1.言わぬが花
注意)冒頭にオーバードーズの表現があります。医薬品は用法用量を守って使用しましょう。
私は、所謂ブラック企業に入ってしまったのだろう。
「出水さん、明日の会議の資料宜しく」
渡されたファイルを受け取り、返事もそこそこにパソコンに向き直る。
時刻は既に21時を回っていた。定時で帰る上司から投げられた仕事は思ったより重かったらしく、全然進まない。
眠い。瞼が下がってくるが、コーヒーで誤魔化す。最後にちゃんとベッドで寝たのはいつだろう。そもそも、食事すらまともに摂れていない。固形物を食べたら確実に戻す。
あぁ、娯楽が欲しい。正しくは、娯楽の為の時間が欲しい。久しぶりに、学生の頃にハマっていたゲームがしたい。どうだろう、もうサービス終了してしまったかな。
そんなことを考える間も手はキーボードを打ち続ける。とにかく、早く終わらせて帰ろう。
数時間後、何とか終わらせてフラつく足で古びたアパートに帰った。何十時間もブルーライトを浴びていたせいで尋常じゃないくらい頭が痛い。
辛うじて部屋着に着替えて布団に横たわるが、どうも寝付けそうにない。
重い体を引き摺って台所まで行き、睡眠薬の小瓶と水を手に取る。何粒出したかは定かでない。取り敢えず、寝なければ、という一心で何度も錠剤を喉に流し込んだ。
布団に寝転ぶと、視界が暗転する。
そこから先の記憶はない。
◇◆◇
目を開けると、部屋が明るかった。カーテンは閉め切っていたはずだ。いくらオンボロアパートの擦り切れたカーテンとは言え、しっかり閉めていたならこんなに明るいはずはない。あの部屋の採光が悪いのもあるが。
それより仕事だ、と考える。この時間じゃ遅刻寸前だ。いや、もう始業時間かもしれないが。アラーム設定し忘れたのだろうか。
そこで、違和感を感じる。体が軽い。
起き上がっても節々が痛まない。関節も鳴らない。そもそも布団で寝落ちたはずだが、これはベッドだ。しかも上質な。
視線を下ろすと、まるで白魚のような手が目に入る。それに、垂れてくる長い髪は記憶と随分色が違う。ついにストレスで脱色したのだろうか、と小首を傾げる。
「……そんなこと、あってたまるか」
声もだ。最近はコーヒーを飲みすぎるせいでかなり掠れていたが、全くそんなことはない。健康体。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
でも、どうして。
オーバードーズだろうか。疲れで朦朧としていたから、何粒飲んだか覚えていないが、いつもより多かったことは覚えている。もしもオーバードーズしたなら、今頃は死んだか、運が良くて昏睡、というところだろう。
そして状況を鑑みるに。
「転生、かぁ」
見たことのない意匠の照明を見上げ、ポツリと溢す。
思ったより、すんなり受け入れられるものだった。前世に未練らしい未練が無いからだろうか。
あのまま生きていたところで、ブラック企業に使い潰されて自殺か、20代後半で過労死が関の山だろう。
今までにないほどの解放感に、口が緩む。
「もうあんな会社に行かなくていいんだ!」
両腕をグッと上に伸ばす。
実のところ、生きる為とは言え、あの無理な労働には辟易していた。当たり前だ。何せ朝8時に出社しても、帰りが日を跨ぐような会社だったのだから。
一頻り体を伸ばしたところで、ふと部屋を見渡してみた。鏡がある。しかも全身映る姿見だ。
裸足で部屋を横切り、鏡の前まで行く。
鏡を覗き込むと、緋色の右目と視線がかち合った。綺麗な色だ。宝石に縁は無かったけれど、例えるならルビーだろうか。
それにしても、この少女は前髪が長い。白銀の髪が、顔の左半分を覆っている。不思議に思ってその髪を退けてみて、その理由を理解した。
底無しの黒。
夜の闇を集めて凝縮したような、黒曜石のような左目。
「オッドアイってやつか」
確かに、これは隠したいだろうなぁ。
それにしても、この見た目。どこかで見たような気がする。
銀髪、赤と黒のオッドアイ。一度見れば忘れないような、特徴的な容姿。
「あっ」
一つ、思い当たった。思わずパチンと指を鳴らす。
『薄明の海』
それは、かつて一世を風靡したソーシャルゲーム。“薄明の海”とは、主人公が目指すべき目的地の名前だ。
友達に勧められて始め、学生の頃はかなりハマっていた。就職してからは、そんな余裕はまったく無くなってしまったけれど。
とにかく、凄いゲームだった。
オープンワールド型で、プレイアブルキャラクターと一緒に世界中を旅し、ストーリーを進める。
キャラクターデザインも良く、戦闘はターン制だからスピーディー。色々な国や都市があって、それぞれ実在の国がモチーフになっていたはずだ。
例えば“太陽の国ソレイユ”。
室内の調度品から察するに、恐らくここはソレイユだ。そしてモチーフはフランス。ゲーム内ではワルツ調のBGMが流れていた。
そして、ソレイユ出身の、銀髪オッドアイの少女といえば。
「アレクシア……」
作中で最も可哀想な扱いを受けたキャラクターと言っても過言ではない。プレイアブル化されることなく、大筋のストーリーが終幕したキャラクターだ。
「アレクシア……よりによって……」
鏡の中の少女は頭を抱える。
そう、作中でのアレクシアは幼い頃に家族に捨てられ、運悪く暗殺者に拾われ、そのまま暗殺の才能を開花させてしまった、作中屈指の不憫キャラ。ストーリー中盤で要人暗殺の濡れ衣を着せられ、退場してしまう不運な人物。
しかも冤罪だったとわかるのは、ある人物の家を訪れ、そこに置いてあった日記を読んでから。一部の考察勢を除き、プレイヤーからもずっと勘違いされたままだった、可哀想なキャラクターだ。
生前、私は結構アレクシアのことを推していた。でも、転生となると話は別だ。ここで死んだらどうなるかはわからないけれど、少なくとも前世の体に戻るのだけは嫌だ。
なら、ここで生き抜くしかない。
冤罪で中盤退場なんて、ごめんだ。暗殺なんてもっと嫌。
そう決意を固めたところに、ノックの音が響く。続いて、落ち着いた声音で問い掛けがあった。
「アレクシア? 入るわよ」
母親だろうか。とにかくベッドに戻らないと。
急いで、なるべく音を立てずに素早くベッドまで戻る。我ながら素晴らしいスピード。
ちょうど布団に潜ったところでドアが開く。危なかった。
「あら、起きたのね。体調はどう?」
「えっと……もう、良くなったみたい」
「そう? でも念の為、もう少し寝ておきなさいね。後でリオレを持ってくるわ」
「うん。ありがとう……お母さん」
「えぇ、いいのよ」
私の頭を撫でると、母親と思しき女性が退室する。異国の言葉なのに理解できるのは、頭の片隅に残っている記憶のおかげだろうか。多少の違和感はあれど、聞き取れる。
張り詰めていた息を吐いた。何故か、あの女性からは嫌な雰囲気を感じる。私が優しい母というものに慣れていないからだろうか。
けれど、いずれ私はあの人に捨てられるのだ。なるべく、怪しまれない程度に距離を置いた方がいいだろう。
それにしても、テーブルの上に置いてあるのは眼帯だろうか。普通の人にとってこの左目は気味が悪いだろうし、付けた方がいいんだろうな。隻眼での生活にも慣れないと。
それから数日が経ち、体調も回復した。この体の感覚にも慣れてきた頃だ。
「アレクシア、夕飯が出来たわよ」
母親、父親と共に食卓を囲む。和やかな雰囲気だった。彼らとは良い関係を築けていると思う。甘え過ぎず、遠慮し過ぎず。
……けれど、それは私の思い込みだったのだろう。
夕食の魚のムニエルを咀嚼した途端、舌先が痺れ始めた。
何だろう、と思って噛み続けるうちに段々と痺れは治ってきたが、疑問が残る。何だろう、これは。何が入っているのだろう。
ふと、口をついて出たのは。
「……あ、毒だ」
カチャン、と音がしたので視線を上げると、目の前に座っていた母親がフォークを取り落として口を覆うところだった。
やってしまった、と思った。
せっかく今日まで上手くやってきたのに。完璧とは言えないが、取り繕いながら、ちゃんと“娘”として振る舞えてたはずなのに。
「な、な……っ、どう、して……!!」
お母さんの肩が、わなわなと震える。
顔を上げた母の目には、ハッキリと“恐怖”が映っていた。
「どうして!? 致死毒って聞いたのに!!」
ヒステリックに叫ぶ母親を、父親が抱きしめる。私を睨みつける彼の目には、確かに嫌悪が込められていた。
「お……お母、さ」
「もう嫌……もう嫌ぁ! その“眼”で私を見ないで!! 気味が悪いの、出てって!! 早く!!」
母親の涙を拭う父親の目に、最早私は映っていなかった。そこにあるのは、しゃくり上げる母親を宥める優しい“夫”の姿であり、既に“父”ではなかった。
彼は私を虫でも見るように一瞥すると、その唇が微かに動いて言葉を紡ぐ。瞬間、目の前が真っ暗になるのと同時に内臓が浮くような感覚がして、私は家の外に放り出されていた。空は暗く、雲に覆われている。
「……魔法、か」
頭ではわかっていた。作中でアレクシアが退場する時、彼女は散々“忌み子”だの“呪われた眼”だのと罵られていた。当時はアレクシアの見た目が好きだっただけに、ショックだった。
わかっていた。アレクシアに転生したとわかった時から、家族に愛されるなんて、到底無理な話だと。でも、それでも。
「一度でいいから、『愛してる』って、言われたかったなぁ……っ」
ポロポロと、頬を涙が伝う。
何処ともわからない、人1人いない場所で蹲り、嗚咽を漏らす。
“私”は……
出水遥は、父親がいなかった。
どうやら父と母は結婚こそしていたものの、その仲は私が生まれる頃には冷め切っていたらしい。私が生まれてからすぐ、父は何も言わずにただ私物のみ持って家を出たそうだ。
兄弟はいなかった。ペットなど飼えたはずもない。
母は私に傾倒した。
「あなたは私を捨てないでね」
それが母の口癖……いや、呪いだった。
私にとって、母はただ1人の家族だった。
私は確かに母を愛していた。
けれど、母は時々、取り乱すことがあった。
「私が捨てられたのはお前のせい」
そう叫んで、私も殴ることも少なくなかった。そして我に返る度、私を抱き締めて「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣いた。
私が成人を迎えて、しばらく経った頃。
母は消えた。
『今までごめんなさい。もう遥に迷惑はかけません。』
そんな書き置きと僅かなお金を残して、母は綺麗さっぱり、私の目の前から消えてしまった。
母は最後まで、私に「愛してる」と言うことは無かった。
母の残した微々たるお金で、生きていけるはずもなかった。大学は通っていたが、中退し、そのまま企業に就職した。そこは最終学歴が高卒でも雇ってくれたから。それがあんな真っ黒だとは、思いもしなかった。
重苦しい空を見上げると、ポツリと雫が降ってきた。どうやら雨が降るらしい。
……今世こそ、愛されたかった。
偽りでもいい。ただ一言、「愛してる」と言って欲しかった。それだけで、私は救われたのに。高望みだったのかもしれない。私には初めからこの“眼”があった。気味の悪いこと、この上なかっただろう。
「ふ、うぅ……っ」
忌まわしい左目を抉ろうと、震える手で眼帯を外し、顔に爪を立てる。
けれど、出来なかった。
私は昔から、どれだけ苦しくても自分の体に傷を付けることだけは出来なかった。
臆病なのだ。
嫌われたくない。傷付きたくない。
そうやって、人との接触を、母とすら最低限にしたのに。
受け身のまま愛されようだなんて、なんて傲慢だったのだろう。
手から力が抜ける。
降り頻る雨に体温が奪われていく。
あぁ、お腹が空いた。
だけど、空腹には慣れてる。ご飯を抜くなんて、会社員時代に散々やったから。
そのうち、瞼が下がってくる。
死んでしまうのだろうか。それは嫌だな。
でも、もうなす術は無かった。
抗う気力も失せ、瞼が閉じると同時に体も傾く。そして水溜りに伏せた。
まだ、転生してから何週間も経ってないのに。
死ぬんだ、と最後に漠然と思って、私は完全に意識を手放した。
◇◆◇
「……ん?」
水溜りに、少女が蹲って横になっていた。
口元に手を当てると、微かに息がある。続いて首筋に指を当てると、こちらも弱々しいが脈を感じた。
しばらく考えた後、魔法を使って少女を水溜りから掬い上げる。服装は良くも悪くもなく、普通の少女、という感じだった。近くには眼帯らしき物が落ちている。
見たところ、この状態になってから然程時間は経っていない。だがこんな深夜に子供が外にいるとは、恐らく何か事情がある。
まぁ、目が覚めたら聞こう。
俺はそう考え、少女を連れて家に帰った。