エピローグ
深夜二時。
都市の喧騒が引き潮のように引き去った交差点に、冷たい秋の風が吹き抜けていく。
ビルの谷間に落ちる深い影の中、四角いキューブ型の自販機ブース――『クレイドル』は、今夜も変わることなく、澄んだ青白い光をアスファルトの上に落としていた。
無機質で、完璧な温度を保ち、音もなく循環する培養液の微かな振動だけを夜気へと吐き出している。
足元を、一枚の紙きれがカサリと音を立てて転がっていった。
昼間の抗議運動でばらまかれたビラの残骸。『命の尊厳を取り戻せ』『機械に母性は宿らない』という掠れた文字。
そのビラを踏みつけるようにして、首元までコートのボタンを留めた一人の女性が、足早に横断歩道を渡っていった。胸の奥に、かつて手放しかけた我が子の重みと、雨の夜に抱き上げた見知らぬ赤ん坊の体温を抱えたまま、彼女は一度も振り返ることなく暗がりへと消えていく。
入れ替わるように、白いブースのガラス扉を押し開け、二人の男女が中へと入ってきた。
互いのコートの裾を握りしめ、緊張で肩を強張らせた若い夫婦だった。
タッチパネルがふわりと柔らかな光を増し、穏やかなガイダンス音声が密閉された空間を満たす。
『ようこそ。希望する基本パラメータを選択してください』
二人は何度も話し合い、すり減るほど悩み抜いたであろう画面を、震える指先で見つめていた。
「……男の子でも、女の子でも、どっちでもいいよね」
妻が小さく呟き、夫がその肩をそっと抱き寄せる。
「ああ。健康で、笑って生きてくれれば、それだけで十分だ」
二人が選んだのは、高額な知能補正でも、華美な容姿のオプションでもない、最も簡素な標準シークエンスだった。
横断歩道の向こう、街灯の薄暗い光の下で、一人の男が立ち止まっていた。
首筋に古い第一世代のバーコードを宿し、数時間前に病室で母の冷えゆく手を看取ったばかりの大輔だった。
大輔は、ポケットに両手を突っ込んだまま、ガラス越しに見える若い夫婦の後ろ姿を遠くから静かに見つめていた。
憎しみも、怒りも、あるいは手放しの肯定すらもそこにはなかった。
あの箱から始まる人生が、どれほど残酷で、どれほど理不尽な偏見に晒されるかを知っている。
同時に、その箱から始まった命であっても、誰かの手で抱きしめられ、涙を分け合い、かけがえのない家族として生きていけることも、また知っていた。
『クレイドル』は、奇跡の福音ではない。
悪魔の呪いでもない。
ただ、人間が望み、人間が創り出し、人間が選び取るためにそこに置かれた、無機質なひとつの装置に過ぎない。
機械は人を愛さない。
機械は人を憎まない。
命に値段をつけるのも、仕様書に一喜一憂するのも、規格外と切り捨てるのも、すべてそれを使う人間の側の業だ。
ピピッと、決済の完了を告げる澄んだ電子音が夜の静寂に響いた。
ブースの奥で、重いシリンダーが静かにスライドする。
プシューという減圧音とともに、白いスチームが立ち上り、金属のハッチがゆっくりと開かれた。
小さな、小さな命の塊。
次の瞬間、ピンと張り詰めた夜の空気を切り裂くように、力強い産声が響き渡った。
「おぎゃあ、おぎゃあ――」
夫婦が息を呑み、涙を溢れさせながら、震える両手をその小さな身体へと伸ばす。
指先が触れ、肌が重なり、冷たい金属の上から、温かい人間の胸元へと命が抱き上げられる。
救いなのか、破滅なのか。
その答えを出すのは、この街角の白い箱ではない。
これからその体温を抱きしめ、夜泣きに怯え、傷つき、それでもその手を離さずに歩んでいく、人間の不完全な両手だけだ。
大輔はコートの襟を立て、ゆっくりと歩き出した。
背後で響く赤ん坊の泣き声を、冷たい夜風が優しく遠くへと運んでいく。
東の空の端が、ほんのわずかに白み始めていた。
街角の白い灯火は、今日もまた、新しく始まる命のすべてを無言で見つめ続けている。




