98 仲間
アンガスがオリビアに少年を紹介した。
「こちらの方は、ヘイウッド伯爵家のご令息、アレキサンダー様です。『オリビアさんに会って話をしたい、治療を受けたい』とおっしゃっています。オリビアさんの許可を得ていないのに、勝手をして申し訳ありません」
「強引に話を進めたのは僕です。どうしてもオリビアさんにお会いして治療してもらいたくて」
アーサーからは『話が違うな』という気持ちが伝わってくるが、少年から不快な感情や考えは伝わってこない。(もう来てしまったものは仕方がない)とオリビアは、笑顔で対応した。人間が怖かった頃のオリビアなら不安でぎこちない対応をしてしまう場面だが、今はもう違う。
「遠いところを来てくださって、ありがとうございます。お疲れでしょう? まずはうちのスープを召し上がってひと休みしてください」
アレキサンダーと顔を合わせたときから、不安や焦りがわずかに漏れていることに気づいていた。
やがて昼の客が全員帰り、店内にはアンガスとアレキサンダーだけになった。
アーサーは台所に戻って片づけをしているオリビアに近寄り、声をかけた。
「あのアンガスって人はどういうつもりだろう。この店にいきなり読者を連れてくるのは話が違うな。トレバーさんは『そういうことはしない』と言っていたはずだが」
「きっとよほどの事情があるのよ。あの子、なにか苦しんでいるみたい。まずは本人に話を聞いてみるわ」
「君がそう言うなら俺は口を出さずに様子を見るよ」
「ありがとう、アーサー」
オリビアはそう言ってアーサーの頬にキスをした。客席に行き、食事を終えたアレキサンダーに声をかけた。
「今日のスープはキノコと鶏肉でしたが、お口に合いましたか?」
「とても美味しかった。僕の家の料理よりずっと美味しい」
アレキサンダーは笑顔で応える。少年らしい笑顔と言葉に嘘は感じられない。
「私とお話ししたかったそうですね。どんなことでしょう」
「それは……」
少年がほんの一瞬、向かい側に座っているアンガスを見た。オリビアはその視線の動きで(他の人がいるところでは話しにくいのね)と察した。
「アンガスさん、原稿はもうできております。今お渡ししますので、お帰りになる前に、ここで読んでいただけますか? 手直しした方がいいところがあれば、すぐに直しますから」
「はい。ぜひ拝見させてください」
アンガスに次の分の原稿を渡し、オリビアはアレキサンダーを庭に誘った。
「このあたりの森はもう秋です。王都に比べたら木が多い分、涼しく感じるのではありませんか? うちの庭を見てみませんか?」
「ぜひお願いします。王都より風が爽やかです」
ダルがご機嫌で外までくっついてきて、アレキサンダーのふくらはぎにぐりぐりと頭をこすりつけた。
『こんにちは! ボク ダル!』
「こんにちは。君はいい子だね」
オリビアは笑顔のまま固まった。
(えっ? 今のは偶然よね?)
打てば響くようにダルの心の声にアレキサンダーが返事をした……ように聞こえた。
(まさかね)
驚いているオリビアを、しゃがんでいるアレキサンダーが探るような目つきで見上げている。
オリビアは慌てて自分の心が漏れないように気をつけた。波立つ心を抑えながら少年の心を探ったが、特に何も聞こえない。
(偶然よね)
そう思っていると、はっきりと少年の心の声が聞こえてきた。
(こんなことをしている場合じゃないな。僕の病気を治せるかどうか、早く相談したい。だが、有名な医者たちが全員治せない、心の病と断言したんだ。たぶん無理だろうな)
オリビアはさりげなく彼に声をかけた。
「ここなら誰にも話を聞かれません。せっかく王都から来てくださったのですから、お客様が治療を受けたい症状について、お話を聞かせてください。私でお役に立てることならいいのですが」
アレキサンダーはダルの背中を撫でていた手を止めて立ち上がった。表情が緊張している。
「オリビアさんは王城の薬師相当の知識を持っているんですよね?」
「はい。そうお墨付きをいただきました。判断してくださったのは、王城で薬師の元責任者をなさっていた方です。お客様の相談なさりたいことは、どんなことでしょう」
立ち上がったアレキサンダーの目が、まっすぐにオリビアを覗き込んでくる。その目には不安と期待が濃く滲んでいる。
「今からする話を誰にも言わない、と約束してくれますか?」
「もちろんです。病で苦しんでいらっしゃる方の秘密を他に洩らすようなことがあっては、薬師は務まりません。心の状態は身体と強く結びついているんです。アレキサンダー様を苦しめるようなことは致しません。絶対に」
それを聞いても、アレキサンダーはしばらくためらっている。
今度はオリビアがしゃがんでダルを撫でながら待った。沈黙が支配している時間はどのぐらいだったか。
オリビアが立ち上がり、ダルがゴロリと地面に横たわってさらにしばらくしてから、少年が口を開いた。
「僕は聞こえるはずのない声が聞こえます。動物や人の心の声が聞こえるんです。僕の家族は僕が病気だと思っていて、とても苦しんでいました。僕が両親の考えを読んで聞かせても、信じませんでした。だからここ五年間は何も聞こえないと嘘をついていますが、本当は聞こえるんです。さっきこの猫は『こんにちは! ボク ダル!』と言っていました」
その言葉を聞いて、オリビアの心臓がドクドクと動きを速くする。
一気に言い終えたアレキサンダーはオリビアから視線を外していて、両手を握り締めている。
(私と同じ力を持っている人が、いた)
オリビアは自分の過去を思い出した。自分が普通ではないことの苦しみ。家族を苦しめていることへの後ろめたさ。誰にもわかってもらえないもどかしさと疎外感。頭がおかしいと言われ続ける屈辱と苦痛。
「この子の名前がダルだと、まだお伝えしていませんでしたね」
「ええ。この猫の心を読みました。僕の話を信じてもらえますか?」
アレキサンダーの目が落ち着かない感じに細かく動いている。
「アレキサンダー様が嘘をついていないことはわかります。自分と同じ力を持つ人に出会うのは生まれて初めてなので、とても驚いています。今まで、さぞおつらかったでしょうね」
最初はぽかんとしていたアレキサンダーだったが、オリビアの言葉の意味を理解するにつれて、じわじわと驚愕の表情になっていく。何かを言おうとして口を開け、閉じる。まだ半信半疑らしい。
「つまり、オリビアさんは、その……僕と同じ?」
「はい。どうぞ私の心を探ってください。嘘はついておりません。その力を理解してもらうのは、とても難しいのです。私は長いこと苦しんできました。だから私には、お客様がどんなお気持ちでいたのか、よくわかります」
神経を張り詰めているであろう少年を刺激したくなくて、できるだけ穏やかに話しかけた。同時に心のなかで(大丈夫。私がいます。力になりますよ)と強く語り掛けた。
「こんなことって……」
そう言ってアレキサンダー少年は黙り込んだ。ゴロリと横になっていたダルが『あれ? どうしたの?』とつぶやきながら頭だけを持ち上げてアレキサンダーを見る。
『イタイの?』
「大丈夫よ、この方は痛いわけじゃないの。驚いているだけなの」
「すごい。当たり前のように猫としゃべってる」
アレキサンダーは驚愕の表情でダルとオリビアを見ている。それから自分もしゃがみ込んでダルを撫で始めた。
オリビアはその様子を黙って見ていた。ダルを撫でている少年の目から、ぽたぽたと涙が落ちる。
「つらかったですね。病気だと思われているのもつらかったでしょうし、ご家族に負担をかけているのも苦しかったでしょう。聞こえていないと嘘をつき続けるのも苦しかったはずです。それに、誰にもわかってもらえない寂しさは、私も経験しましたよ」
アレキサンダーは返事をしない。腕を目に当てて「うっ」と声を漏らしたあとは泣いている。
「ここに来るにあたって、ご両親にはなんと説明してきたのですか?」
「僕の病気を、治してもらえるかもしれない、と言って出てきました」
アレキサンダーはオリビアの前で泣いていることを恥ずかしがっている。だが、どうにも涙は止まらない様子だ。
「僕の両親は、何十人もの医者のところへ僕を連れて行きました。どこの医者に診てもらっても『心の病だ』と言われました。だから僕は『もう何も聞こえなくなった』と嘘をついています。そして他人が恐ろしいので、ずっと家の中で生きてきました。もう五年も」
そう言って森に視線を向けるアレキサンダーからは疲労感が漂ってくる。
「僕が自分から外へ出かけると言ったのは初めてなので、両親はなんて言うかなと思っていたのですが」
「反対されなかったんですね」
「反対どころか、『ゆっくり行っておいで』と送り出してくれました。心配はしていなかった。むしろ何年も家から出なかった僕が王都の外へ出かけると言うのでホッとしていましたよ」
「そうですか」
オリビアは話をしている間も涙を流しているアレキサンダーの肩に、そっと手を置いた。
「大丈夫です。アレキサンダー様は病気ではありませんし、頭がおかしいわけでもないのです。そして、この力は、なかなか便利でもあるんですよ」
「便利? いいことなんて、僕には何もなかった! いや、違うな。相手の心を読んで、嫌な人を避けることはできたか」
アレキサンダーから途切れることなく、大変な量の記憶が流れ出している。悲しみながらも自分に疲れている両親。気味悪がって近寄らない三人の兄たち。傷ついても傷ついていると言えない孤独。強い絶望。
どれも覚えがある。オリビアの胸が痛んだ。
(私は五歳で逃げ出した。逃げ出すことができたのは幸運だった。でもこの子は、この年齢まで孤独に生きてきたのね)
「私も以前は人間がとても恐ろしかったです。心と言葉が真逆の人が少なくないですからね」
無言でアレキサンダーが何度もうなずく。
「僕は、神様を恨んでいます。こんな力、僕は欲しくなかった。人の心なんて、何も知りたくなかった」
寝転がっていたダルが起き上がり、アレキサンダーの膝に頭をこすりつける。
『イタイ? イタイ?』
「大丈夫だ。僕は痛くない。ダル、お前は優しい猫だね」
(この少年に力を貸したい。生きる楽しさ、人間の優しさを知ってほしい)
オリビアは全力でそう思った。





