99 アレックス
「オリビアさん、次の記事、この内容で問題ないですね。このまま社に持ち帰って……」
紙を手にして庭に出てきたアンガスは、途中で言葉をのみ込んだ。
泣いて瞼を腫らしたアレキサンダーと彼を慰めている様子のオリビアを見て、(もしかしてあの少年、大変な病気なのか?)と慌てた。
アンガスは労わりと同情を声に滲ませながら話しかけた。
「アレキサンダー様、大丈夫ですか? 落ち着くまでもう少しオリビアさんとお話なさいますか?」
「ああ、うん。そうさせてもらえるかな」
「わかりました。どうぞごゆっくり」
アンガスはそそくさと店に戻っていく。
「アレキサンダー様、もしご実家で暮らすのがつらいなら、うちにいらっしゃいませんか?」
「ここに?」
「ええ。心の声が聞こえる私と一緒に暮らして、人と触れ合う方法に慣れていけばいいんじゃないでしょうか。ここは王都と違って人が少ないですし、お客さんもみんな優しい人たちばかりです。言葉と心が反対の人は……すくなくとも常連さんの中にはいません」
「そんな夢のような場所で暮らせたら、どんなに素晴らしいだろう」
「夫に今の話をしてもいいですか?」
(あの人にも僕の力のことを? 大丈夫かな)
不安で返事をできずにいると、オリビアが優しい笑顔でアレキサンダーの目を覗き込んだ。
「大丈夫です。夫は私の力を知っています。ちょっと待っていてくださいね」
「はい」
呼び出されたアーサーはルーカスを抱いて出てきた。オリビアに事情を説明されると「他にもいたんだな」と驚いている。
アーサーはまだアレキサンダーのことは半信半疑だが、『迷う時間は短いほうがいい』という傭兵時代の習慣に従って話を進めた。
「俺は歓迎しますが。親御さんはどうなんでしょう。説得できそうですか?」
「僕、ここで暮らしたいです。僕の両親も兄たちも、僕がいないほうが幸せだと思います。それでも世間体を気にして反対するようなら、家を捨てます」
アーサーが首を傾げた。
「それは一番最後に打つべき手だと思いますよ。親が心配するのは当然のことです。ちゃんと話し合って安心させてやるのが、今まで育ててくれた親への礼儀だと思います」
アーサーは穏やかな声で話を続ける。
「赤ん坊からその年齢まで子供を育てるのは、そんなに簡単なことじゃないです。俺も最近知ったことですけどね。喧嘩別れする前にすべき努力はたくさんあるはずです。急がなくても、私も妻もこの店も、どこにも行きませんから」
アーサーは腕の中のルーカスの頭を撫でながら語る。アレキサンダーは裏表のないアーサーの心を探りながら何度もうなずいた。
「そうですね。ご主人の言う通りです。親を説得してきます。オリビアさんの力のことは言いません。家を出ることを了承してもらうまで努力します。近いうちに必ずまたここに来ます。マーローの街に部屋を借りて、ここに通わせてください」
今度はオリビアが首を傾げた。
「マーロー? それでは通うのが大変です。貴族のご令息にこんなことを申し上げるのは気が引けるのですが……ヤギたちの上の部屋なら空いています。どんな部屋か、見てみますか?」
「はい。ぜひ」
オリビアとアレキサンダーがヤギ小屋に入ると、ピートとペペは「メッ!」『しらない 人間』、「メッ!」『だれ これ』と警戒している。子ヤギのリリだけは「メッ! メッ!」『こんにちは! あそぶ? あそぶ?』と言いながら駆け寄ってきた。
アレキサンダーが『かわいい』と心でつぶやいているのを聞きつつ、オリビアが二階に案内した。
「十分素敵です。ここに住めたらいいなあ。夢のようだなあ」
「そうですか。ではこの部屋に住むことを楽しみに、ご両親を説得してくださいな」
「はい! 僕、頑張ります」
こうしてアレキサンダーは、いったん王都の家に帰ることになった。
そして二週間後に、彼は四つの大きな旅行鞄と一緒に馬車で送り届けられた。同行してきたのは、彼の母親だ。
アレキサンダーによく似た巻き毛の女性はオリビアとアーサーに深々と頭を下げた。
「息子がお世話になります。この子がこんなに自分の意見を主張したのは初めてのことで、私も夫もこの子の意気込みに賭けてみることにしましたの」
「息子さんを大切にお預かりいたします」
アーサーはそう返事をしたが、オリビアとアレキサンダーは母親の心の声を聞いて言葉に詰まっていた。母親の記憶の中で、父親は「私たちの子ではあるが、四人いれば一人くらいハズレが生まれるのは仕方がない。あの子は死んだと思って諦めよう」と言っていたのだ。
アレキサンダーは父親のその言葉を聞くのが初めてではないのだろう。顔色ひとつ変えていないが、オリビアの胸は痛む。
母親は食事を勧めても断り、すぐに帰ると言う。
彼女は別れ際、アレキサンダーを無言で長い時間抱きしめていたが、その心からは悲しみと罪悪感が流れ出していた。
『ごめんなさい。あなたをこんなふうに産んでしまった私を許してね』
オリビアがハッとしてアレキサンダーを見ると、彼は視線を空に向け、無表情に抱きしめられている。彼の心の声は何も聞こえない。心を閉じているのではなく、「無」だった。
馬車を見送って店に入ったアレキサンダーが意識したような明るい声を出した。
「僕は家事をしたことがありませんが、やる気はあります。なんでも雑用を命じてください。ただ飯食いになるつもりはありません。アーサーさん、母が渡そうとしたお金を受け取らなかったし」
「ここはホテルではないので」
「僕、働きます。オリビアさんはこれからしんどくなりますからね」
アレキサンダーの視線はふっくらとしているオリビアのおなかに向けられた。オリビアはおなかにそっと手を当てて微笑んだ。
「ルーカスの相手をしてもらうかもしれませんが、子供の相手はお嫌でしょうか」
「僕は末っ子なので、小さい子と遊んだことはありません。でも小さい子が何をしてほしいかはわかります。いっぱい一緒に遊んで、いっぱいおしゃべりをします。それと、自分がこれから生きていくための手段も考えます。もう、親のお金には頼りたくないんです」
「焦らずゆっくり考えてくださいね。ルーカスの世話は、ロブやダル、スノーも手伝ってくれます。アレキサンダー様なら、彼らと協力できますものね」
「嬉しいなあ。さっそくこの力が役に立つんですね。それと、僕に様をつけないでください。呼び方もアレックスで。丁寧な言葉遣いも不要です。僕は今日からここの使用人なんですから」
アーサーが笑った。
「ではアレックス、君は使用人じゃない。俺たちの仲間だ」
アレキサンダーが嬉しそうに「仲間」と口の中で繰り返していると、ルーカスが、トコトコと彼に歩み寄った。
「こんいちわ」
「こんにちは、ルーカス。今日からよろしくね。僕はアレックスだ」
「クシュ!」
「うん」
ヤギ小屋のピートとペペは新しい住人を警戒している様子だが、子ヤギのリリは喜んでいる。
ロブは『ボク ロブ! よろしく! よろしく!』とはしゃいでいるし、スノーは『新入りね』と冷静だった。
こうしてアレキサンダーは『スープの森』の新しい仲間となった。





