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僕の仕事は悪役です。  作者: 朝丘ひよこ
第二章 日常と異常のコントラスト
14/26

個性の強きゼミ仲間たち(後編)

 

 

「それじゃあ次は俺の番。かな?」


 秋良の天才宣言で固まっていた皆もやっと落ち着いてきて、また自己紹介が始まった。次は奥から二番目のチャラい人。少し長めで深みのある焦げ茶色の髪を僅かに揺らして、チャラい人がイスから立ち上がる。恒例になった拍手をすると、彼は柔らかい声でゆっくりと話し始めた。


「俺の名前は栗原くりはらとおる。果物の栗に野原の原と透きとおるで栗原透。気軽に透って呼んでくれていいからね。得意なことはダーツとビリヤードと、あとバスケぐらいかな。サークルは親交会企画部ってとこに入ってます。ENSでも副管理人やってて、人の話を聞くのが、っていうかまあ色噂話とかが好きなんだ。このゼミも英雄法にこだわって来たわけじゃなくて、どっちかっていうと松永先生のゼミだから選んだって感じかな。去年英雄法の講義ちょっとだけ見て、この人のゼミならやってみたいって思ったんだよね。あー、なんか真面目に話しちゃったけど、普段は軽い感じなんで、これからよろしくね」


 最後の言葉と同時にウィンクを女子に向けて飛ばし、爽やかな笑顔で締め括った。浮わついた人だとは思ってたけど、二年生でENSの副管理人までやっているとは。意外にしっかりしてるのかもしれない。でも親交会企画部ってなんだろう。


「ありがとう透君。人柄ひとがらまで誉めて頂いて。それでは質問へ移りましょう」


 松永先生が促すと、またもや一番にアニメチックな女の子が手を上げた。


「質問! 透っちはもしやジゴロだって噂聞いたんだけど真相はどうなん?」


「残念。俺はまだジゴロの域まで達してないよ」


 おー、と何人か(主に秋良と質問したアニメチックな女の子の)声が響き、不良少女が訝しげに透を睨み付けた。目の前の英雄法で隣だった幼げな人は意味が通じなかったみたいで、小さく手を上げた。


「あの、ジゴロって」


「んなもん聞くな小鳥」


 不良少女が呆れたように言葉を止める。うん。知ってなければ知らなくてもいいよね、これは。キョトンとしてる彼女は、おずおずとまた手を上げた。


「じゃあ、あの、親交会企画部ってなんですか?」


 不良少女の深いため息に透が苦笑し、テーブルに肘を乗せ手を組んで身を乗り出した。青い石のついた華やかな指輪が小指にしてある。


「こういった方が伝わり安いかな。親交会企画部の別名は」


 そこで言葉を切ると、恋人に秘密をささやく時のような甘い笑みを浮かべて口を開いた。


「ヤリコンサークル」


 ポンッ、と音が聞こえて来そうなほど一瞬で女の子の顔が真っ赤に染まり、口をパクパクさせながら身体をイスに預けた。うぶだ。自分で地雷を踏んで爆発するとは、天然なのかもしれない。透は含み笑いのような、はっきりいえばニヤニヤしていると、一番奥に座る最後の男子がいきなり立ち上がった。顔が少し赤い。


「もう戯れ言は終わりです。さっさと自己紹介をしますので黙ってるのです」


 この年代の男にはしては高く澄んだ音をしている彼の声は、どこか棘があって、またやけに堅苦しかった。透を一瞥し、作ったような冷めた顔で口を開く。


「僕の名前は沢見さわみ純平じゅんぺい。沢辺に見識、純粋に平等で沢見純平です。サークルには入らず家庭教師のアルバイトをずっとしているです。昨年は高見沢先生の刑法のゼミにいたのですが今年は別の法律に興味が沸いたのです。なのでこのゼミには純粋に英雄法の勉強をしに来ているのです。そこのところを念頭に踏まえた上で、一年間よろしくです」


 短い。それになんだか無理に作ったような敬語がとっつきにくさを出していて、空気がちくちくと痛い。


「ありがとう沢見君。それでは質問がある方はいますか?」


 流石に誰もいないじゃ、と思った矢先に、明良がさっと手を挙げた。驚いて思わず目を見開く。


「沢見純平ってもしかして公務員模試で全国一位になった沢見純平?」


 様にならない尊大さであごをくいっと上げ、純平は秋良を睨むように目を細めて見る。それから、妙に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。子供っぽい――というか、ガキっぽい表情だ。


「そうなのです。僕は日本で一番なのです」


「へー。そりゃあ凄い」


「……そうか?」


 軽く秋良に流された挙句に不良チックな女の子に疑問視され、純平はその表情のまま固まった。他の人もおーなんて呟いているけど、正直反応は薄い。そりゃあそうだ。(四捨五入したら)IQ200の男を見た後に模試全国一位なんていわれても、反応に困ってしまうだろう。比較というか、争うレベルが違うのだ。純平は徐々に顔が真顔になっていき、少しずつしょんぼりと落ち込んでいく。あぁ。ありもしない父性がきりきりと痛んでいく。


「落ち込むな純ちゃん。競う相手が悪いって」


「そうだぞ純っち。化け物相手に張り合ったって勝てないよっ」


 見るに見かねて透と向かいに座るアニメチックな女の人が純平を慰める。くてーんと萎れた純平は本当に小さな声で「変な呼び方しないでくださいです……」と抗議して、ほとんどテーブルに突っ伏した。


「ありゃりゃー、デッドエンドだね。それじゃあとりあえず、先にらるらの紹介するかにゃっ」


 颯爽と純平を見捨てたアニメな人は、素早く立ち上がり右手を腰に当て左手の甲がこちらに向くように胸の前で開くと、歯が見えるくらいにっこりと笑って小さく頭を下げた。


「初めましてっ。三上みかみらるらです。字は一番簡単な三と上に、ひらがなでらるらです。今時ならひらがなの名前も珍しくないと思うので、呼ぶときは気軽にらるらちゃんって呼んでね。サークルは現代映像文化研究会ってとこで、まあはっきりいっちゃえばヲタ研なんだけど、そこに一年の時から入ってます。アルバイトもやってて、霧島区にあるメイド喫茶で働いてます。趣味はコスプレとゲーム。好きなアニメはマクベスとフルヒと西方。好きなラノベはライオンアンドスパイスとはがねえと女神さまのメモ帳。好きな声優さんはバクロミ様です。まー見て分かる通りうちはアニヲタなんだけど、同じくらい英雄も大好きで、英雄法も大好きです。勉強していて楽しいし、結構ゼミも楽しそうだっだのでここに来ましたっ。なーのーで、これから一年間よろしく!」


 名前までとびっきり個性的な女の子、らるら……さんは、首をこてっと倒しキラキラした笑顔でいい切り、イスに座った。


「ありがとうございましたらるらさん。流石に生徒をちゃん付けで呼ぶのは私の倫理上どうにも難しいので、らるらさんと呼ばせていただきます。それでは、質問がある方は?」


「はいっ!」


「はい透っち!」


 もの凄い勢いで手を挙げた透に、待ち構えていたかのようなドンピシャなタイミングでらるらさんが指をさす。


「らるらちゃんのスリーサイズが聞きたいです」


「初対面でそれ聞くの!?」


 思わず突っ込んでしまった。十五個の目が僕を捉えて(残り一つは未だに伏せている純平のもの)、あーだのうーだのと意味不明な言葉がぽろぽろと口から零れた。恥ずかしくなり、手を振ってらるらさんに発言権を返す。


「んー。素晴らしい突っ込みだね明日輝っち」


 そこを突っ込まないでほしい。


「残念ですが、うちも女の子なのでスリーサイズは秘密ですっ。ごめんね透っち」


「まあ本気で聞いたわけじゃないしね」


 嘘つけ。


「それでは、次はわたくしの番ですね」


 場が途切れたところを見て、らるらさんの隣に座る生徒会長風の女性が立ち上がった。


「皆さん初めまして。私の名前は天恵院てんけいいんほのかです」


「天恵院!?」


 それまで沈みかえっていた純平が突然復活し、目を見開いて天恵院さんを見つめた。ふっと苦笑して、天恵院さんは頷く。


「よく知っていますね。そう。私は貴族である院の一族の一人です。最近はあまり騒がれなくなったのですが、知っている人がいましたか。少し驚きです」


「え、いや……申し訳ないです」


 純平はばつが悪そうに顔を伏せる。他の人も驚いたように天恵院さんを見ているが、よく分からないので秋良の袖を引いてこちらを向かせて、小声で呟いた。


「院の一族って何?」


「明日公は知らんのか? 院の貴族だよ。寺の華族と並んで日本に残る名家っつうか、はっきり言えば天皇陛下に近いところにいる名門一族だよ。つまり、お姫様みたいなもん」


 喉を震わせず無声音でそういい、秋良は顔を向きなおす。そういえば聞いたことがあったような気がする。名字に院のつく人たちを院の貴族っていって、すごく偉い一族なのだそうだ。確か四家くらいしか残っていないらしい。とても古い歴史があるらしいけど、日本史は苦手なのでまったく覚えていない。


「それでは仕切りなおして、天恵院仄です。出来れば下の名前で呼んでくださいね。名字は仰々しくてあまり好きではないの。アルバイトもサークルもやってはいないですけど、学友会には入っています。あと運転免許も持ってます。基本的にはそれだけね。このゼミを選んだ理由は、松永先生と昔から交友があって英雄がとても好きだったからです。色々と大変な時代の話とかを先生から聞いていて、今の時代がとても幸せに感じられるようになり、将来は英雄庁で働きたいと思っています。以上です」


 優雅に(貴族だと聞いたとたんに感じるのも現金だとは思うけど)お辞儀をして、仄さんは席に戻った。


「仄さんありがとうございました。あなたなら将来英雄庁に入れると思いますよ。それでは質問は?」


 松永先生が皆に問いかけるが、やはり萎縮しているのか手は上がらない。苦笑する仄さんは慣れているのだろうか、小さく頭を下げた。ぐっ。松永先生がこっち見てる。行くか。行ってみようか。あーもうやけくそだ!


「しっ! ……質問いいですか」


 焦りすぎて変な声を出し注目がまたこっちにくる。仄さんは驚いたようでぱっちりとした垂れ目が丸くなるほど見開いて僕を凝視している。あ、やばいまた何にも考えないでいっちゃった。松永先生がどうぞといって水を向けてきた。くそまたこのパターンか。


「えーっと……免許って、なに持ってるんですか?」


「免許? 大型二輪よ。時々駐輪場で明日輝君と会うじゃない」


「へーって大型二輪って本当に!? あ! もしかしてサムライクイーン!? マジですか凄いな本当にってか素顔初めて見たけどびっくりです」


「目立つのってあんまり好きじゃないからフルフェイス被ってるだけなんだけどね。サムライクイーンって名前も、本当は恥ずかしいから呼んで欲しくないんだけど」


「すごく似合ってると思いますよ。サムライクイーン。SSをあんなに華麗に乗りさばける人を僕は今まで見たことがありません」


 仄かさんは恥ずかしそうに手の甲で口を隠して、少しだけうつむいた。縦ロールの髪で顔が隠れてしまったが、その表情は案外悪いものではない。大学内でのライダー仲間の会話はアルコールが入ってなくても信じられないくらい弾むものだ。太刀風さんのナナハンを見たときの男連中がその良い例である。それにしても、あの600ccの電動大型バイク、カワザキ・サムライEX-6Rを乗り回す覆面のライダー、サムライクイーンがこんなしとやかな令嬢だとは思わなかった。そうはいっても、仄さんだと知った後だと彼女以外いないなんて調子の良いことを考えてしまうのだから、大概僕もいい加減だ。


 と、仄さんと二人の世界に入っていていつの間にかに周りの空気が冷めていることに気がつかなかった。視線が冷たいというか生温かいというか非常に痛い。松永先生が空咳をして、慌てて背を伸ばす。


「個人的な会話はゼミの後でゆっくりしてくださいね」


 あなたがけしかけたくせに。


「話は終わったみたいだから、あたしの番だな」


 仄さんの隣、パンクな不良少女がやや呆れたような口調でいい、背中を後ろに反らしたまま立ち上がった。どこかからチェーンの擦れる音が鳴る。


「あたしの名前は片桐かたぎり泰乃やすの。片手に木の桐、泰山にないって書く。なんて呼んでもいいけどちゃんとか変な呼び方は止めろよ。キレるから」


 ぎくりと反応する透とらるらさん。


「軽音サークルにずっと入ってて、ギターかベース弾いてる。好きな曲は……ほとんど洋楽で聴いても分かんないか。実家が国の南端だからこっちのことはほとんど知らないし英華市からあんま出たことないから他のとこはどうだか知らないが、この街の英雄とか亜悪の感じは嫌いじゃない。昔からそういう歴史を調べんのが好きで、だからこのゼミに入った。亜悪は、そりゃあ良いことなんかひとつもないけど、なんていうか嫌いじゃない。つまりあたしはどっちかっていうと亜悪信者寄りの人間てことだ。以上」


 片桐さんが軽く頭を下げ座る。皆驚いたり眉をひそめたりするなかで、僕は気づかないうちに口が開いていた。間抜けに見えているかもしれないけど、閉じることは出来なかった。


 英雄と悪役の戦いが英華市の呼び水となったことは良く知られているが、集まったなかに英雄が目的ではない人も、少なからずいる。ゲリラ的に現れ騒ぎを起こす悪役の姿を、反体制的というか反社会的な活動の志士と見る人もごく稀にではあるがいるのだ。その中には悪いことを格好良いと馬鹿みたいに思う人もいれば、亜悪の名目上のこころざしを正義と見る人もいる。彼らは英雄を擁護する英雄信者になぞらえて、自らを亜悪信者と自称しているのだ。時々デモ行進みたいな人の群れが街中を練り歩いている光景を目にするけど、個人として自分から亜悪信者と名乗る人は殆ど、というか絶対いない。なぜなら、その発言だけで世間から犯罪者ような扱いを受けるからだ。


「面接のときにも聞きましたが、やはり驚きますね。英雄法学者としては中々頷きがたいことですが、私個人としては立派な意思だと思います。それでは質問……といいたいところですが、場が荒れそうですね。先に人見さんに自己紹介をしていただきましょう」


「は、はい!」


 必然的に最後となってしまった対面の女の子が慌てて立ち上がる。彼女は片桐さんを恨めしそうにちらりと見て、深く深呼吸をした。片桐さんはそ知らぬ彼女を見上げてにやりと笑う。場を混乱させたことは自覚しているみたいだ。緊張からか震える息を吐き、女の子は口を開いた。


「初めまして。人見ひとみ小鳥ことりです。ややこしいですけど、人を見る、が名字で、小さな鳥、が名前なので好きなほうを呼んで下さい。私は特にサークル活動やアルバイトはしていません。えっと、泰乃とは高校からの付き合いで比衣呂ひいろ高校出身です。さっきは泰乃が変なこといってすいません。見た目は怖いけど根は真面目な子なんです」


「小鳥!」


 思わぬ反撃を受けた片桐さんが声を上げた。恨めしそうに人見さんは片桐さんを見下ろし、片桐さんが睨み上げる。


「それでこのゼミを選んだ理由なんですけど、私は生まれた時から英華市にずっと住んでいて、英雄に憧れというか、不思議なんですけど誇りみたいなものを感じているんです。自分でもちょっと変かなって思うんですけど、英華市から殆ど出たことがないからこの街が私の故郷なんだなって思うと、やっぱり故郷を守っている英雄の皆さんに感謝……みたいな、思いがあるんです」


 悪役としては耳の痛い言葉だ。秋良と視線だけ合わせてバツが悪そうに笑う。


「あともう一つ理由みたいなものがあって。本当は規制とか色々と厳しいみたいなんですけど、松永先生が皆なら話しても大丈夫だといってくれたので思いきっていっちゃいます。実は、姉の娘、つまり私の姪っ子が今この街で英雄をしているんです。誰かはちょっといえないんですけど」


「……はー。凄いね小鳥っち」


 らるらさんが放心したように呟いた。松永先生以外の他の人も同じような反応だ。そりゃあそうだ。英雄の個人情報にまつわることは英雄法によるかなり厳格な制限がかかっており、特に身内に関しては英雄本人以上の情報統制がかかっているのだから。だけど、それも僕や秋良や松永先生には絶対バラしちゃいけないことじゃないかな。そのための規制だと思うんだけど。


 黙り込んでいた皆だが、すぐに色めきだち口を開いた。純平だけはまた項垂れてしまったけど。


「小鳥ちゃんの姪っ子ってことは女の子なんでしょ?」


「そ、それは内緒です」


「小鳥さんの姪っ子さんってことは年は大体同じか少し下ってことね」


「そ、それも内緒で!」


「人見って名字の英雄はいなかったよな。つーことは小鳥さんのお姉さんの名字さえ調べれば分かるんじゃね?」


「それは絶対内緒です!」


 口々に出る追及にボロが溢れだし、人見さんがオロオロと慌て始めた。そりゃあそうだ。英華市にいる英雄で人見と同じか年下の女の子の英雄なんて片手で数えるぐらいしかいないし、初めて会う英雄の身内なのだから色々と話を聞きたいのだろう。予想、というか秘密を考えるのは万国共通の楽しさだ。ちなみに、僕の予想は弾ける跳ね馬か七色の仮面です。


 と、さっき反撃を受けた片桐さんがニヤリと顔を歪め、人見さんを見上げた。あ、そうか。人見さんの高校からの友達なら知ってても不思議じゃあ――


「小鳥の姉ちゃんの名字は姫野だぜ」


「ひめのぉぉおーーーー!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」


 叫び声を上げながら飛び上がった。イスが後ろに押し飛ばされる。僕の反応に(松永先生以外)全員がビクッと震え、仰け反るように身体を引いた。一番驚いたのは人見さんだ。突然すぎて僕を目を合わせたままフリーズしてしまっている。だけど、僕は体裁を整えるような余裕がない。恐る恐るといった感じで皆僕を見ている。


「なんちゃあ。いきなり叫ぶなんてらしくないぞ明日公。いきなりキャラ崩壊するなや」


「そうよ七緒くん。人見さんのお姉さんの名字が姫野ってことがそんなに驚くようなこと?」


 ぽつぽつと話しかけられたが、そちらを向くことすらできない。そんなことをする冷静さすらなくなってしまったみたいだ。初めからこうなると分かっていたらしい松永先生は、いつもの笑顔のまま声を殺して笑っている。死ぬ気で一発殴ってやる。でも、それは後回しだ。僕は、貫通するほど人見さんを凝視してやっとのことで口を開いた。


「……あの、姪っ子さんの名前って……」


「え、っと、姫野ひめの麻奈穂まなほだけど……?」


 隣でやっと気がついた秋良が声を上げた。やっぱりそうだ。そうなんだ。顔から血が落ちていくような気がして、イスに倒れ落ちた。また皆が身体を引く。


 姫野麻奈穂。


 恐らくその子は人見さんや片桐さんの母校である市内の公立高校、比衣呂高校に通っているにちがいない。水色のチェックが入ったスカートと淡いネイビーのブレザーに胸元は赤のリボンを締める、可愛いと評判の制服だ。そして彼女は銀の短剣を模したバレッタで白みがかった長い金髪を留めているはずである。同級生には、眼鏡をかけた運動音痴の女の子、龍音寺りゅうおんじみことがいるはずである。彼女のことはよく知っている。この中の誰よりも知っているはずだ。


 『姫』野麻奈穂。


 輝きの剣『姫』。


 つまり人見さんは。


「じゃじゃ馬姫の身内なのか……」


 口の中で鬱々と漏れた言葉は、はっきりとした音を作るまでもなく掠れて消えた。唇を読んだ松永先生が震えながら僕を見ている。


 後で絶対殴ってやる。グーで殴ってやる。


 そう、思うぐらいしか、今の僕には出来なかった。


 

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