87 最期まで守った
ルーカスの世話をしながら、オリビアは反省していた。
「冷静になって振り返ったら、私、アーサーに何も相談しないで動いていたわね。アーサーに幼児のことを聞いても無駄だと思っていたのかしら。ああ、こうやって思い出そうとしても、自分がなにを考えていたか、全然思い出せない。必死過ぎたわ」
「ママ……」
「なあに? ルーカス。喉が渇いたの?」
両手を出して『抱っこして』という仕草のルーカスを抱き上げ、裏庭に出た。
左腕一本でルーカスを抱えながら右手でドアを開けてヤギたちを庭に出した。そのまま抱っこでヤギの様子を見ていようと思ったが「重くて無理……」と独り言を言いながらルーカスを地面に下ろした。
大喜びで裏庭に駆け出す三匹のヤギ。それを追いかけるルーカス。不用意に近づいてルーカスが頭突きされないよう、慌てて追いかけて抱き上げる。やはりずっしりと重い。
(他の母親たちはなぜ軽々と子供を抱いていられるのかしら)
数分で腕がフルフルして、またルーカスを地面に下ろした。そしてミラがルーカスの子守りに来てくれたので尋ねると、ミラは楽しそうに笑った。
「そりゃあ生まれてすぐから、毎日抱っこし続けているからさ。最初は猫ぐらいの重さしかなくても、一日ごとにどんどん大きくなるし重くなるからね。母親の方も、鍛えられるのよ」
「ああ、そうでしたか。私、子供を産んだら母親の身体が強くなるのかしらと思いました」
「まさか。子供を育てながら強くなるし、子供のことに詳しくなっていくんだよ。産んだ瞬間に立派な母親が出来上がるわけないじゃないさ。子供が育つのと一緒に、母親になっていくんだ」
ミラの『母親になっていく』という言葉はオリビアの引け目を優しく労わってくれた。
(ルーカスを産んでいない自分は、本物の母親より劣るのではないか)という意識が心の底にずっとあった。だから全力でルーカスの要求に応えようとしていた。
その話を夜に帰宅したアーサーにすると、アーサーがオリビアの頭を優しく撫でてくれた。
「ああ、君が全ての用事よりもルーカスを最優先していたのは、そういう気持ちからだったのか。見ていて、『こりゃあわがままな人間が出来上がるんじゃないか』と心配になるほどルーカス最優先だったからなぁ。だからこの前『この子を守るか?』って聞いたんだ」
「ちょっと待って。わがままな人間ですって?」
聞き捨てならない、という気持ちでアーサーの顔を見た。
「君がこのままずっとルーカスの要求に全力で応えていたら、とんでもない我がまま小僧ができあがるし、君だって早晩倒れるよ。たとえ泣かれても相手をできないときもある、と割り切ったらいいさ。俺がいるときは俺がルーカスの相手をする。一人で無理をしないでくれ」
「そうか、そうかも。頭ではわかっているんだけど。つい母狼状態になってしまうの。気をつけるわ」
「母狼は、子供を叱らないのかい?」
そう言われてハッとする。
オリビアが知っている森の動物たちは、狼に限らず我が子が幼いときは全力で守っているが、子供が動けるようになると、せっせと子供を教育する。
餌の捕まえ方、危険な相手から身を隠す方法、水場に近寄るときにうっかり水に落ちない近寄り方。手を出してはいけない危険な虫。
ときには怪我をしない程度に噛みついて教育することもあった。
「こうして自分が母親になってみると、森の動物たちは賢い母親だったってことに気がつくわね」
「ルーカスのために柵を作るよ。どうしても君が忙しい時は、柵の中に入れておけばいい」
「柵……」
「ほら、また『可哀想』って顔をする。ルーカスを柵の中に入れてでも台所の火に近づけないほうがいいときだってあるって」
オリビアはまじまじと夫の顔を見る。
「なんだい?」
「アーサー。あなたが優秀なのは傭兵としてだけじゃないわね。夫としても素晴らしいし、父親としても素晴らしい父親ね」
「俺は忙しい両親の代わりに、妹がよちよち歩きの頃から面倒を見ていたからな」
「やっぱり何事も経験がものを言うわね」
結婚して九か月目に入っていて、オリビアはアーサーのことならなんでもわかっているような気がしていた。だが、まだまだ知らない部分があると気づく。
アーサーはすぐに森の木の枝を切って皮を剥ぎ、同じ太さの枝を揃えると、今度は革手袋をして砂で枝を磨いた。
アーサーは生きていく上での知識や技術を実によく知っている。自分が知らないことをたくさん知っていて、それがオリビアにはうっとりするほど魅力的だ。
「こうするとルーカスに棘が刺さったりしないんだよ」
「私の夫は万能だわ。あなたと結婚できた自分の幸運を感謝しているの」
「ぷっ。この程度のことで大げさだな」
そんな二人をルーカスがオリビアの膝に座って見ている。ルーカスの満足そうな感情がホワホワと流れてくるのがオリビアには嬉しい。
「ルーカスは私とあなたが仲良くしているのが嬉しいみたい」
「そうか。自分を育ててくれる夫婦が険悪だったら、育てられる側は不安しかないだろうな。ルーカスのためにも俺のためにも、俺は君と仲良く暮らしたいよ」
「そうよね、仲良くしましょうね」
ルーカスが自分たちにそんな楽しい会話を運んでくれた気がして、オリビアはルーカスの柔らかい頬にそっと口づけた。
平和で優しい時間が流れ、次の週、アーサーが休みの日のこと。
「森のさくらんぼが落ちる時期だわ。ねえ、アーサー、さくらんぼを拾いに行きたいの」
「いいよ。行こう。ルーカスを連れて行こうよ。俺が危険がないか周囲を見張るさ」
こうして三人とロブで森にさくらんぼを拾いに行ったのだが、さくらんぼの木の近くに一人の男がいた。
男はオリビアたちを見ると、まっすぐに近寄ってくる。アーサーが無言でルーカスをオリビアに渡してから腰の剣に手をかけ、硬い声で男に呼びかけた。
「なにか用ですか?」
「待ってくれ、俺は怪しい者じゃない。人を探しているんだ」
「こんな森の中で?」
「ちょうどそのくらいの男の子を連れた女性を探している。知らないか? ひと月ほど前に行方知れずになったんだが」
(今ごろになって?)
オリビアの怒りに染まった心がアーサーに流れ込む。アーサーが冷たい声で答えた。
「ひと月も前に森で行方知れずになったのなら、とっくに生きてはいないでしょうね」
「そうなんだが。その……死体を見つけて死んだ証拠を持って帰って来いと命令されてね」
オリビアはアーサーの心がガッと怒りに染まるのを感じたし、自分の心も怒りで熱く燃え上がった。
「どういうことか聞かせてもらおうか。場合によっちゃあ、あんたを捕まえて警備隊に突き出すぞ」
「ま、待ってくれよ! 違うんだ。話を聞いてくれ!」
男は、剣を構えたアーサーに怯えながら、ここに来た理由を話し始めた。
「探しているのはシェリーという女性でね。俺の勤め先の同僚だった。シェリーは若旦那と恋仲になったんだが、商会の主夫婦は結婚を許さなかったんだ。シェリーは首になって田舎に帰されたんだが、そのシェリーが若旦那そっくりの子供を生んだと、たまたま行商人の口から主夫婦の耳に入ったんだよ」
「ほう、それで? 嘘は無しにしろよ?」
「本当のことしか言わない! 俺だってシェリーを気の毒に思っているんだ。それで、奥様が『息子の子供なら、その親子を引き取る。息子がこの先釣り合いのとれる相手と結婚しても、子供が生まれるとは限らないし、子供が無事に育つ保証もない。その子は万が一のときのために王都に住まわせておけばいい』って」
(酷い。まるで予備の家具や食器みたいな言い方だわ)
オリビアは気分が悪くなるほどその主夫婦に嫌悪感を持った。
「それで俺が迎えに行かされたんだ。シェリーの兄夫婦は『お世話をしてくれるんなら』と言って追い出すようにしてシェリーを引き渡してくれた。だが気がついたときにはもう馬車が空だった。シェリーは走っている馬車から飛び降りたらしい。すぐに捜したんだが、見つからなかった。かなりの距離を戻りながら捜したんだよ。いったん王都に戻って『どうしても見つかりません、もう生きてはいないと思います』と報告したら、森を探して遺体から髪を切り取ってこい、と命じられたんだ」
アーサーが苦いものを噛んだような顔になった。
「その女性ならお前たちの想像通り、亡くなっている。共同墓地にちゃんと埋葬された。お前らと違って、マーレイ領の人間は人の心を持っているからな。子供一人で森を生き延びることはできない。おそらく森の獣に骨まで食われただろう」
男が一度目を閉じた。シェリー親子を気の毒に思っていることに嘘はない、とオリビアは感じ取った。
「今から墓を掘り返して遺髪を手に入れるって言うんなら、それなりの手続きが必要だが? それとも墓荒らしと見なされて投獄される覚悟が?」
それを聞いた男は顔の前で手を振った。
「いやいや、そんなことはしないさ。確かに墓に埋葬されたと警備隊に書類を書いてもらえば済む。ありがとう。俺はこれでやっと王都に帰ることができるよ。あなた方に言うのも筋違いだが、若旦那はそれほどシェリーにも子供にも未練はなさそうだったし、シェリーは奥様にずいぶん虐められていたんだ。シェリーはよほど王都に行きたくなかったんだと思う。気の毒なことをした。それで、そのう……」
男がルーカスを見た。
「その子は、あなたがた夫婦の子供、ですよね? なんだかずいぶんシェリーの子供に似ているんだが」
オリビアは全力でルーカスの心に語りかけた。ルーカスがオリビアの能力に反応するかどうか、今まで試したことがなかった。だが今、能力を全開にしてルーカスに呼びかけた。
(ルーカス、私をママと呼んで! ママって。お願い!)
すると抱いているルーカスがオリビアを見上げた。
「ママ」
「なあに? 私の可愛い赤ちゃん」
呼びかけに応じたのか偶然か。オリビアにもわからなかったが、ルーカスは「ママ」と言ってからオリビアの首にギュッとしがみついた。
「失敬な事を言うな。俺たちの子供だ」
「そうですよね。失礼いたしました。その子はあなたによく似ています。では私は街に行って、警備隊に書類を書いてもらうことにします。助かりました。ありがとうございます」
男はそう言うと、繋いでいた馬に乗ってそそくさと立ち去った。
オリビアは男が見えなくなるまで、男の心を探り続けた。
「なるほどね。そういう事情か。走っている馬車から飛び降りるほど、王都には戻りたくなかったんだな」
「世の中には使用人を人間扱いしない人がたくさんいるんでしょうね」
二人で暗い気持ちになっていると、ルーカスが声をあげた。
「ママ、ママ、ママ」
柔らかく甘い匂いのルーカスを抱きしめた。
「そうよ、私があなたのママだわ。絶対にあなたを幸せに育ててみせる。あなたの本当のお母さんが安心できるように、ちゃんと育てるわ」
「ルーカス、お母さんが甘やかしすぎたら、俺が注意するさ。安心して暮らせ。だが……警備隊はルーカスのことをあの男に知らせるかもな」
「ううん。あの人、もし聞いても何も言わないと思う。心からシェリーさんに同情していたもの。ルーカスのことだって、もしかしたらと思いながら離れて行ったのよ。私、全力で心を探ったわ」
「そうか。あの男がまともな心の持ち主で助かった」
オリビアとアーサーはしんみりしながらさくらんぼを拾い集めた。
ルーカスはチョロチョロと動き回るが、ロブがずっと付き添ってくれて、ルーカスが勝手に離れようとすると、服を咥えて引っ張って行かせないという賢さを発揮した。
ルーカスは森のお出かけが疲れたのか、帰りはオリビアの膝の上でぐっすり眠ったまま馬車で運ばれた。
オリビアとアーサーは店に戻る前に遠回りをして共同墓地に向かい、真新しい墓標に向かって手を合わせた。
「安心してください。私たちがルーカスを育てます」
母親の墓標と知ってか知らずか、目を覚ましたルーカスがそっと白木の墓標に手を触れた。
(母親の記憶はそのうち消えてしまう。でも、私が何回でもここに連れて来てあげよう。あなたのお母さんは最期まであなたを守っていたのよって)
オリビアはルーカスを抱き上げ、馬車に戻った。





