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お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた  作者: 糸
1st season 契約婚ことはじめ
9/70

五 旦那さんとはじめてのキス (2)

 帰宅するまえに近くのクリーニング店に寄って、数日前に出しておいた喪服を受け取った。つぐみのワンピースと葉の黒スーツだ。葉はそれまでスーツも喪服も持っていなかったので、つぐみの祖父が若い頃使っていたスーツを仕立て直すことにした。幸い、つぐみの祖父は長身だったので、袖丈や裾丈を少々調整することで葉でも着ることができた。

 荷物を抱えたところで、思い出してスーパーでキュウリとナスを買って帰る。どちらも一本ずつ。あしたから三日ほど留守にするので、冷蔵庫はもっぱら総整理期間中だが、これだけはほかで代用できない。


「つぐみさん、ただいまー」


 離れで制作しているつぐみにも聞こえるよう声をかけ、クリーニング店で受け取ったワンピースとスーツをハンガーごと鴨居にかける。夕飯用のカレーは今朝バイトに出かけるまえに作っておいたので、あとは素揚げ用の野菜を用意して火にかけるだけだ。

 キュウリに割りばしを刺して皿にのせると、葉は縁側から庭に下りて、あかむらさき色の禊萩みそはぎの花を数本摘んだ。籐籠とうかごにガラス製の器がついた花瓶に生けて、キュウリの馬のとなりに置く。

 こういうことを葉に教えてくれたのは、運送会社で働いていたとき、葉を家に置いてくれた所長夫妻だ。あの頃は前の会社の雇止め直後で、家賃が払えずアパートを追い出されて、公園のたこ型遊具で暮らしていたら、犬の散歩で通りかかった所長が葉を拾ってくれたのだ。葉が二十歳のときに、所長が心筋梗塞で倒れて店を畳んだため、一緒に暮らしていたのは一年程度だったと思うけれど、よいひとたちだった。葉の素性を知っても、解雇しないでくれたし。


「つぐみさん、ごはんできたよー」


 離れの制作室に向かい、つぐみが手を休めたのをみはからって声をかける。

 二曲一双の曼殊沙華画を描き上げて以来、つぐみは日がなぼんやりしている。長椅子のうえで積んでいた本や画集のページをめくっていたり、かと思えば、庭の百日紅さるすべりや家事をする葉をスケッチしていたり。

 葉はつぐみと仕事の話はしないのでわからないけれど、鹿名田つぐみに描いてほしいという依頼は絶えないはずだ。前に二年先まで予定が埋まっている、と鮫島がほくほくと言っていたことがある。何もすることがないというより、次にすることのために神経を研ぎ澄ませて何かを待っている。着想を得て、本格的な制作期間に入ったつぐみはさらに神経が針のように鋭敏になっていくので、それに比べればいまは比較的まどろんでいる状態のはずなのだけど。


「カレー?」


 台所にやってきたつぐみは、お鍋をかき回している葉を見て尋ねた。


「うん、素揚げした野菜をのせて夏野菜カレー。半熟卵もあるよ」


 まえに半熟卵をカレーにのせることを教えたとき、つぐみは中華まん同様、これは神の食べものか?という顔をした。以来、カレーをつくったときはいつも半熟卵も用意している。

 つぐみはぺたぺたと素足で葉にちかづいてきて、後ろから葉の腰に手をまわした。クーラーをかけていたのか、つぐみの身体はひんやりとつめたい。またいつもの「かきたい」が来るのかな、と葉は思ったが、つぐみは葉の背に額を押し付けているだけでなにも言わない。学校でいじめられて帰ってきた妹が(たくさんいるうちのひとりである)無言でくっついてくるときに似ていた。


「どしたの?」


 火を止めて身体をひねると、「うん」とつぐみが言った。


「クーラーかけて寝てたら冷えた」

「だから、ブランケットかけてっていつも言ってるじゃーん」


 比較的まどろんでいる期間のはずであるつぐみは、近頃、日に日に張り詰めてきている。

 はじめはまた制作期間に入りかけているのかと思ったが、すこし見ていて、ちがうらしいときづいた。つぐみは祖父の法事に向けてどんどんと張り詰めていっている。神経を研ぎ澄ませて、すこしの綻びもゆるさないように鎧をまとって、そしてときどきひどく疲れている。


「……ごはん食べる?」

「うん。久瀬くん」


 つぐみはノースリーブのワンピースを着ている。つめたくなった肩を手で擦っていると、ようやく顔を上げて腕を解いた。


「ごはんのあと、あしたの作戦会議しようね」


 作戦会議とくるか。

 あした向かう場所は敵陣か何かなのか?と葉は思う。

 温め直したカレーに素揚げした野菜と半熟卵をのせ、あとは余っていた野菜を突っ込んだスティックサラダをふたりで食べる。夜になって気温が下がったので、扇風機だけをかけて、窓はあけている。蚊取り線香の香りが風にのって時折鼻先をかすめる。


「そういえば、つぐみさん」


 半熟卵を崩しているつぐみに葉は口をひらいた。


「久瀬くんって呼び方だいじょうぶ? 俺はべつになんでもいいけど、ふつう旦那さんを旧姓では呼ばないんじゃないかなあって」


 鹿名田本家に対して、つぐみは「モデルの男にうつつを抜かして結婚までした放蕩娘」という設定で絶縁されている。実際は3000万円の金銭契約による結婚なのだが、「うつつを抜かした」わりには「久瀬くん」は他人行儀な呼び方というか。


「でも、久瀬くんは久瀬くんだし……」

「帰省中だけでも下のなまえで呼んでみたら?」

「――葉くん?」


 急に慣れない音の並びが返ってきて、葉はカレーを詰まらせかけた。

 なんだろう、如月も花菱も鮫島も、なんなら近所のクリーニング屋のおばさんすらおなじ呼び方をしているはずなのに、つぐみが言うと破壊力があるというか。


「葉くん、葉くん、葉くん」


 覚え込むようにつぐみは練習している。


「いや、そんながんばらないでいいけど……。何かこだわりあった? 呼び方」


 葉はつぐみをはじめは「鹿名田さん」、そのあとは「つぐみさん」とか「つぐちゃん」とか「奥さん」とかそのときの気分で呼んでいる。つぐみは最初から一貫して「久瀬くん」と呼んだ。それ以外の呼び方はまちがえだとすら言いたげな徹底ぶりだ。


「葉くんには言いたくない……」


 ばつがわるそうに目をそらしてつぐみがつぶやく。

 そう言われると余計気になったが、「そ、そっか」とうなずき、葉はカレーをスプーンですくった。つぐみは葉の雇用主なので、つぐみが言いたくないと言ったことを無理に聞き出すなんてもってのほかだし、実際、葉は呼ばれ方にこだわりはないので、「葉」でも「ヒモ」でも「久瀬くん」でもなんでもよい。

 カレーを食べ終えると、葉は洗いものをはじめた。つぐみはもちろん手伝わない。でも、ひとり離れに戻ったりもしない。

 そういえば、ごはんのあとは「あしたの作戦会議」だったか。皿を片付けると、葉は冷蔵庫から瓶入りの塩サイダーを二本取り出し、縁側でキュウリの馬をつついていたつぐみに一本を渡した。


「久瀬くん。キュウリが落ちてる」

「いや、つぐちゃん、それキュウリのお馬さんだよ」

「え、馬?」


 つぐみはつついていたキュウリをまじまじと見つめた。

 いちおう足っぽく割りばしを四本刺したつもりなのだが、刺し方が適当だったせいで、ただ割りばしを刺したまま落ちているキュウリになりさがっている。

 つぐみは軽やかな鈴のような声でわらいだした。


「久瀬くん、ぶきっちょだね。梅のヘタとりはうまいのに」

「ひとには得意と不得意があるんだよー」

「そうか、今日は迎え火なんだね」


 迎え火といううつくしい言い方をつぐみはした。

 この家は去年亡くなったつぐみの祖父が愛人を囲うためにつくった家である。していたことは褒められた話ではないかもしれないけれど、つぐみは鹿名田の家のなかで唯一、この祖父だけを慕っていたらしい。祖父もつぐみのことをかわいがっていて、数年前、つぐみにこの家を贈った。鹿名田で息ができなかった彼女のためのシェルターのような場所だった。


「どうして迎えるときはキュウリなのか、つぐみさん知ってる?」


 ふぞろいな足を刺し直してあげているつぐみのとなりに葉は座った。


「知ってるよ。迎えるときは馬ではやく走って、送るときはゆっくり牛にのってもらうの」

「ナスも買ってきたから、帰ってきたら作ろうね」

「……久瀬くんのご両親も戻ってきてる?」


 キュウリの馬を板敷のうえにそろそろと立たせながら、つぐみが尋ねた。


「んー、どうかなー」


 倒れそうになった馬を葉は手を添えて支える。

 重心をすこしずつずらすと、やがて馬は自立した。


「来てないと思うよ。大丈夫」


 馬は一頭しか置いていないし、つぐみの祖父で定員オーバーだろう。

 塩サイダーを片手にあしたの作戦会議をふたりでする。鹿名田本家に滞在する期間は三日。ちなみにつぐみには両親のほかにふたつ下の妹がいるらしい。なまえを訊くと、「ひばり」と固く俯いたまま答えた。それ以上、つぐみが話したくなさそうだったので、ひばりの話はやめておいた。どうせあした会えば、わかることだ。


「ところでつぐちゃん」


 作戦会議がひと心地ついたところで、葉はおそるおそる切り出した。


「あの、こんなときになんだけど、例のキス……なんですけど」


 ほんとうにこんなときにどうかと思うのだが、つぐみの「キスして」の履行期限が今日なのである。つまり、「諸事情により履行不能の場合は、理由を明示したうえ、三十日以内に申し出」なければならないのである。


「ああ、あれ」


 緊張して切り出したのに、つぐみの反応はそっけなかった。


「いいよ、べつにもう」

「えぇ……」

「わたしも忘れてたし」


 葉から目をそらしながらつぐみがつぶやいた。

 べつに葉は忘れていたわけではなく、どうしよう……と三十日間悩んでいただけなのだが、「わたしも」と言われてしまうと、言い出しづらい。え、じゃあ、やめたほうがいいのかな、と考えていると、


「久瀬くんがしたいならいいけど」


 ぽつっとつぐみが言った。

 葉と逆の方向に顔をそむけているので、表情が見えない。長い黒髪からのぞいている耳の端がすこし赤い。なんだろう、なんというかこれ、覚えているよね? 勘だけど。忘れたひと、こういう態度とらないよね? 勘だけど。

 葉はサイダーの瓶を置いて、濡れ縁にしゃがみこむようにした。


「つぐみさんがやじゃないなら」

「……久瀬くんがやじゃないなら」


 女の子むずかしいな!?


「き……」

「き?」

「如月じゃないから、いやなのかもしれないけど、」


 つぐみがごにょごにょつぶやいている最中に、こめかみにくちづけた。

 汗の香りがわずかにした。おなじ箇所にもう一度くちづけた。

 言葉を止めたつぐみがちいさく震えだしたので、はじめ葉は怒られるのかと思った。しゃべっている最中にするなとか、場所がそこじゃないとか。でも、のぞきこむと、つぐみが顔を真っ赤にして震えていたので、ぽかんとしてしまった。


「……ねま、寝ます」


 つぐみはいきなり丁寧語を使って、すっくと立ちあがった。


「あ、ああ、はい、おやすみなさい」

「おやすみなさいっ」


 つられて丁寧語になりつつ、走り去っていくつぐみを見送る。

 濡れ縁にはつぐみの塩サイダーと、傾きかけたキュウリの馬、そして葉だけが残される。つぐみが視界から消えるに至って、「うわー……」と葉は柱に寄りかかった。はずみについに馬が倒れた。こまった。心臓が痛い。

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