【EPIGRAPH】
本作に登場する合衆国海軍の施設名称、公式プロジェクト名、および人物・組織・各種報告書の書式は、すべて公開された軍事・建築基準に基づくフィクションであり、実在するいかなる軍事機密・作戦計画とも関係ありません。
ジャック・H・キャンベルにとって、世界は常に古典物理学の冷徹な秩序そのものだった。
家柄、階級、空母の発着艦チェックリスト、そして操縦桿を握る手に伝わるG(重力加速度)の数値。
決まった入力を与えれば必ず計算通りの解が返ってくる予測可能な決定論。
計器盤とヘッドアップディスプレイに囲まれたF/A-18Eのコックピットにいる限り、心拍数すら一定に刻む『Iceman』の領域に、揺らぎが入り込む余地など万に一つも存在しなかった。
だが、阿部美和という存在を視界に捉えた瞬間、彼の宇宙の前提は音を立てて崩壊した。
彼女は、いかなる決定論の方程式でもその軌道を捉えきれない確率の雲だった。
ふわりと揺れる黒髪、作業着の袖口から覗く華奢な手首、何を考えているのか読めない無防備な笑顔。
彼女が自分をどう見つめているのか、柔らかな唇が次にどんな言葉を紡ぐのか。
照準器の精度をいくら極限まで高めても、位置を正確に捉えようとすれば運動量の揺らぎが発散し、運動量を測ろうとすれば位置を見失ってしまう。
ハイゼンベルクの不確定性関係そのもののように、彼女という存在は彼の知性の手のひらを軽やかにすり抜け、ただ甘やかな可能性の霧として空間を満たしていた。
(――彼女という光を受信するまで、私の世界は完全な均衡を保っていたはずだった)
ふと彼女が足を止め、くるりと振り返ってこちらのアイスブルーの瞳を真っ直ぐに見上げてくるとき。
黒曜石の瞳に自らの姿が映り込み、柔らかな唇が甘い上昇トーンで己を呼んだ、そのコンマ数秒。
決定的な観測の瞬間、空間に漂っていた無数の可能性の重ね合わせは、ただ一点の解へと残酷なまでに鮮やかに収束する。
散らばっていた光子が瞬時に焦点を結ぶように。
すべての確率が消滅し、ただ一人の女性へ意識の全座標が固定されるという、決して認めるわけにはいかない致命的な解が、網膜の裏側に鮮烈に焼き付けられる。
それは不可逆な相転移だった。
一度収束して確定してしまった系を、二度と観測前の重ね合わせに戻すことはできない。
その眼差しを真っ向から受信してしまった瞬間、超音速の世界でいかなるGにも耐え抜いてきたはずの防壁は無力化され、ただ彼女という唯一の特異点へ、事象の地平面を越えて不可逆のまま引きずり込まれてゆく。
解けないからこそ狂おしく、不確定だからこそ、一瞬の確定が息を呑むほどに美しい。
戦闘機パイロットにして物理学の徒が生涯をかけて築き上げた理性の砦は、たった一つの愛らしい量子変数の前で、軋みを上げ、静かにその絶対安全圏を明け渡していた。
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※【EPIGRAPH】は本作の世界観やテーマ性を象徴的にまとめた導入詩です。本編は【PROLOGUE】Condition Compromised:状態確定より始まります。




