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ほしのしずくが降る路地裏で

作者: 108

ようこそ、路地裏の小さな花屋『星の花』へ。


この物語は、過去の喪失を抱えたまま立ち止まっていた三人が、 星空と花、そして一枚の写真を通じて、 自分自身の「光」を取り戻していく再生の記録です。


夜の静寂、花の香り、そして遠くで響くシャッター音。 そんな柔らかな情景と共に、ひかりたちの恋と成長を見守っていただければ幸いです。


疲れた夜に、そっと心に灯をともすような一服の清涼剤になれますように。

駅前の雑踏から少し離れた路地裏に、その花屋はひっそりと佇んでいる。


古びた木の看板には、手書きの白い文字で「星の花」とある。 夕方五時。空が藍に沈み始め、店のガラス越しにオレンジ色の光が滲む。


「ひかり、そっちのガーベラ、もう少し右に寄せて」


「うん……こんな感じ?」


星野ひかりは、白いエプロンの裾を軽く払って笑った。 母が残したこの小さな花屋を、いまは彼女がひとりで切り盛りしている。


「完璧。やっぱ、ひかりのセンス、安定してるわ」


陽太ようたが軽く頷きながら、棚の花を整える。 同じ大学に通う幼馴染。学校ではムードメーカーだが、この店を手伝うときだけは、妙に静かで丁寧になる。


「陽太、今日も手伝ってくれてありがとう」


「いいって。俺、ここ好きだからさ」


ひかりが微笑むと、陽太は照れ隠しのように少しだけ視線を逸らした。 外では、通り雨がポツポツと降り始めていた。


「また雨か……。最近多いね」


「うん。でも、この音、わたし好き。屋根に落ちる音って、なんか安心する」


「……そういうとこ、ほんと変わんねぇな」


小さな店に流れる時間は、どこか懐かしくて、穏やかだった。


   ◆


その夜。 ひかりは閉店の準備を終えたあと、店の前でひとり、雨上がりの空を見上げていた。


空気が澄んで、星がよく見える。 まるで、遠い誰かが話しかけてくるような夜だった。


「……お母さん、今日も見てる?」


声に出した瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。 母を亡くしたのは二年前。その日から、ひかりは「星を見る」ことをやめられなかった。


と、そのとき――。


カシャッ、と背後から乾いたシャッター音が響いた。


「……え?」


振り返ると、店の前にひとりの青年が立っていた。 黒いフードを深く被り、肩には古びたカメラ。


「ごめん。光が、すごく綺麗だったから」


低く穏やかな声。 けれど、どこか切なさを帯びた響きがあった。


「……撮ったんですか? 私を」


「うん。星の花と君。まるで、同じ光に包まれてるみたいで」


青年は、雨に濡れた髪を軽くかき上げ、微笑んだ。


「怪しい人じゃない。ただ……旅の途中で、ふと立ち止まっただけ」


「旅?」


「うん。写真を撮りながら、いろんな町を回ってる。名前は――星影ほしかげはやて


ひかりは一瞬、言葉を失った。 “星影”。 偶然にしては、あまりにこの場所に似合いすぎていた。


「……星の花と、星影さん。なんだか、不思議な組み合わせですね」


「そう? でも、悪くない響きだ」


ふたりの間に、夜風が通り抜けた。 花の香りと、雨上がりの匂いが混ざり合って、淡い世界をつくる。


「これ、よかったら」


颯がカメラのモニターを見せる。 そこには、星明かりに照らされたひかりと、闇の中でぼんやりと光る花々が映っていた。


「……きれい」


「君の目に映る“きれい”を、もう一度撮ってみたい」


その言葉が、胸の奥でゆっくりと響いた。 初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい。 そんな抗いようのない感覚に、ひかりは包まれていた。


   ◆


「……星影、颯」


閉店後の店内で、ひかりは独り言のようにつぶやいた。 名前を口にするだけで、胸の奥がくすぐったい。


「ひかりー、帰んないのか?」


不意に店の奥から陽太が顔を出した。


「あ、うん。ちょっと考えごと」


「珍しいな。花の配置以外で考えてるの」


軽口を叩く陽太。けれど、彼はすぐにひかりの異変に気づいたように、わずかに眉を寄せた。


「……誰かに会った?」


「え? なんで?」


「なんとなく。顔、ちょっと赤い」


ひかりは慌てて両手で頬を隠した。


「ち、違うよ!」


「ふーん。まぁいいけどさ。明日、雨止んでるといいな」


陽太は軽く手を振り、店を出て行った。 その背中は、いつもの快活さが少しだけ欠けているように見えた。


――もし、またあの人に会えたら。 そのとき、私はどんな顔をすればいいんだろう。


ひかりは窓の外、夜空に瞬く一番星を見つめた。 それは、穏やかだった日常に、静かな波紋が広がった瞬間だった。



翌日の午後。 風がやわらかく吹き、花屋の前の通りには、柔らかな日だまりができていた。


「今日、空気が違うね」


ひかりは、窓際の花に霧吹きをかけながらつぶやいた。


「春の匂いってやつだな。市場から新しいチューリップも届いたぞ。色、見てみ?」


陽太が奥から段ボールを抱えて笑った。 中には、鮮やかなピンクとオレンジのグラデーション。


「わぁ……きれい」


「ひかりの好きな色だろ?」


陽太がそう言うと、ひかりは少しだけ頬を染めた。


「覚えてたんだ」


「当たり前だろ。小学校のころから一緒じゃん」


その言葉に、二人の間に短い沈黙が落ちた。 聞き慣れたはずの言葉なのに、今日は少しだけ、その裏にある陽太の体温が近いような気がした。


「……ねえ陽太、昨日ね――」


ひかりが言いかけた瞬間、ドアのベルがチリンと鳴った。


「すみません、また来ちゃいました」


静かな、けれど耳に残る声。 振り向くと、そこにいたのは――星影颯だった。


「……あ」


ひかりの胸が、小さく跳ねる。 陽太の目が、わずかに鋭くなったのを彼女は気づかなかった。


「昨日の……写真の人?」


「はい。すみません、突然。あの写真、渡したくて」


颯は丁寧に包まれた小さな封筒を差し出した。


「現像したんです。あのときの“星の花”と、あなたを」


「……ありがとうございます」


ひかりが受け取ると、指先から伝わる封筒の重みが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを教えてくれた。


「写真家さんなんですか?」


陽太が、少しだけ口を引き結んで言った。


「旅の途中です。ちゃんとした職業ってわけじゃないけど……見たままを、残していたくて」


「へぇ、かっこいいっすね」


言葉とは裏腹に、陽太の声にはわずかな棘があった。 颯はそれに気づいたように、寂しげに微笑んだ。


「かっこよくなんてないですよ。ただ……逃げてるだけです」


「逃げてる?」


思わずひかりが聞き返した。 颯は窓の外の遠い空を見つめ、ぽつりと言った。


「守れなかったものがあって。だから、撮ることで、自分をこの世界に繋ぎ止めているんです」


颯の瞳の奥にある、深い影。 それは、ひかりが亡き母を思って空を見上げるときの、あの孤独に似ていた。


「……あの写真、飾ってもいいですか?」


「もちろん。もし、そうしてくれたら嬉しい」


ひかりはカウンターの端に小さな額を置き、写真を入れた。 光に包まれた花屋と、ひとり立つ自分。 まるで、今まで知らなかった「私」がそこに映し出されているようだった。


   ◆


夕方、陽太は店の裏で鉢植えの片づけをしていた。 ふと、ドア越しにひかりと颯の楽しげな声が聞こえてくる。


「次は、どこへ行くんですか?」


「北へ。まだ見ぬ空を撮りに」


「そっか……」


ひかりの声が、わずかに湿り気を帯びて聞こえた。 陽太はその瞬間、手の中のプラスチック鉢をぎゅっと握りしめた。


(ひかり……俺は、どうすればいいんだ)


ずっと隣にいた。これからも隣にいるつもりだった。 けれど、昨日今日現れた「旅人」が、自分でも触れられなかったひかりの心の奥に、土足で、それも優しく入り込んでいく。


夜。店を閉めたあと、颯は去り際にふと空を見上げて言った。


「この町、星がきれいだね」


「うん。お母さんがよく言ってた。星は人の願いを覚えてる、って」


「……いい言葉だ。ひかりさんの願いは、なんですか?」


ひかりは一瞬、息を呑んだ。 星の光が彼女の瞳に映り、静かに揺れる。


「……誰かの心に、花を咲かせられる人になりたい」


「……。きっと、もう咲いてるよ。少なくとも、俺の中には」


颯は、いたずらっぽく、それでいて真剣な眼差しでそう言った。 ひかりの頬が、夜の闇でもわかるほどに熱くなる。


「じゃあ、行きますね。また……どこかで」


「はい。また」


颯が歩き去る背中を、ひかりは最後まで見送った。 その足音が聞こえなくなったとき、心の奥で、ひとつの想いが芽吹いた。


――また、会いたい。


そのすぐ後ろで、陽太が拳を握りしめて立ち尽くしていることにも気づかずに。



朝。 シャッターを開けた瞬間、ひかりはまだ冷たい空気に頬を撫でられた。


「おはよう、ひかり」


陽太が、いつものようにエプロンを肩にかけてやって来た。 けれど、その声はどこか低く、重い。


「……あの人のこと、考えてた? 星影って人」


ひかりは一瞬、返事に詰まった。


「うん……ちょっとだけ」


「やっぱりな。あいつと話してるとき、ひかり、顔が違うんだよ。目が、すごく優しくなる」


陽太の言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。 自分でも気づかないうちに、そんな顔をしていたのだろうか。 どう返せばいいのかわからず、ひかりは花瓶の水を替えるふりをして視線を逸らした。


(ずっと見てきたんだ。笑って、泣いて、頑張ってきたひかりを。俺が誰より知ってるはずなのに――)


陽太は心の中で呟き、拳を握りしめた。


   ◆


昼過ぎ。 ドアのベルが鳴り、あの穏やかな声が響いた。


「こんにちは」


「颯さん……!」


ひかりの表情が一瞬で明るくなる。陽太の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。


「近くで撮影してて。……実は、明日この町を出るんです。最後に、挨拶をと思って」


「え……?」


ひかりの動きが止まる。 心に灯ったばかりの小さな火が、急に吹き消されそうになった。


「今夜、丘の上で星を撮るつもりです。よかったら……最後に、また少し話せませんか?」


「はい。……行きます」


即答するひかりを、陽太はただ黙って見つめることしかできなかった。


   ◆


夜。店を閉めたあと、陽太は一人で花に水をやっていた。 そこへ、丘へ向かおうとするひかりが戻ってくる。


「陽太、まだいたの?」


「……ひかり。行けばいいじゃん。あいつ、喜ぶよ」


陽太は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「俺が変なんだ。ずっとこの場所にいることが、安心で……怖くもある」


「陽太……?」


ひかりが近づこうとした瞬間、陽太は絞り出すように言った。


「俺、たぶん……ひかりのこと、好きだから。ずっと言えなかった。でも、もう隠せない」


花屋の時計の音だけが、やけに大きく響く。 ひかりは呼吸を止め、立ち尽くした。


「ごめんな、こんな空気にしたくなくて。……でも、颯のこと、気になってるんだろ? だったら、ちゃんと見送ってこい。……行ってこいよ!」


陽太の精一杯の背中押しに、ひかりは何度も頷き、夜の道へと駆け出した。


   ◆


丘の上に着くと、そこには三脚を据えた颯がいた。 月明かりに照らされた彼は、どこかこの世のものとは思えないほど、透明で切なげだった。


「颯さん……!」


「ひかりさん。来てくれたんですね」


風が二人の間を通り抜け、星々が激しく瞬く。


「颯さんと出会って、毎日が変わったんです。儚さの中にある光を、あなたが教えてくれたから。……だから、行ってほしくないって思ったけど。でも、応援したいんです」


ひかりの声は震えていた。 颯はそっとカメラを下ろし、ひかりを真っ直ぐに見つめた。


「僕が写したかったのは、光そのものじゃない。人の心に灯る“希望”だったんだって、君を撮って気づけた。だから、僕はまたここに戻ってくるよ。……約束する」


彼はポケットから一枚の写真を取り出した。 そこには、柔らかな光に包まれて、誰よりも優しく微笑むひかりがいた。


「この夜の君が、僕の“原点”です」


「……ありがとう。待ってます。ずっと」


遠くで夜汽車の音が響く。 颯は一度だけ深く微笑み、そして夜の闇へと溶けていった。


ひかりは丘の上で、彼が残した写真を抱きしめた。 涙が溢れて止まらない。 けれど、不思議と胸の奥は温かかった。


空を見上げると、一筋の流れ星が夜空を横切った。 それは、新しい物語の始まりを告げるような、強い光だった。



颯さんが去ってから、数年の月日が流れた。


花屋「星の花」は、いまや町の人々にとって欠かせない場所になっていた。 店先には、ひかりが品種改良を重ねて育て上げた、青白く可憐な花が咲き誇っている。


名前は――『ほしのしずく』。


夜露を浴びて月光に照らされると、まるで星の欠片が地上に落ちたかのように輝くその花は、いつしか「奇跡を呼ぶ花」と呼ばれるようになっていた。


「ひかり、今日の分、全部ラッピング終わったぞ」


いつものように陽太が声をかける。 彼は大学を卒業したあとも、家業の合間を縫って店を手伝い続けてくれていた。


あの夜の告白のあと、二人は何度も話し合った。 いまの陽太は、ひかりの恋人ではなく、かけがえのない「親友」として、そしてこの店の共同経営者のような顔をして隣に立っている。


「ありがとう、陽太。……今日も、たくさんの人が来てくれたね」


「ああ。あの盲目の女の子、今日も『ほしのしずく』を触って笑ってたな。ひかりの言った通りだ。花は、言葉よりも優しく誰かを救うんだな」


ひかりは窓の外を見上げた。 そこには、颯から届いた一枚の写真が大切に飾られている。


「……颯さん、見てくれてるかな」


「見てるに決まってるだろ。世界中を旅して、一番綺麗なものを撮るって言った男なんだから」


陽太が茶化すように笑った、その時だった。


カシャッ。


聞き覚えのある、乾いたシャッター音が響いた。


ひかりの心臓が、跳ねるように脈打つ。 ゆっくりと振り返ると、そこには――数年前よりも少し日焼けし、けれど変わらない穏やかな瞳をした青年が立っていた。


「……ただいま、ひかりさん」


「颯、さん……」


ひかりの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。 颯は肩にかけたカメラを下ろし、満開の『ほしのしずく』と、ひかりを交互に見つめた。


「世界中を回って、たくさんの星や花を見てきた。……でも、やっぱりここが一番綺麗だ。君が咲かせたこの光が、僕をここまで連れ戻してくれたんだ」


颯は一歩近づき、震える指先でひかりの頬の涙を拭った。


「約束通り、もうどこへも行かない。君の隣で、この花が咲き続ける時間を、一生かけて撮り続けたいんだ」


ひかりは何度も頷き、彼の胸に飛び込んだ。 花の香りと、懐かしいカメラの匂い。 止まっていた時間が、いま、鮮やかな色彩を伴って動き出す。


傍らでそれを見ていた陽太は、少しだけ寂しそうに、けれど誰よりも晴れやかな笑顔で空を仰いだ。


「ったく、最高のシャッターチャンスだな」


その夜、空からは満天の星が降り注いでいた。 庭に咲く『ほしのしずく』が月光を吸い込み、銀色に光り輝く。


ひかりは、颯と陽太、大切な二人の手を取った。 母が教えてくれた「花は言葉よりも優しい」という教え。 それをいま、ひかりは自分自身の力で証明したのだ。


「私、幸せだよ」


ひかりの言葉に応えるように、一筋の流れ星が夜空を駆けた。 それは、過去の悲しみも、これからの不安も、すべてを祝福に変えていくような光。


星降る夜の花屋にて。 新しく開かれた物語のページには、もう、消えることのない光が描き込まれていた。


(完)

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。 『星降る夜の花屋にて』、これにて全編完結となります。


「目に見える光」を追い求めた颯と、 「目に見えない想い」を形にしたひかり。 そして、誰よりも近くで「変わらない愛」を注ぎ続けた陽太。


三人が選んだ道が、雨上がりの空のように澄み渡ったものであればいいなと願いながら、筆を置きました。


もし、この物語があなたの心に一輪の花を咲かせることができたなら、作者としてこれほど幸せなことはありません。


ここまで読んでくださった皆様の毎日にも、 どうか、優しい星が降り注ぎますように。


また、別の物語でお会いできる日を楽しみにしています。 本当に、ありがとうございました!


2025年 108

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― 新着の感想 ―
[一言] ロマンチック!女子の夢見る永遠のテーマ!ほしのしずくのアロマが売ってたら買いたいなぁ♡
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