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いせこい

病弱な幼馴染を優先する夫を放置して実家に帰ったら、幼馴染本人が「実は健康すぎて暇だったから、奥様と一緒に遊びたい」と追いかけてきました

作者: 住処
掲載日:2026/07/06

「エレノア、すまない。今夜の晩餐会は一人で頼む。ヴィオラの頬が赤い」


 夫のアルバートがそう告げた時、私は広間に並んだ五十人分の席札を眺めた。


 燭台よし。料理よし。楽団よし。夫だけが消えるらしい。


 今夜はアルバートが王室馬政局の地方連絡役へ任じられたことを祝う晩餐会である。招待客には彼の上役も、近隣の牧場主も、父から紹介された商会主もいた。主役が幼馴染の頬を理由に帰宅するとは、なかなか斬新な趣向だ。


「ヴィオラ様はお熱が?」


「まだ測っていない。だが子どもの頃、あの赤さの後には必ず高熱を出した」


「今は六月ですわ。庭で薔薇を見ていらしたなら、暑かったのでは?」


「君は彼女の弱さを知らないから、そんなことが言えるんだ」


 知りませんとも。


 ヴィオラ様と会ったのは結婚式を含めて六度ほど。その六度すべてにアルバートが付き添い、冷たい風が来た、階段が長い、茶が濃いと先回りしていた。本人とまともに話そうにも、夫が会話へ割り込むのである。


 私が知っているのは、彼女がよく食べることと、庭の大型犬に引きずられても転ばなかったことくらいだ。病弱な方としては、腰が随分と強い。


「あなたの任命を祝う席ですのよ」


「分かっている。君ならうまく取りなしてくれるだろう。ヴィオラには私しかいないんだ」


 私にも夫は一人しかいなかったはずだが、今夜は欠品らしい。


「承知いたしました」


「助かるよ。君は丈夫だし、何事にも動じないから安心だ」


 アルバートは私の肩を軽く叩き、迎えの馬車へ乗った。


 丈夫で助かった。


 夫に置き去りにされても倒れず、五十人の客へ笑顔で詫び、遅れた料理を差し替え、楽団へ演奏時間の延長を頼める。ついでに夫の上役から、任命された本人はどこにいるのかと聞かれても、幼馴染の頬が赤かったので帰りましたとは答えずに済む。


 私は急な腹痛とだけ説明した。


 アルバートの腹が痛いかどうかは知らない。明日の朝、私が少し殴れば辻褄は合う。もちろん殴らない。淑女なので。


 晩餐会は成功した。


 成功させた。


 最後の客を見送ったのは夜半近くで、アルバートが帰宅したのは翌朝だった。


「ヴィオラは元気になったよ。やはり私がそばにいると安心するらしい」


「それは何よりですわ」


「晩餐会の方も問題なかったのだろう?」


「ええ」


「さすがエレノアだ」


 夫は満足そうに笑った。


 ああ、この人は何も見ていない。


 昨夜の私は、役目を果たすために一度も座れなかった。笑顔の裏で何度も恥を呑み込み、妻一人に客を任せた夫という評判を防いだ。それを説明すれば、きっと彼は言う。


 君ならできると思った。


 信頼と丸投げは、便利な男の口にかかると同じ言葉になる。


「アルバート。私、実家へ帰りますわ」


「ああ。夏至祭の頃だったか?」


「今日です」


「今日?」


「ええ。晩餐会も終わりましたし、急に決めました」


 アルバートは目を瞬いた後、困った顔になった。


「ヴィオラが落ち着いたばかりなんだ。今後また具合を崩したら、君にも手伝ってほしい。実家は秋でもいいだろう」


 どうやら私の予定まで、幼馴染の頬の色で決まるらしい。


「ご心配なく。ヴィオラ様にはあなたがいらっしゃいます。あなたにはヴィオラ様がいらっしゃる。私はいなくても問題ないでしょう?」


「何を怒っているんだ。私はただ」


「怒っておりませんわ」


 もう疲れたのである。


 怒りには、相手へ分からせたいという熱がある。私の中にその熱は残っていなかった。アルバートの失敗を隠し、欠席の理由を作り、馬政局への報告書を読み直す生活から降りたかった。


「昨夜、あなたの上役から預かった書類は執務机に置いてあります。期限は三日後です」


「君がまとめてくれないのか?」


「任命されたのはあなたですもの」


「しかし、これまでは」


「ええ。これまでは私がしておりました」


 そこまで言うと、夫は初めて少しだけ青ざめた。


 私が家を出ることより、書類が残されることの方が響いたらしい。分かりやすくて大変よろしい。


 昼前には荷造りを終え、侍女のメイと馬車へ乗った。


 持ち出したのは私物と、婚姻契約書と、私名義の帳簿だけだ。夫の仕事に関する控えは一枚も入れていない。馬車が門を出る時、私は窓から屋敷を振り返った。


 アルバートは追ってこなかった。


 まあ、そうだろう。


 ヴィオラ様の朝の散歩へ付き添う時間だった。


     ◇


 実家のダルトン侯爵家に着くと、父は何も聞かずに門を開けてくれた。


 母は私の顔を両手で挟み、痩せたと怒り、兄はすぐ客室を私の部屋へ戻すよう命じた。嫁いで二年経っても、窓辺の机には昔つけた小さな傷が残っていた。


 自分の部屋というものはいい。


 夫の幼馴染が咳をしても移動しないし、夫が書類を紛失しても机の引き出しを探られない。


「アルバート殿は迎えに来るのか?」


 夕食後、兄が聞いた。


「来ないと思いますわ」


「では、いつまでいる?」


「追い出されるまで」


「よし。一生いろ」


 兄の返事が早すぎて、私は久しぶりに声を出して笑った。


 ダルトン家では十日後に夏の馬術会を控えていた。各地の牧場主が馬を連れ、王室と騎士団の買い付け役も訪れる大きな催しだ。今年は父が腕を痛め、兄は領内の橋の修繕に追われていた。


 私は翌朝から帳簿と会場図を借りた。


 じっと休めと言われても困る。二年間も夫の仕事まで動かしてきたせいで、急に暇になると手足の置き場が分からない。ならば自分で選んだ仕事をする方がいい。


 厩舎の配置を変え、商人の区画を広げ、雨天用の天幕を追加した。馬車の入口と人の入口も分けた。前夜祭の席順を整えながら、夫の友人を上役より前へ置く必要がないことに小さな感動を覚えた。


 三日目、王室側の視察役が到着した。


 セドリック・ハルフォード辺境伯。


 若くして北部の広い領地を継ぎ、王室馬政監も務める方である。


 辺境伯は黒鹿毛から降りると、手綱を馬丁へ渡し、革手袋を片方ずつ外した。長身を包む黒い乗馬服にはひとつの乱れもない。鍛えられた肩から腰へ落ちる線は端正で、磨かれた長靴まで隙がなかった。


 風にほどけた灰銀の髪を長い指でかき上げる。すっと通った鼻梁に、意志の強そうな口元。深い青の瞳には冷静な鋭さがあり、厩舎の若い馬丁まで目が合っただけで背筋を伸ばした。


 顔立ちも整っている。


 そこは見れば分かる。見ないふりをするには、少々造形がよすぎた。馬から降りて手袋を外しただけで、近くにいた令嬢二人が揃って扇を開いたほどである。私には扇がなかったので、手元の図面を眺めることにした。


 辺境伯は会場を一巡すると、私が書き直した配置図へ目を落とした。


「この変更を考えたのは、あなたですか」


「はい。昨年は馬車と見物客が同じ門へ集中したと聞きましたので」


「騎士団の検分区画も広げてある」


「購入前の歩様確認に時間がかかるそうです。売り手の商談場所と離した方が、双方とも落ち着くかと」


 辺境伯は図面を見たまま、いくつか細かな質問をした。


 私が答えるたび、彼は頷いた。褒め言葉を重ねる人ではなかったが、説明を途中で遮らず、最後まで聞く。問いかける時は長身を少し屈め、私と目の高さを近づけた。低く落ち着いた声が自分だけに向けられると、答えを知っているはずの質問まで一瞬忘れそうになる。


 それだけのことが、妙に新鮮だった。


「当日の運営責任者として、あなたの名を記録しても?」


「私の名を?」


「成果を誰のものとして報告するか、先に確認しています」


 そんなことを確認する男性が、この世に存在したらしい。


「お願いいたします」


「では、正式な謝礼もダルトン侯爵家を通してお支払いします」


 思わず彼の顔を見た。


「何か問題が?」


「いいえ。順番が正しいことに驚いただけですわ」


 辺境伯は一瞬黙り、わずかに目元を和らげた。


「今までの雇い主は、随分と順番を間違えていたようですね」


「夫です」


「それは失礼しました」


 謝り方まで早い。


 ずるい方だなと思った。夫と比べるつもりなどなくても、勝手に差が積み上がっていく。


 その翌日、さらに驚く客が来た。


 昼前、見張り台から一頭の栗毛が街道を駆けてくるのが見えた。乗り手は淡い黄色の乗馬服を着た若い女性で、供の騎手を三人も置き去りにしている。


 栗毛は門前で勢いよく止まり、女性はひらりと地面へ降りた。


 ヴィオラ様だった。


 頬は赤い。確かに赤い。


 ただし熱病より、三時間ほど馬を飛ばしてきた人の赤さに見える。息も少し弾んでいるが、私よりよほど元気そうだ。


「エレノア様!」


 彼女は私を見つけると、両腕を広げて駆けてきた。


 私は身構えた。


 病弱な方が勢いよく抱きついてきた場合、支えるべきか避けるべきか分からない。悩んでいる間に抱きしめられた。強い。肋骨が少し鳴った気がする。


「やっとお話しできます!」


「ヴィオラ様、お身体は?」


「すこぶる元気です!」


 知ってた。


「アルバート様から、昨夜は熱を出されたと」


「庭が暑かっただけです。あの人、私の頬が赤いと言って晩餐会から戻ってきたんですよ。頼んでもいないのに!」


「まあ」


「お医者様にも診てもらいました。健康そのものだから、少しは運動を控えろと言われました」


 病弱から一足飛びに、健康すぎる人の注意へ移っている。


 ヴィオラ様は私の手を握った。


「エレノア様が実家へ帰ったと聞いて、追いかけてきました。実は健康すぎて暇だったから、奥様と一緒に遊びたいんです」


「遊びたい」


「はい。乗馬も遠乗りも舞台見物もしたいです。私、前からエレノア様とお友達になりたかったんですけれど、アルバートが療養中の私を疲れさせるなと、招待状を全部断ってしまって」


 初耳である。


「私からのお誘いも、体調を理由に断られていましたわ」


「私、何も聞いていません」


 二人で顔を見合わせた。


 何とも言えない沈黙が落ちた。


 夫は私を丈夫な妻として使い、ヴィオラ様を病弱な少女として囲っていた。片方を優先しているように見えて、どちらの言葉も聞いていない。


「アルバート様は、どうしてそこまでお身体を心配なさるのです?」


「私、七歳の時に肺炎で死にかけたんです。その時にアルバートが毎日見舞ってくれて。それからずっと、私を七歳だと思っているみたいで」


「現在のお歳は?」


「二十四です」


 十七年ほど情報が更新されていない。


「何度も元気だと言いました。診断書も見せました。私が結婚したいと言ったら、身体が耐えられないと縁談まで断られて」


「どなたとの縁談を?」


「アルバートの従兄です。今は別の方と婚約しました」


 声の最後だけが沈んだ。


 ヴィオラ様も奪われていた。


 私は夫に愛されなかった。彼女は夫から大切にされたように見えて、自分の未来を決める権利を取り上げられていた。


「まず、お茶にしましょう」


「はい」


「その後、馬術会の練習をご覧になります?」


 ヴィオラ様の目が輝いた。


「見るだけですか?」


「出たいのですか?」


「障害競走へ申し込んできました」


 健康すぎる。


 私たちはその日から、一緒に馬術会の準備を始めた。


 ヴィオラ様は馬の扱いに慣れていた。領地の厩舎で育ち、遠乗りなら一日でも平気だという。アルバートが来る日は散歩すら止められるので、彼が帰ると馬へ乗っていたらしい。


「咳は?」


「埃を吸うと出ます」


「私もですわ」


「ですよね?」


 人間だもの。


 メイまで交え、三人で町へも出た。ヴィオラ様は焼き菓子を四つ食べ、川辺まで歩き、帰宅後に障害競走の練習をした。夜にはカード遊びで私から銀貨を巻き上げた。


 この方の病弱さは、一体どの辺りにあるのだろう。強いて挙げるなら、勝負事で加減する心が弱い。


 馬術会の前日、アルバートから最初の手紙が届いた。


 報告書の書き方が分からない。馬の頭数が帳簿と合わない。上役から返事を求められている。至急戻ってほしい。


 私の体調を尋ねる言葉はなかった。


 返事も出さなかった。


 ヴィオラ様には七通届いていた。身体が心配だ、危険な馬へ乗るな、エレノアに無理をさせられているのだろう、迎えに行く。


「私の話、ひとつも聞いていませんね」


 彼女は七通をまとめて封筒へ戻した。


「迎えに来るそうですわ」


「では、今度こそ聞かせます」


 ヴィオラ様は明日の競走順が書かれた札を握り、にっこり笑った。


 あら怖い。


     ◇


 馬術会当日は、朝から抜けるような青空だった。


 広い草地には色とりどりの天幕が並び、騎士、商人、貴族、領民が行き交っている。王室馬政監の旗が上がると取引が始まり、私は運営台の上から人と馬の流れを確認した。


 入口を分けた効果は大きく、昨年のような混雑は起きていない。検分も商談も予定通り進んだ。


「見事なものです」


 隣へ来たセドリック辺境伯が言った。


「まだ一日が終わっておりませんわ」


「では、終わってからもう一度申し上げます」


「何をです?」


「あなたの仕事への評価を」


 辺境伯は当然のように答えた。


 胸の奥が、少しくすぐったくなる。


 そこへ入口の方から怒鳴り声が聞こえた。


「エレノア! ヴィオラをどこへやった!」


 主役の登場である。


 アルバートは旅装のまま人垣を割ってきた。髪は乱れ、目の下には隈がある。私が出てから十日ほどで、随分とやつれたようだ。


「ごきげんよう、アルバート」


「何がごきげんようだ。妻が家を放り出し、病身の女性を連れ回しているんだぞ!」


 周囲の視線が集まった。


 夫婦の問題を馬術会の真ん中で叫ぶとは、相変わらず催しを華やかにする才能だけはある。


「ヴィオラ様はご自分でいらっしゃいました」


「そんなはずはない。彼女の身体で長旅など」


 その時、競走開始を知らせる鐘が鳴った。


 草地の向こうから六頭の馬が一斉に駆け出す。先頭の栗毛には、淡い黄色の上着を着たヴィオラ様がいた。


 彼女は低い柵を越え、坂を駆け上がり、水濠の前でも速度を緩めない。栗毛と息を合わせて飛び越え、最後の直線で後続を引き離した。


 一着である。


 観客の歓声が上がった。


 アルバートは口を開けたまま動かなかった。


 ヴィオラ様は馬を預けると、賞杯を抱えてこちらへ来た。呼吸は乱れていたが、足取りはしっかりしている。


「ヴィオラ、何て無茶を! すぐ医者を」


「もう結構です!」


 彼女の声が草地へ響いた。


「私は健康です。三人の医師から同じ診断を受けました。馬にも乗れます。一人で旅行もできます。縁談だって自分で決められました。あなたが私を弱いと呼ぶたび、私は何もできない女にされるんです!」


「私は君を守ろうと」


「守る人は、相手の話を聞きます」


 きっぱりした言葉だった。


 アルバートが私を見る。


「エレノア、君が何か吹き込んだのか」


「今の言葉まで私のものにするおつもり?」


「君はヴィオラに嫉妬していた。だから私へ当てつけるために」


「私、奥様に嫉妬されたことなんて一度もありません」


 ヴィオラ様は賞杯を私へ預け、鞄から分厚い束を取り出した。


「これは私があなたへ渡した診断書の写しです。こちらは、奥様からのお誘いを私に知らせず断った手紙。こちらは、私の縁談を勝手に辞退した時の返書です。全部、父の書記に控えが残っていました」


 彼女の父君も、今回ばかりは娘の味方をしたらしい。


 アルバートの顔から血の気が引いていく。


「それは君の身体を思って」


「私のためと言えば、私の人生を決めてよいと思っていたのでしょう」


 周囲の貴族たちが囁き始めた。


 そこへ辺境伯が一歩進み出た。


 黒い上着の広い背が、アルバートの荒い視線と私の間へ入る。私を背後へ隠すほど近づかず、必要なら自分で前へ出られる距離を残した立ち方だった。


「アルバート・グレイ卿」


 低い声だけで、騒めきが静まった。厳しい横顔と、迷いなく私を守る位置を選んだ肩が目に入り、場違いにも胸が高鳴った。


 夫はようやく彼の存在に気づき、慌てて姿勢を正した。


「ハルフォード閣下。これは私的な問題で」


「馬政局へ提出すべき報告を十二日遅延させ、任命祝いの席から無断で退き、上役の照会にも答えなかった件は公務です」


「報告は妻が」


 アルバートはそこで口を閉じた。


 遅い。


「続けてくださいませ」


 私は促した。


「報告は妻が何ですの?」


「君がまとめていた」


「任命されたのはあなたですわ」


 辺境伯の従者が記録簿を開いた。


「過去半年、グレイ卿は幼馴染の療養を理由に九度の会議を欠席しています。提出文書はすべて同じ筆跡で、夫人が実家へ戻った日から一通も届いていない。局では、実務の担当者について調査を始めていました」


 九度。


 私が作った言い訳も九つ。


 そのたびに夫を守っているつもりだった。実際には、彼が責任を覚える機会を奪い、私自身の働きまで隠していたのだ。


「エレノア夫人」


 辺境伯は皆の前で私へ向き直った。


「今回の馬術会における配置、取引記録、騎士団との調整は、すべてあなたが担当したと報告します。王室側から正式な謝礼を支払い、次回の運営についても、あなたの意思を確認した上で依頼したい」


「光栄です」


 私の名が、私の仕事と一緒に読み上げられた。


 晩餐会では、夫の失態を隠すために笑った。今日集まった人々は、誰がこの場所を動かしたのか知っている。


 ようやく自分の足で立った気がした。


「グレイ卿は地方連絡役から外します。監査が終わるまで、局への出入りも禁じます」


「待ってください、閣下。妻が戻れば滞っている仕事も」


「戻りませんわ」


 私は婚姻契約書の写しを取り出した。


「配偶者の公的信用を損なう行為と、妻の財産または労務を本人の同意なく用いた場合、別居と財産保全を申し立てられる条項があります。昨日、教会裁定所へ申立書を出しました」


「たかが晩餐会を一度抜けただけで?」


「一度で決めたと思っているところが、あなたの問題です」


 私の誕生日を途中で抜けた夜。


 母が倒れた時、ヴィオラ様の診察を理由に馬車を貸さなかった朝。


 私が熱を出しても、君は丈夫だからと書類を枕元へ置いた日。


 何度話しても、彼は幼馴染には自分しかいないと繰り返した。


「あなたはヴィオラ様を優先していたのではありません。守る男性である自分を優先していました。私は、そのために働く妻だった。ヴィオラ様は、そのために弱くあるべき少女だった。もう二人とも、その役を辞めます」


 アルバートはヴィオラ様を見た。


「君まで私を捨てるのか?」


「私を最初に置いていったのは、あなたです。十七年前の病室に」


 夫は何も言えなくなった。


 歓声の消えた草地で、彼だけが立ち尽くしていた。


 私は婚姻契約書をしまい、ヴィオラ様へ賞杯を返した。


「優勝者の記念撮影が残っていますわよ」


「そうでした!」


 ヴィオラ様は晴れやかに笑い、私の腕を取った。


「エレノア様も一緒に写ってください」


「私、馬には乗っておりませんけれど」


「今日ここに来られたのは、エレノア様のおかげですから」


 彼女に引かれ、私は表彰台へ向かった。


 夫を振り返らなかった。


     ◇


 教会裁定所は二か月後、私とアルバートの離縁を認めた。


 私の持参金はすべて返還され、彼には馬政局の文書を私へ無償で作らせていた分の補償も命じられた。役職を失った彼は領地へ戻ったが、幼馴染の看病という名目も、仕事を仕上げる妻も、もういない。


 ヴィオラ様は父君と話し合い、自分で選んだ伯母の領地へ移った。そこで馬の育成を学び、月に一度は私の実家へ遊びに来る。


 健康すぎる彼女に付き合うには体力が必要だ。


 先月は湖まで遠乗りをし、今月は三日間の狩猟会である。来月は海を見に行きたいと言っている。夫に丈夫と褒められていた私でも、そろそろ休暇を申請したい。


「来年の馬術会も、あなたにお願いできますか」


 秋の終わり、セドリック辺境伯が正式な契約書を持ってきた。


 濃紺の外套に残った冷気を払ってから、彼は私の向かいへ腰を下ろした。今日は灰銀の髪を結ばず、額へ落ちた一房が深い青の目元をいつもより柔らかく見せている。差し出された契約書より、その紙を押さえる長い指へ目が行きそうになり、私は慌てて項目へ視線を落とした。


 報酬、権限、必要な人員、仕事の範囲が明記されている。最後の欄だけは空白だった。


「開催地ですか?」


「ダルトン領と私の領地、どちらでも構いません。あなたが働きやすい場所を選んでください」


 私の仕事が必要だと言いながら、私の居場所まで決めようとはしない。


「では、冬の間に一度そちらを見せていただけます?」


「もちろん。客室は南向きを用意します」


 セドリックはすぐに笑わなかった。私の返事を確かめるように見つめてから、張り詰めていた目元をゆっくり緩めた。


 笑うと、ずるい。


 普段の端正な厳しさがほどけ、私だけが特別にその表情を引き出したような錯覚を与えてくる。まだ仕事の話しかしていない。分かっている。分かっているのだが、胸にはまったく効いていない。


「私、南向きが好きだとお話ししましたか?」


「会場確認の際、日当たりのよい天幕から順に見ていたので」


 よく見ている方だ。


 夫は私を丈夫と呼び、何をしても平気な女にした。


 この方は私の好みを見つけても、勝手に決めず、選択肢として差し出してくれる。


「それから、ヴィオラ嬢も招いてよろしいですか」


「馬を三頭ほど疲れさせると思いますわ」


「六頭用意しましょう」


 辺境伯の声は真面目だった。


 私は笑い、契約書へ署名した。彼は私の名を目で追い、乾く前の文字へ触れないよう紙の端だけを丁寧に持ち上げた。


「お越しをお待ちしています、エレノア」


 初めて名前だけで呼ばれた。


 低い声に乗せられた自分の名が、妙に耳へ残る。顔を上げると、彼は返事を急かさず、ただ静かに私を見ていた。


 うーん。


 これは冬の視察だけで帰れるだろうか。


 夫を放置して実家へ帰った時、結婚生活から逃げただけだと思っていた。


 実際には、自分の名で仕事をする場所と、遠慮なく笑える友人と、私の答えを待ってくれる人のいる未来へ帰ってきたらしい。


 その未来で誰の隣を選ぶかは、もう誰にも決めさせない。


 ひとまず今は、健康すぎる友人から届いた、雪山へ行きましょうという手紙をどう断るか考えることにしよう。


 私も丈夫だが、限度はある。


お読みいただきありがとうございます!

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ヴィオラの親はなんで十七年も他人の言いなりになって娘の縁談まで潰してたんだ。家格の差か何か…?本家分家の関係とか?
アルバート・・・当然の結果だよ。 自分の仕事は自分でしないと。 信頼して任せると人任せは似ているようで違いますからね。 面白く読ませて貰いました。
とても面白かったです
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