ひばりと律 Ⅱ (3)
駐車場からすこし歩くと、まるで青い海のような花畑が遠目に見えてきた。
「わあ……!」
ポスターでも見ていたけれど、風に吹かれて揺れるネモフィラは波が立つ海原のようでうつくしい。白のロングワンピースをひるがえして、「律、律」と男の腕を引く。
「すごい。ほんとうに海みたいじゃない?」
ついはしゃいだ声を上げて振り返り、思いがけずやさしい眼差しにきづく。
「な、なによ」
「いや、気に入ったならよかった」
「選んだのはわたしだけどね」
いつもの調子を保ちたくて、つんと顔をそむけて悪態をつく。
律はうすくわらった。
「ひばりさんはセンスがいいですね」
「でしょう。気晴らしになりましたか、婚約者さん」
「ああ」
「今日はえらく素直なのね」
「俺はいつも素直だろう。ひばりさんが素直じゃないだけで」
ん、と大きな手を差し出され、おずおずとそのうえに手を重ねる。
そういえば、手をつないだこと、あまりなかった。
外ではもう十年も婚約者としてふるまっているくせに、手をつないだこともほとんどないのだった。前に律とつないだとき、自分がいくつだったのか、もしかしたら小学生ではなかったか、そんなことも思い出せない。ひさしぶりにつないだ律の手は骨ばっていて大きくて、そわそわした。
「なんだか恋人みたい」
「ほぼ似たようなもんだろう」
「律は恋人じゃないよ」
「へえ。じゃあ、なに?」
「仕事相手」
「……おまえはいつもそれだな」
律は軽く嘆息して、指を絡め直した。
こういうとき、腹を立てて手を離してしまわない律がすごいとすこし思う。ひばりは昔から結構、律のプライドとか尊厳を傷つけるようなひどいことをたくさん言っているけど、律は不機嫌そうだったり不満そうだったりはするものの、ひばりを怒ったりなじったりはしない。
どうしてだろう。律はどうしていつもひばりにつきあってくれるんだろう。ここに連れてきてくれたのだって、ほんとうに仕事の息抜きがしたかったからなんて、さすがにひばりも思っていない。ひばりの誕生日祝いに予定をあけてくれたのだ。それは婚約者の仕事のうちだろうか。
「ひばり?」
歩みが遅くなったひばりを怪訝そうに律が見やる。
表情が揺れてしまうまえに、無理やり笑みをのせた。
「律。見て、あの犬ぶさいくじゃない?」
散歩している雑種犬を指して、「かわいいー」と頬をゆるめる。
「おまえのかわいいは、いつもおかしくないか」
「そう? かわいいよ。ぶさいくで」
つないだ手を引っ張って、歩きだす。
青い花畑は小高い丘になっていて、ゆるやかな散策路に沿って歩くことができる。遠目に観覧車が見えて、「乗りたい」とひばりが言うと、「いやだ」と律が即座に却下した。あまり弱点がない男だが、高くて狭いところなのだ。
「観覧車、ふつうは乗るでしょ。だって婚約者だよ?」
「ひとりで乗ってこい。地上で待っていてやる」
「そんなひどいことある?」
「あと、婚約者だからって観覧車には乗らない」
「わたしの婚約者はロマンスがないなあ」
観覧車の券売機のまえでしばらく押し問答したが、律がほんとうにいやそうなので、かわいそうになってやめた。代わりにソフトクリームを買ってもらって、ベンチに並んで座る。丘の途中にあるベンチからは、波打つ青い花群れが見渡せた。ついスマホを起動して写真を一枚撮る。
「めずらしいな」
アイスコーヒーを脇に置いて、律が言った。
「おまえが写真を撮るなんて」
「きれいな場所を見つけたときは、ねえさまに送るの」
「へえ」
「おいしいものを食べたときも、ねえさまに送っているの」
「そうか」
保存をかけると、ひばりはスマホを鞄にしまった。
「ひばり」
食べ終えたソフトクリームの包み紙を折っていると、律がすこし落とした声でひばりを呼んだ。
「うん?」
「結納、べつに先に延ばしてもいいんだぞ」
その声と表情で、ふいに律は今日この話をするためにひばりを連れ出したのではないかと思った。穏やかだった空気がざわめき、さあっと音を立てて血の気が引いていく。
「……なんで?」
「まだ大学一年生だろうおまえ」
「意味がよくわからない」
ひばりは来年二十歳になる。
すこしまえにおばあさまは隠居し、鹿名田本家の当主である父親は、これまでは連れて行かなかったような会合にもひばりを伴って出席するようになった。おばあさまやおじいさまに比べて、自分の両親はあまり出来がよくない。分別がつく年齢に達したとき、ひばりは冷静に自分の両親をそう「採点」した。わたしはそのうち、このひとたちから鹿名田の実権を握っていかなくてはならない。鷺子もそれを見越して、退いたのだ。
「そんなに急いで大人にならなくていい」
「わたしは大人だよ」
むしろ、これまでひばりを子どもだと思っていたのなら驚きだ。そして、ひどい侮辱でもある。律だけは、ひばりの血と汗と泥の価値をわかっていると思っていたのに。
「ずっと昔に子どもはおしまいにしたの。律はわからないの?」
「知ってるよ。あのときは守れなくて、かわいそうなことをしたって思ってる」
守れない。かわいそう。
ひばりは愕然とした。
「……わたしのこと、ばかにしてる?」
引いたはずの血の気が今度はかっとのぼってくる。
「律、あんたはわたしをかわいそうだってそう思っているの?」
「ひばり」
律は苦みを帯びた表情でひばりを見た。
いつもはたやすく操作できるはずの声が上擦っている。思った以上に自分が動揺していることにきづいたけど、もう止められない。
「わたしを、鹿名田の家に生まれたわたしを、ねえさまの代わりをさせられたわたしを、婚約者もねえさまのおさがりをただもらったわたしを、かわいそうだって、あんたそう思って見ていたの?」
だったら殺す、と思った。
ほんとうにそう思った。
律は十歳も年下のひばりをいつも対等に扱ってくれた。
子どもだって甘やかさないで、見くびらないで、ちゃんと仕事相手として扱ってくれていると思っていた。でも、ちがったのか。ほんとうはかわいそうに思っていたのか。憐れんでいたのか。それはひばりに対するひどい裏切りだ。
「ちがうよ、ひばり」
律は静かに言った。
「おまえはいつもひとりで闘って、がんばっている。尊敬してる。でも、大学の数年くらい、つぐみとのんびり茶をしてたっていいだろう」
「律が言っていることがわたしにはよくわからないよ」
「俺は今すぐおまえと結婚しなくてもべつにいい」
頭に血が上ったと思ったら、また冷えてくる。
今度は芯から凍えるつめたさだった。
「……いやなの?」
「は?」
「わたしと結婚するのがいやなの? ほかにすきなひとができた?」
律は理解をしかねるような顔をした。
「どういう――」
「いいけどべつに」
直視しているのがこわくなって視線をそむけつつ、早口になって言った。
「はじめから律とはそういう約束だったし。よそで子どもさえ作らないなら、律は誰を好きになってもいいよ」
おばあさまもそれをおじいさまにゆるした。
鹿名田の家を守ってさえくれるのなら、愛するのはわたしじゃなくていい。
外に大切な誰かがいてもいい。
おばあさまを真似して幼い頃の自分はそう律に持ちかけたけど、いざこの歳になって同じことを口にすると、急に不安になってくる。律がよそでおじいさまのようにほんとうに愛したひとを囲っていたら、ひばりはおばあさまのように泰然としていられるだろうか。おばあさまはどうやってそれをおじいさまにゆるしたのだろう。どうやって……。
「なんでそうなるんだ……」
律はこめかみを押さえ、疲れたふうに息をついた。
「だって、律が急にへんなこと言い始めたんじゃない」
「俺は結納の時期をずらすって話をしただけだ」
「だから、どうしてそんなことを言うの?」
「……言わないとわからない?」
「わからないよ」
言い張ると、律はすこし考え込むようにしてからひばりに目を合わせる。
「なら言うけど」
まっすぐ向けられた眼差しで、本気だ、と思った。
背中につめたい汗が滲む。律が口をひらくまえに、思わず手で口を塞いでいた。
「やっぱりいい」
「なんで」
「いいよ、言わなくて。べ、べつに律のプライベートなんか興味ないしっ」
いつもは計算ずくで繕える顔と声が今日はうまくいかない。
動揺を悟られた気がして、ひばりは逃げるように身を引き、ベンチから立ち上がった。




