英雄法
今の時間は十二時四十五分ちょうど。秒針が真上を向いている。
いつもなら三分の一も埋まることはない大学一の広さを誇る071大講義室が、今日この時間に限っては学生で一杯で、それでもなお講義を聞こうと入ってくる人の波は途切れる事は無い。五分後にはじまる講義を履修登録出来るのは二回生からなのだが、講義室にいるのは二回生と三回生を中心に、ちらほらと四回生もいる。初々しい顔の学生は一回生だ。たぶん必修の講義をサボって初回だけ見に来たのだろう。よくある話だ。この講義は出欠を取らないので紛れる事が出来るのである。
071大講義室は平席と階段席に分かれていて、教壇に近い平席はもう開いている席が無い。三人掛けの机にびっしり三人座っていて、階段席の方も次第に隙間なく埋まって来ている。階段席の後ろにある観音扉には長い金髪を結い上げた思いっきり軽薄そうな男が立っていて、全体を見ながら少しでも開いている席に学生を誘導している。彼は教授の助手役なのだ。上背がかなりある彼は人の波が途切れ始めた所で背伸びをすると、教壇に向かって大きく手を振った。すると教壇の脇から黒い髪を短く切り揃えた眼鏡の女性が颯爽と現れて、筋の通った背を折り曲げて軽くお辞儀をした。喪服かと間違うほど黒いパンツスーツに皺が寄る。
「大変お待たせ致しました。これより松永教授による講義を始めさせて頂きたいと思います。今しばらくお待ち下さい」
堅苦しい文句を言い終えた女性は再度お辞儀をすると、ちらりと視線を流して講義室の左脇を見た。前から五列目、左端の席。
つまり僕の座る席だ。
冗談半分で手を振って見ると、女性は鋭く僕を睨み付け、踵を返して教壇の脇に歩いて行ってしまった。飾り気の無い黒のヴァンプローファーが硬い足音を響かせる。入口に立っていた金髪の男がいつの間にか彼女の行く先で待っていて、壁に寄りかかり丈の長いブラウンのカーディガンをひらひらと揺らせて僕に手を振っていた。気の抜けた若い顔は苦笑している。僕は肩をわざとらしく落として見せると、彼は満足したように笑い女性と共に控え室に入っていった。
背もたれに寄りかかり一人黙って笑っていると、安っぽいチャイムが鳴り出し講義室が一層ざわめきで騒がしくなった。時計を見ると既に五十分を回っている。やっと講義が始まるのだ。僕はこの席を取るために昼食を十分で済ませて三十分前からここで待っていた。一つ開けて知らない女の子が座っていたのだが、席を探す四回生に頼まれて空けていた僕の隣に移っている。仄かに頬が赤いのはこの講義を心待ちにしていたからだろう。白のニットセーターを着ているのでびっくりするほど幼く見える。少々野暮ったいショートカットなのが残念だ。目はパッチリと大きく眉は形を整えるぐらいで殆ど手入れされてない。言ってしまえば僕の方が事細かに手入れやら何やらで気を使っているだろう。ついそう思ってしまい、僕は隠れて苦笑した。僕と比べたらこの子が可哀想だ。なんと言っても僕はプロのお世話になっているんだから。
「あ」
女の子は小さな声をあげて講義室の端、控え室の扉の方を見た。つられて僕も視線を向けると、先程の女性が一人の男性を連れて歩いて来ていた。ハリス・ツィードを着た初老の男性は、右手に持ったステッキを突いて女性の後ろを歩いている。短く揃えられた髪は灰を被ったように白く染まっているが顔はまだ若さを残していて、到底六十代とは思えない力強さに溢れている。右足を若干引きずるように歩いているが背は芯が通ったように伸びていて、しっかりとした身体つきから未だに体力は衰えていないようだ。シルバーフレームの眼鏡から柔和な視線を講義室に向けるとぐるりと見渡し、すぐに僕を見つけてにっこりと微笑んだ。流石教授だ。
松永教授が現れた事に気がついた生徒達は一斉に拍手を始め、講義室に割れんばかりの喝采が響き渡る。松永教授は微笑みを浮かべたまま教壇に立つと、左手にマイクを持って小さく一礼した。更に拍手が大きくなる。
「1961年。7月24日」
柔らかな、それでいて渋さと重さを持つ声が唐突にそう言うと、講義室は一瞬で静まり返った。松永教授は目を瞑ると深く息を吸った。
「この日、世界に先駆けてある法律がこの国に生まれました。第二次大戦から十六年。七十年以上も前の事です。この日公布された法律は世界的に見ても初めての試みでしたが、その後世界中で制定されていきました。憲法九条は残念ながら改正されてしまいましたが、この法律だけはだれも異論を唱えたことはありません。ただの一度もです」
講義室が静かに、だが確実に松永教授の言葉に浸食されていく。誰一人として音を立てないので、自分の呼吸の音がひどく大きなものに聞こえた。
「その法律は僅か二十三条からなる短いものです。ですが、その法律が与える恩恵は決して小さいものではありません。全ての国民に平和と安寧を与え、安らぎと、計りし得ない程の約束をしました。その法律の名前は」
声を切った松永教授は、ふと僕を見て微笑んだ。
「英雄法」
僕も松永教授に向かって微笑み返す。
「十五回しかない短い講義の時間ではありますが私は貴方達に英雄法について様々な事を教えたいと思います。二回生、三回生の方はどうかしっかりと学んで後学に生かして下さい。四回生の方は話半分で結構ですよ。就職活動に差し障りのないようにね。一回生の皆さんはあまり出ないように。遠坂先生にまた小言を言われてしまいますから」
講義室に軽い笑いが染み渡る。遠坂とはこの時間一回生が受けるはずの必修講義を教える教授の事だ。
「それでは講義を始めましょう。皆さんの知らない英雄法の素晴らしい役目と仕組みを。皆さんの将来に必ず必要となるでしょうから」
それは僕にもですか? と心の中で呟いて一人笑みを隠した。この中で今の言葉の意味を分かったのは僕を含めて片手に収まるぐらいの人数だろう。英雄法のもう一つの名前を知る、僕らだけが。
英雄のために作られた素晴らしき法。
隠されたもう一つの名は、悪役法と言う。
それは、国家規模で行われる壮大な一人相撲の顔。年間何十億を費やすヤラセ。
悪役と言う名の、隠れた英雄の法だ。