同時に、心房内の血液に混ざるようにまぎれる様にして闇が創造されていく。精神を蝕むような違和感。身体が焼き切れるような違和感。それを気合でねじ伏せ、具現化された思念に向かってある思念を追加した。それは一瞬の思考で事足りる。
異物を排出せよ。
思考というのはエネルギーを持つ。消化系と心臓から全身に渡った闇が思念を受け取り、そして更なる具現化を生む。人としての尊厳を踏みにじるような異形の動きは一瞬で事足りた。
「ゴホッ! グ、グオエェェ!! ゴホッ、ゴホッ、ッはあ、はあ」
血液に混ざった闇がアルコールを捕まえて肺へと流れ込み、黒く掠れた気体が口から勝手に溢れ出した。身体が痺れ痙攣を起こしかけても闇は一切斟酌せず、体内のエチルアルコールを強引に奪い、取り込み、肺へ向かって流れ込む。それは少しでも間違えば血管が破裂してもおかしくない行為だ。身体が硬直し、鳩尾を押さえ丸くなる。視界がフラッシュを焚かれたように真っ白に染まり、食いしばった歯から断続的に闇が溢れる。腕に食い込んだ爪の痛みで意識を失わないようにするのが精一杯だ。時間の感覚が遠退いていく。靄がかかった頭の中が、無限にも思えた数秒の後にようやく晴れていった。
「うっ、ごほっ、ごほっ」
「アスキサン大丈夫です!? アスキサン!」
「うん、だいじょう、ぶ、だから」
もう一本用意してあった水のペットボトルを取り、闇によってボロボロになった胃が驚かないよう今度はゆっくりと慎重に飲んでいく。心配そうに声をかけるスティーを尻目に、水を三分の一ほど飲んで深く息を吸った。ピリピリと鋭い痛みが胸に広がるがすぐによくなっていくだろう。体内にある無数の傷は、まだ身体に残っている闇が張り付き補修してくれるはずだ。薄れていく痺れを確かめるために手を軽く握り、震えを押さえ込んでいく。
「驚きましたよアスキサン。いきなり死にそうになるから」
「もう大丈夫。完璧。それより時間は?」
いつの間にかコンクリへと投げ出してしまったスティーを拾い上げ、画面についた砂を払ってやる。相変わらず猫のイラストでコミカルな泣き顔をしたスティーは虚空からグリッドの荒い懐中時計を取り出し時間を見せた。デジタル式の画面はまだ九分と少ししか経っていない。よかった。間に合った。
「じゃあ、やよから情報もらっておいて。僕は少し休むから」
「了解でーす」
画面が消えて薄い本体が熱を帯び始めた。スティーをポケットに戻し、逆のポケットから潰れたラッキーストライクを引っ張り出した。三本しか入ってないけど折れてはいないようだ。火を点け、紫煙を深く吸い込んだ。が、軽くむせる。
「やっぱり、きついなあ」
煙を薄く吸いゆっくりと吐き出す。闇に持って行かれたニコチンが脳を駆け巡り、気怠い高揚感が身体にまとわりつく。開けっ放しの水を軽く口に含んで、またゆっくりと飲み込んだ。大分落ち着いてきた。手足に力が戻っていくのが分かる。
まだ闇を含んだ紫煙を空に向かって吐き出す。と、全く車が通らない大通りの下流から音もなくバイクが近づいてきた。小型二輪相当の電動二輪1.2kwだ。乗っているのは黒のライダースーツに身を包んだ青年とも思しき細身の女性。法定速度を軽く超える速度で僕の前まで乗り込んで来ると、流線型のフルフェイスメットのシールドを跳ね上げた。もちろん、太刀風さんである。
「早いね」
立ち上がり煙草を靴の底でもみ消して、水を一気に飲み干した。その間に太刀風さんはエンジンを掛けたままシートを上げて、無言のまま銀の色違いのメットとブーツとグローブを取り出した。それらを僕に押し付け、底の方から小さな黒いアタッシュケースを取り出し、中からはめ込み式のインカムと声帯感音式マイクを丁寧に出す。荷物を持ったままそれを見ている僕を振り向いて、目が合いぎょっとした。
「明日輝、あれやったのか。目が気持ち悪いぞ」
「ひどいな、そのいい方」
肩を落として、荷物を地面に置きインカムとマイクを受け取る。
闇の鼓動は血管の中に闇を作り出す業だ。闇は全身に回り、目といえども例外ではない。つまり今僕の目は白目のない真っ黒なのである。まあ皮膚は黒くなる訳じゃないしすぐに元に戻るから支障がある訳じゃないからいいけど。靴を脱いでブーツを履き紐をキツく締め、上着を脱いでグローブに手を通す。今日は時間がないから初めから完全モードだ。荷物を太刀風さんに渡し、耳にインカムを押し込み喉に当たるようマイクを首に巻く。何度か唸って調子を確かめて、スティーをポケットから出して画面を点ける。どういう意図なのか、スティーは紙に埋もれていた。
「スティー、インカムと通信繋げる?」
『勿論ですアスキサン!』
本体からではなくインカムだけから声が聞こえ、スティーがコミカルに敬礼した。紙がバッと散り、スティーは慌てて紙をかき集め始めた。なんだろう、本当にハイテクなのか疑いたくなってきた。太刀風さんはその間に靴と上着を適当に丸めシートの下に押し込み、シールドを下ろしてバイクに跨り僕の方を向いた。僕もスティーをポケットに押し込みメットをかぶって、太刀風さんの後ろに跨る。メットを叩いて合図すると、バイクは一気に、だが静かに加速して道路に飛び出した。
僕は頭の中で作戦予定表と英華市の地図を広げながら、マイクに話しかける。
「今日の作戦って、誰がどこでやってるの?」
『最中区で伊加利が指揮官だ』
「愚者の所か。でもなんで伊加利さんがミスなんか?」
『作戦と、あとタイミングが悪すぎたんだ、よッ』
言葉の最後と共にバイクは左に倒れ込み、速度を落とすことなく急カーブを曲がり切った。口を開きかけて舌を噛みそうになり、慌てて舌を引っ込める。車道には驚くほど車がいないからバイクは飛ばし放題で、かなり無茶な運転をしていた。
『あとは私が話しまーす!』
会話にスティーが割り込んできて、答える間もなくバイクはまた鋭角に倒れ込んだ。辛うじて「お願い」と口にすることが出来た。
『それでは19時20分現在の作戦の概要を説明しまーす。本日18時30分、ガロウズ・ティアー率いる三部隊が作戦NO.crash-15.最中区区役所侵入戦を行動開始。ティア1は指揮官「ガロウズ・ティアー」補佐官「ダンプ・カノン」、ティア2は指揮官「スキニー・サイクロン」応援補佐官「クロウ・ソング」、ティア3は指揮官「ネガティブ・アッパー」補佐官「ポジティブ・ダウナー」の三隊編成。25分カメレオンの遮断、28分区役所内のネットワーク制圧、30分包囲開始。34分包囲完了、36分侵入開始。ティア1正門、ティア2裏口、ティア3屋上から侵入』
「ちょっと待って、伊加利さんが侵入戦? それはいいとしても編成が偏り過ぎだ……それに、なんで東西さんが応援に来てるんだ?」
『続けますよー。38分ティア1ティア2一階占拠、39分ティア3四階占拠、41分英雄および機動隊到着」
カーブの勢いに負けて最後の部分を聞き流しそうになり、慌てて説明に割り込んだ。最中区の区役所に近づいてきて流石に交通量が増えてきた。それも延々渋滞状態だ。太刀風さんの運転も荒さを増して来ている。一瞬自分の耳を疑い、声を荒げてしまった。
「41分到着だって!? 作戦始まってからまだ十分しか経ってないのに英雄が来たのか……! なんでそんな早いんだ」
『どうやら大釈迦区グリーンセンターで合同会議が行われていたみたいです。26分の段階で出動し、40分に認可が下りたのと同時に戦闘介入してきたようです』
「そんな……」
英雄法三条に、英雄が戦闘行動を起こすには国及び地方自治体の認可が必要とある。その法的解釈として、国の長期許可制と地方自治体の短期許可制という二分制というのがこの国ではとられている。簡単にいえば、国が英雄と認めて地方自治体が出動命令を出す、となるのである。国がいちいち出撃命令の許可を出してたら時間がかかってしょうがないから、特別警戒区域に含まれる地方自治体が許可を出せ、という考えなのだ。その方がタイムラグを減らせるのである。
だが、いくら減らせるとはいってもゼロにすることは出来ない。これは戦闘なのだ。避難誘導や警戒線の設定など簡略化出来ない問題があるため、少なくとも十分から二十分前後は必ず時間が取られるのである。それらのタイムラグを含めて作戦は立てられるのだが、そこは殆ど戦略プランナーの手腕にかかっているといっても過言ではない。高校生の頃から普通にやっている秋良が異常なのだ。通常は経験豊富な人間が数人集まってたてるのである。輝きの剣姫のように先走る変数のような英雄の行動まで綿密に予測をたてられる人間は、早々いないのだ。
ちなみに、というか当然の話だが、地方自治体程度の存在に悪役の仕組みは知らされていない。英雄庁でも特別な部署の人間しか知ることは出来ない。
『42分戦闘開始。48分区役所包囲。55分ガロウズ・ティアーより作戦の放棄および救援の申請。58分本部より申請許可。19時08分ダーク・アブソリュートに救援命令の発令。で今に至りまーす。本部からの命令内容は撤退時間までの部隊援護。正面入口前広場の戦線の維持。英雄の撹乱でーす。撤退は19時45分ですので24分後ですねー』
交差点を曲がると突然渋滞が現れた。準警戒線に入ったのだ。クラクションも鳴らさずピクリとも動かない長蛇の列は何度見ても不気味が悪い。歩道スレスレを走り抜け、流石にスピードが落ちてきた。既にカメレオンに写らない所まで来ている。そろそろバイクも通れなくなってくるだろう。
「つまり戦闘のど真ん中に出て愚者と戦えってことか……ちなみに、なんだけど、この作戦のプランナーってだれ?」
その疑問には、スティーが答える前に太刀風さんが忌々しげに答えた。
「脳筋の筋肉ダルマ、だッ!」
「……熊沢さんかぁ」
頭の中に、二メートルを越える暑苦しい作戦本部の副部長の濃い顔が浮かぶ。
目の前に停止線の検問が見えてきて、バイクは建物の間の細い路地に向かって急カーブした。小さなモーター音はあそこまで聞こえない。人が二人並べば肩がぶつかってしまうような細い道を限界まで進み、戻れなくなるギリギリでバイクはようやく止まった。飛び降りてヘルメットを外す。
「こっからは自分で行け。の方が速い」
シールドを上げバイクから降りた太刀風さんにヘルメットを渡すと、僕の上着と靴が入ったシートの下に無理矢理しまった。僕は切り取られた空を見上げ、ふと片桐さんの事を思い出した。太刀風さんの背中を見て、なんとなく口を開く。
「今日、戦闘に巻き込まれて両足を失くした人とあったよ」
ぴく、と太刀風さんの身体が止まる。それからゆっくりと振り向いて、労わるような悩ましい眼差しで僕を見た。いいたい事がすぐに分かって苦笑する。
「分かってる。これが僕の仕事だ。大丈夫だよ」
「……チッ、変な事いってんじゃねえよ。集中しろ。お前は撤退の勘定に入ってねえんだから自力で逃げなきゃいけねえだぞ」
「それも分かってるから大丈夫。帰りもよろしくね。あ、あとスティーもお願い」
『お願いしまーす』
ポケットからスティーを取り出し太刀風さんに渡す。太刀風さんのインカムにも声が入ったのか、明らかに怪しむような目つきでスティーを指先だけで受け取り、スーツの胸ポケットに捻じ込んだ。それからもう一度僕を振り返った。心配してる、とまるでいっているかのような目つきだ。僕は深く頷き、にっこりと微笑む。そして、また空を見上げた。
街のネオンに色付けされた都会の夜の闇が、張り付いたように空に沈んでいる。僕は髪をかき上げ赤錆色の髪を闇に染めて一瞬で纏め上げた。旋毛の下で括り、頭を振っていつもの様に創り上げる。外見は前髪が目に掛かっててよく顔の造りなどはよく見えないが、内側からは視線を遮らないように創っているので以外にも視界は良好だ。身体を簡単に解して整える。闇の鼓動の影響はもう全くない。
「じゃあ行ってくるよ」
太刀風さんに手を振り、足に闇を絡ませて一気に飛び上がった。ビルの壁面を蹴り屋上まで昇る。太刀風さんがなにかいい掛けたみたいだったけど、インカムからはなにも聞こえてこなかった。なにかいったのかもしれないけど、僕にはもう聞こえてなかった。
屋上まで駆け上がり、その勢いのまま一番高い広告看板の上で立ち止まる。ここからだと区役所ははっきりと見えた。竜巻のような突風と爆炎が時折空に昇り、絶え間なく発砲音が聞こえてくる。風に乗って硝煙の臭いもする。怒号と、悲鳴と、狂乱の声もする。戦闘は激化しているようだ。ライトから逃れるように身を潜め、区役所に向かって真っ直ぐ飛び上がる。
「闇よ」
言葉が契機となり、粘りつくような闇が身体を一瞬で覆いつくし、コートとマフラーを形作った。闇が掠れて空に跡を引いていく。瞼を閉じ、冷めていく頭の中で、いつもの呪いの様なスイッチに手を掛けた。
今から僕は、七緒明日輝ではなくなる。
人としての存在を棄て、名前という証明を棄て、僕は、一人の悪になるのだ。
俺の名前はダーク・アブソリュート。
それ以上でも、それ以下でもない。ただ一つの闇になる。
「……よし」
心が入れかわる。世界が切り替わる。命が切り裂かれる。目を開くと区役所はすぐ目の前まで来ていた。闇を足場に一気に加速し、機動隊の後方、区役所の正門の上空を駆け抜けた。すぐに見つかり声があがる。
「敵増援! ダーク・アブソリュートだ!」
無数の銃口がこちらを向く。狙い撃ちにされる前に、広場のど真ん中に飛び降りた。英雄と悪の真ん中だ。マフラーに隠された口元が歪んだのが分かった。視線が集まる。
さあ、始めよう。
舞台の幕は、すでに上がっているのだ。