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お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた  作者: 糸
Last season 契約婚のしまいかた
55/70

四 奥さんと旦那さんのグランドフィナーレ

 紙に引かれたなだらかな水平線と、悠々と空を飛ぶ海鳥たちのすがたをつぐみは見つめる。

 ツグミの特徴だった超絶技巧の刺繍を思わせる植物はどこにもないが、青くひろがる海の内側には幾何学的な模様が刺繍のように重ねて描かれている。

 空は淡いペールブルー。夏のくっきりした色合いではなく、ちょうど今の時期のふんわりまどろむような蒼だ。やわらかなひかりが満ちる空に鳥たちが力強く羽ばたいている。

 タイトルは《鳥と海景》にした。

 これはたぶん最初の一枚だ。これからきっと、このシリーズを冠する作品が増えていくにちがいない。じんわりした確信を抱きつつ、すこしまえに完成させた絵を眺めていると、細くひらいたままにしておいた背後の扉が微かに軋む音がした。

 つぐみが作業していたのは、青浦礼拝堂に隣接した、普段は教会のテーブルや椅子の予備がしまわれている倉庫だ。ストーブを入れると火気がこわいので、セーターにカイロを貼って作業をしていた。

 鮫島さめじまは日付が変わるまえに、近くにある牧師の橘川きっかわの家に戻ったはずだが、誰だろう。

 振り返ると、「わっ」と驚いたふうに相手が扉を閉めかける。

 でも、完全には閉めきらずに、また細い隙間からそーっと顔をのぞかせた。セピア色の髪にすらりと伸びた手足、いつ見てもうつくしく整った容貌をした青年――ようだ。


「ごめんなさい。絵、完成してからって言ってたよね? まだ作業してた?」

「あ、ううん。さっき完成して……」


 どうして葉がここにいるんだろう。

 しかも、まだ夜明けまえの時間だ。まさか電話のあと、車を走らせてここまで来てくれたのだろうか。


「そっかあ、おめでとう」


 葉はほっとしたようすで、いそいそと中に入ってきた。

 カーキ色のモッズコートはつめたい夜気をうっすらまとっている。かじかんだ手に息を吹きかけた葉に、つぐみはおなかに入れていたカイロを剥がして渡した。

 葉とはさっき、契約結婚をやめるとか、やめないみたいな話をしていたはずだ。

 電話越しに、葉の思いつめた声を聞いていると、胸が痛んだ。つぐみはよそのひとに自分のことをどう書かれたって、葉がいてくれるならあまり気にならないけれど、葉はちがうのかもしれない。

 記事は鮫島が取り下げを依頼しているし、今回はつぐみの生い立ちに触れられていただけで、葉のことは書かれていなかった。でも、不安に思って当然だ。もし、葉の過去に触れる人間がいたら、つぐみは自分の伝手と財力すべてを使って潰すつもりだけど。


「わあ、鳥だねえ」


 つぐみがあげたカイロを手に絵を見つめる葉は、電話で話していたときとちがって、まとう空気がふんわり緩んでいる。短いあいだに何かあったのだろうか。それとも、単に眠いのかな。


「ピリカさんに会ったとき、あっエトピリカだって思って、鳥が急に描きたくなって」

「うん」

「鳥ってあんなにちいさな身体で飛ぶから、胸とか脚とか、きゅっとしてるの。羽も動いていると、力がみなぎっていて、輝いていて……。でも葉くんに誰を描くのか訊かれたとき、この鳥は誰なんだろうって考えてみたんだけど、わからなくて……」


 波の音を聞きながら、この場所で彩色をしているときもずっと考えていた。

 あなたはどこの誰なんだろうって。


「はじめはピリカさんなのかなって思った。でも、あの悠々と飛んでいる子はひばちゃんっぽいし、あの態度がわるそうなのは羽風かなって。それに葉くんでもあるし……」

「俺には君に見えるよ」


 目が合うと、葉はふにゃっとわらってきた。

 カイロを持っていないほうの手が差し出されたので、そっと握り返す。

 いつのまにか、窓の外の空が白み、夜が明けようとしていた。「ちょっと散歩する?」と訊かれたので、うなずいて倉庫の外に出る。


「どうしてここに来てくれたの?」

「なんだか君に会いたくなって」

「もう帰るよ」

「うん、でもどうしても顔が見たくて」


 白い泡がヴェールのように濡れた波打ち際に残っている。

 さっきは群青色をしていた空には、うすべにや橙の色が混じりはじめていた。まだ太陽は出ていないけれど、水平線にきらきらとひかりが集まっている。


「急に来るからすこしびっくりした……」

「あ、ええと、スマホの充電が切れちゃって。君との電話が終わったあと、りつさんが家に来て、君の実家に連れていかれたりとかいろいろあって、あ、車も律さんに借りたんだよ」


 世間話のようにごく自然に語られたが、つぐみは目を大きくみひらいて固まってしまった。


「おばあさまが? 何されたの!?」

「いや、されてない、何もされてないです。君のおばあさんが、記事のこととか手を回してくれたみたいだよ。たぶんもう大丈夫」

「何それ。頼んでない……」


 鷺子さぎこに勝手に葉を連れていかれたことにも腹が立って、子どもっぽい不平がこぼれてしまう。唇を尖らせるつぐみを葉は苦笑気味に眺めている。


「それでさ、俺、君に言いたいことができて」

「えっ」


 伝えたいことがあるのはつぐみのはずだったのに、いつのまにか葉のほうにも何かできている。

 急に不安になってきた。もしかして葉はお別れとかそういうことを言うつもりでここに来たんじゃないか。だって、直前の電話では今にもそんなことを言い出しそうな雰囲気だったのだ。倉庫に入ってきたときには、電話の切羽詰まったかんじがなくなっていたからほっとしたのだけど、まだ確証はない。

 口をひらこうとした葉に、


「待って!!!」


 つぐみは叫んだ。

 葉の口に両手をあてて、無理やり黙らせる。


「ちょっと待って。あの、先着順。先着順ではわたしが先だから」

「ええ……」

「君はわたしのあとに言って。とにかく、伝えたいことが先にあるって言ったのはわたしだから」


 葉に先に別れを告げられたら、とてもプロポーズなんてできない。

「そんな……」と葉はショックを受けた顔をしたものの、しぶしぶつぐみに発言を譲った。


「確かに、先に伝えたいことがあるって言ったのは君です……」

「うん。わたしの話を聞いてから、もう一度考え直してほしいの」

「考え直すことはないと思うけど」


 ぽそりと漏れたつぶやきが不穏で、つぐみはいっそう追い詰められた。

 葉へのプロポーズの言葉は毎日、作業のあとにずっと考えていた。レポート用紙にがりがりと言葉を書きつけ、何度も推敲する。清書したプロポーズの言葉は、レポート用紙数枚分になっていて、プロポーズというよりもはや小論文だ。葉のどういうところがすきなのかだとか、はじめに契約結婚を持ちかけた自分がどんなに臆病で愚かしかったのかとか、でも今はちがっていて、つぐみは葉ともう一度、お金を介さずに家族になりたいと思っていることなどが項目ごとに章立てして書いてある。

 しかし、だ。その一週間ほどかけたプロポーズのための大作は、橘川に借りた部屋の机のうえに置きっぱなしになってしまっていて、今つぐみの手元にない。葉がこんなに早くやってくると思わなかったからだ。自分で書いた言葉のはずなのに、何から話しはじめたらいいのかわからなくて、焦ってくる。でも、いつまでも葉を待たせるわけにもいかない。


「あ……あの、えと、あの……」


 ――がんばらないと!

 ぎゅっとこぶしを握って、つぐみは顔を上げる。


「葉くん、わたしはずっと君を……君のことをなにも……」


 つぐみははじめに大金をあげただけで、ずっと葉の気持ちを顧みてこなかった。

 君はわたしにたくさんのものを与えてくれるのに、わたしは君にもっともっとってせがむばかりで、自分はちっとも返さなくて、でも返したくて、ちがう、返すんじゃない、わたしも君にもっとあたたかいものを注げるようになったらいいのにって。君がわたしにそうしてくれたみたいに。


「わたし……」


 でも、言葉はひとつも咽喉をつかえて出てこない。

 がんばらないと、がんばらないとって空転する車輪みたいにぐるぐる言葉にできない気持ちが身体中をかけめぐっている。だって、いったいどうやって順序だてて話せるというんだろう。こんなにもおおきな君のこと。

 きづけば、ぽろぽろと頬に涙が伝い落ちていた。葉が驚いたふうに眸を揺らす。


「あの、つぐちゃ――」


「君がすき……!!!」


 おおきな声でそれだけを言うと、堰を切ったように涙があふれた。

 自分がこんなにおおきな声を出せるなんて思わなかった。

 こんなに脈絡もなくぶつけるみたいに勝手に言葉が出てくるなんて思わなかった。


「君がすきなの! だいすきなの!! 君と一緒にいたいよ。ずっと一緒にいたい。だからおねがい、お別れなんて言わないで……っ!!」


 子どもが駄々をこねるみたいに叫んでいる最中に、身体をぎゅっと引き寄せられた。思いのほか強い力で背中に腕がまわって、葉の胸のあたりに顔が押しあてられる。びっくりして、涙がすこし引っ込んだ。


「お別れなんて言うわけないよ……」


 つぐみの頭を抱きしめるようにして葉がつぶやいた。嗚咽の名残みたいに身体をふるわせていると、背中をゆっくりさすられる。おおきくて、やさしい手だ。はじめからそうだった。今よりもずっと身体がちいさくたって、葉はおおきくてやさしかった。


「君にしてきたこと、ほんとうはお金なんていらない」


 嗚咽が落ち着くのを待って、葉は両手でそぅっとつぐみの頬を包んだ。


「ただ、君がいとしかったから」


 濡れたつぐみの頬にあたたかな水滴が落ちる。

 息が触れ合うほど近くで見た葉も、すこし泣いていた。

 その顔を見たら、胸がぎゅーっと痛んで、また涙が止まらなくなった。


「お金で買えなくて、ごめんね?」


 うん、うん、と何度もうなずいていると、こつんと額に額をあてられる。ふたりともいっぱい泣いているのがおかしくて、すこしのあいだ、わらいあった。身体をくっつけたまま、葉が伸ばしてきた手に手を重ねて指を絡める。


「どうか俺と一緒に生きてください」


 穏やかな波が足元に打ち寄せては引いていく。

 消えたり残ったりするふたりぶんの足跡にひかりがあたって、砂粒が宝石みたいに輝いていた。


「――はい」


 そうだね、わたしたち。

 もう一度、ここからはじめよう。

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