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【CHAPTER-01】Metastable State:準安定状態(2)

翌朝、11月25日、火曜日。08時00分の国旗掲揚(モーニング・カラーズ)を告げるラッパの音が海軍施設の空を渡る頃には、東京湾からの海風は前日よりも一段と冷え込んでいた。


第155棟、3階改修エリア。服装規定を完璧に遵守し、所定の睡眠とモーニング・ルーティンを寸分の狂いもなく遂行したにもかかわらず、内部プロセッサの微小な熱暴走は完全に冷却されたわけではなかった。執務室のスチールデスク最奥へ隔離したはずの未認可糖分が、物理的な距離を超え、見えない特異点のように意識の端を牽引し続けている。そして、その熱量の発生源となった事象は、いま、まさに彼の至近距離に実在していた。


薄暗いフロアの中央では、翔太と浩司が図面バインダーを広げ、オーリーを交えて本日の調査手順の最終確認をすでに開始している。二人の職人が放つプロの緊張感と、オーリーの淀みない技術確認の声が低く行き交うそのすぐ背後。大柄な浩司の分厚い背中の影で、小柄な女性が所在なげに爪先を揺らしていた。ヘルメットの顎紐を両手でせわしなくいじっては、兄たちの肩越しにこちらへ視線を投げかけ、視線が合いそうになると慌てて俯く。昨日、こちらの名乗りを遮って先走り、名前を聞きそびれてしまった非礼を、今すぐにでも謝罪したくてたまらない――そんな焦燥と気まずさが、全身から滲み出ていた。


初冬の冷え切ったコンクリート現場において、あまりに無防備で頼りないその佇まい。足元のわずかな段差ですら躓きそうな危うさを視界の端に捉え、ジャックの周辺警戒レーダーには微小なアラートが明滅を始める。


(――そもそも、この女性をこのような過酷な軍事制限区域へ同伴させること自体、安全管理上、重大なリスク要因ではないのか)


現場の殺伐とした空気と、小動物のようにそわそわと身を縮める彼女の存在。あまりに噛み合わないそのコントラストに、技術監理士官としての工学的な不安と、説明のつかない微かな苛立ちが胸の奥で混ざり合う。打ち合わせの声に耳を傾けるふりを装いながら、ジャックは深層の呼吸を律して乱れかけた心拍を規定値へ強制リセットし、ポーカーフェイスを張り直した。


なおもタイミングを計るように目を何度も瞬かせていた美和は、翔太たちの会話が一段落して図面をめくる手が止まった瞬間を見逃さなかった。意を決したように息を吸い込むと、浩司の背中の陰からひょこっと顔を出し、申し訳なさそうに眉尻を下げてぺこりと頭を下げる。


「あの……! 昨日からいろいろ教えていただいているのに、わたし、みなさんのお名前をちゃんとお聞きしていませんでした……! ごめんなさい」


唐突に投下された無邪気な申告に、張り詰めていた現場の空気がふっと緩む。いち早く反応したのは、間近にいたオーリーだった。手元のチェックリストを脇に抱え、眼鏡の奥の目を細めて柔らかな笑みを浮かべると、気負いのない親しみやすい日本語で口を開いた。


「そうでした。名乗ってなかったですね。僕はオリバー・サリバン少尉です。施設工兵(CEC)をやってます」


続いて、少し後ろで腕を組んでいたアーティーが、口元に優雅な笑みを浮かべて一歩前へ進み出る。知的で落ち着いたテナーボイスが静かに響いた。


「アーサー・ミラー大尉だ。第7艦隊情報部に所属している。……よろしく、Ms. Abe」


そして最後に、直立不動のジャックへ美和の真っ直ぐな視線が向けられる。至近距離から注がれたその瞳に、規定値へ戻したはずの心拍が再び乱れかけるのを力づくで封じ込め、感情を排したトーンで口を開いた。


「……ジャック・キャンベル海軍中尉だ。本工区の技術監理士官を務めている」


美和は真剣な表情で三人の顔を順番に見つめ、一生懸命に頭の中でその音節を反芻した。オリバー・サリバン。アーサー・ミラー。ジャック・キャンベル。日本の姓名順そのままに、最初に出てきた名前が名字だと思い込んだ美和は、満面の笑みを咲かせ、弾むような声で復唱する。


「覚えました! オリバーさん、アーサーさん、ジャックさん、ですね!」


完全なる沈黙が、第155棟の薄暗いフロアを支配した。


士官三名の思考プロセッサに、同時に瞬間的な処理遅延が発生する。公式任務下において、ファーストネームに敬称を連結する呼称体系など存在しない。まして目の前の彼女は、悪気など微塵もなく、彼らの下の名前を名字だと信じて礼儀正しく呼びかけているのだ。


言葉を失った三人の士官たちが生み出した異様な膠着状態を、怒号とともに切り裂いたのは次男の浩司だった。白ヘルメットの下で目を血走らせ、妹の前に荒々しく割って入る。


「姫! 男をそんな風になれなれしく呼ぶんじゃねぇ!」


その怒声が広いコンクリートの空間に轟いた瞬間、張り詰めていた現場の空気は完全にクラッシュした。叱責を食らった当人の美和は、まったく意味が呑み込めないといった様子で、目を丸くしてきょとんと首を傾げている。自分としては精一杯の敬意を込めて相手の名字を呼んだつもりなのだから、なぜ怒られたのか理由が1ミリも分からない。


一方、その怒声をまともに浴びた士官たちの思考は、それぞれまったく別の方向へ暴走していた。ジャックは、無防備な「ジャックさん」という特異点の出現に思考系が警告色に染まった直後、目の前の筋骨隆々な大男が実妹を「姫(Princess)」と怒鳴りつけたという強大なノイズに直面する。


(――姫……? この巨躯の男は、実の妹を日常的に「姫」と呼称しているのか……?)


いかなる海軍規律や数理モデルをもってしても解を導き出せず、直立不動の姿勢から一切の身動きが取れなくなる。その隣では、オーリーが眼鏡のブリッジを中指で押し上げたまま、完全な言語迷子になって固まっていた。「オリバーさん」と呼ばれた衝撃を味わう間もなく叩き込まれた「ヒメ」という単語。


(……ヒメ? 待ってくれ、ヒメって英語でなんだっけ。……プリンセス? えっ、あのアメフトの壁みたいな大男が、彼女を本気で「プリンセス」って呼んだのか……!?)


そして後方で腕を組んでいたアーティーは、彼女の無自覚な一撃からいち早く復帰していた。兄の怒声によって揃って応答を停止した三名のシュールな構図を俯瞰し、たまらず口元を片手で覆う。士官の威信をかなぐり捨て、肩を小刻みに震わせて必死に笑いを噛み殺していた。


一斉にパニック状態へ陥る中、翔太は持っていた図面バインダーで、美和のヘルメットの頭頂部をコツンと軽く小突いた。


「みー。アメリカ人の名前は、後ろが名字だ」

「……えっ?」


美和は小突かれた頭を両手で押さえながら翔太を振り返る。翔太は呆れたように片眉を上げ、淡々と妹の致命的な認識エラーを是正する。


「最初のがファーストネームで、下の名前。後ろのサリバン、ミラー、キャンベルがラストネーム、日本でいう名字だ。だから名字で呼ぶなら、『サリバンさん』『ミラーさん』『キャンベルさん』だろ」

「…………あっ!」


少しの間を置いてから、美和の表情が劇的に変化した。ぽかんと口を開けたまま思考の遅延を挟み、その目がみるみるうちに大きく見開かれていく。自身の盛大な勘違いの全貌を、ようやく理解したのだ。初対面の士官たちに向かって、いきなり下の名前を馴れ馴れしく呼んでしまったという事実に思い至るや、首の根元から耳の先にかけて、じわじわと沸騰するように真っ赤に染まっていく。


だが、ここで素直に間違えたと認めるのはあまりにも恥ずかしすぎる。美和は真っ赤になった顔のまま、慌てて両手をパタパタと振って翔太へと言い訳を繰り出した。


「そ、そうだった! 知ってたよ、知ってた! ちゃんと学校の英語の授業で習ったもん! ……ただ、その、ちょっとだけ、どっちが名前か忘れちゃってただけだもん……!」


間違えたのではなく、あくまで「うっかり度忘れしていただけ」だと全員に思わせようとする、あまりにお粗末で必死な誤魔化し。自分を取り繕おうと懸命に言い募るその姿は、周囲の大人の男たちから見れば、盛大にやらかしたことを自ら白状しているようなものだった。その下手くそな弁明に、翔太は「はいはい」とばかりに溜息をつく。そして美和は、誤魔化しきれていない空気を察していたたまれなくなり、恥ずかしさを隠すように両手で頬を挟み込んだ。


「……サリバンさん、ミラーさん、キャンベルさん……?」


上目遣いにはにかむその姿。


"Oh, come on, that's adorable……!"

(まったく、可愛らしいな……!)


見透かされているとも知らずに身を縮める仔犬のような無防備さに、オーリーは口元を手で覆って緩んだ口角を必死に引き締めた。その弛緩しきった部下の気配を横目で感知したジャックは、アイスブルーの眼光で冷徹な一瞥を突き刺し、無言の牽制を放つ。しかし、ポーカーフェイスを張り巡らせながらも、ジャック自身もまた敵機の照準器に真正面から捕らえられていた。直立不動の姿勢を死守しながら、首筋から耳元にかけてじわじわと熱が這い上がっていくのを止められない。


だが、美和のほうはいつまでも照れに甘えているつもりはなかった。深呼吸を一つ。赤くなった頬から手を離すと、今度こそ失礼のないように背筋を正した。両手を体の前で揃え、教わったばかりの名前を確認するように、三人の士官の目を順番に見つめながら丁寧にお辞儀を返していく。


「サリバン少尉さん」

「ミラー大尉さん」


それぞれ柔らかな笑顔と会釈を返してくれるのを見届け、美和は最後に、直立不動のまま微動だにしないジャックの正面へと立った。氷のように冷徹な眼差しを、一切の曇りのない澄んだ目で見上げる。「ちゃんとお名前を覚えました」という一生懸命な誠意を込めて、その名を呼んだ。


「キャンベル中尉さん」


両手を重ねてぺこりとお辞儀をした後、美和は満足そうに小さく微笑んだ。


その無防備な残響が鼓膜を震わせた瞬間、辛うじて均衡を保っていたジャックの系が、音を立てて臨界点を突破する。昨夜から高エネルギーを抱え込み、基底状態へ戻れぬまま危うい局所安定に留まっていた準安定状態の防壁。その脆弱な境界線へ、計算外の外乱が寸分の狂いもなく直撃したのだ。

キャンベル中尉、ではない。LTJG Campbell、でもない。……キャンベル中尉さん。いかなる海軍規則にも存在しない、敬意と親しみを込めた甘やかな響き。『Iceman』の完璧な装甲をいとも容易くすり抜け、心臓の真芯へ不可逆の熱量を注ぎ込んでいく。


「覚えました! もう間違えません。……それで、あの」


顔を上げた美和は、そんな士官の内的相転移など知る由もなく、くるりと振り返って背後のコンクリート壁を見上げた。先ほどまでの初々しい照れがふっと消え、現場の空気を肌で測るような、研ぎ澄まされた集中力がその瞳に宿る。


「今日は翔兄ちゃんから、『建物の音を聴いてみろ』って言われて連れてきてもらったんです。図面を直す前に、この建物がどこか痛がってないか、ちゃんと確かめなさいって」


その言葉を合図にしたかのように、背後から一歩前へ踏み出した翔太は図面バインダーを脇に挟み、冷徹な現場監督の眼差しでジャックたちを見据える。


「昨日の現調で確認した通り、この第155棟は築年数が経ちすぎていて、机上の構造図面と現場の実寸・応力に明らかなズレが生じている。海軍の測定器で数日かけてスキャンする前に、まずはこいつの『耳』で、躯体の内部欠陥の座標を洗い出させてもらいたい」


翔太の言葉に、隣に控えていた浩司が、身体を揺らして力強く頷いた。腕組みをした巨躯から放たれるのは、妹の耳に対する寸分の揺らぎもない絶対の自信。挑発的な鋭い視線を、士官たちへ真っ向から突き刺す。


「建物の……音、ですか?」


オーリーが興味深そうに眼鏡を直した。後方のアーティーもまた、腕を組んだまま値踏みするような視線を美和の華奢な背中へ向けている。そして、ジャックは沸騰した系から強引に熱量を逃がすように、肺の底から静かに息を吐き出した。彼女の放った外乱によって乱れかけた相転移を力づくで収束させ、冷徹な基底状態へと自己を立て直す。


「……非科学的なアプローチだな。合衆国海軍の改修プロトコルにおいて、構造欠陥の検知は最新鋭の非破壊検査器、および数理モデルに基づくべきものだ。人間の主観的な感覚器官で、躯体内部の不可視の歪みが特定できるというエビデンスは存在しない」


下降調の、感情を排した硬質な軍人トーン。しかし、翔太は鼻で小さく笑い、挑発するように片眉を上げた。


「なら、試してみればいい。キャンベル中尉、あんたの持っているその最新鋭の機械と、うちのみーの『耳』、どっちが正確にこの建物の悲鳴を拾えるか」


工務店の長男から叩きつけられた、現場の誇りを懸けた宣戦布告。その挑発を、後方で腕を組んでいたアーティーが面白そうに受け止めた。口角をわずかに持ち上げ、静かで艶やかなテナーボイスを滑り込ませる。


「……なるほど、完全な『ブラインド・テスト』というわけだね」


アーティーの指摘に、オーリーも眼鏡の奥の目を瞬かせ、ジャックの横顔へと視線を走らせる。親友から放たれたその科学的定義は、技術監理士官としてのジャックの逃げ道を完全に塞ぐチェックメイトの一手。


最新鋭の非破壊探査機材と厳格な数理論理を背負うエリート士官と、細身の打診棒一本を手に現場へ対峙する一人の女性技術者。冷え切ったコンクリートの殻の中で、前代未聞のブラインド・テストの火蓋が静かに切って落とされた。

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