82 歩いてきた道は
アーサーに「結婚を急ぐ必要はない」と言われて、ララは無言でうつむいている。
オリビアがなるべく優しい声で尋ねた。
「お城勤めの薬師のお話は、いつまでにお返事をするの?」
「六月から新人の育成が始まるのだそうです。その気がある場合は五月の半ばくらいまでにお城に住み込んでほしいと言われました」
「あと半月ね」
「はい」
「ララ、道はひとつとは限らないわ。まだ半月ある。じっくり考えたらいいと思う。今日はもう眠ったほうがいいわよ。疲れている夜の考えごとは、なんでも悪く考えてしまうものだもの」
「そうですね。もう寝ます。おやすみなさい」
「おやすみ、ララ」
そう言ってオリビアは台所を片付け、寝室へと上がった。アーサーも後からついてくる。
「俺は出過ぎたことを言ったかな」
「わからない。ララがどの道を選べばいいのか、誰にもわからないわよ。時が流れて、振り返ったときにしかわからないと思う。ただ……」
そこでオリビアは言葉をのみ込んだ。
「ただ、なんだい? 遠慮せずに思ったことを話してほしい」
「自分で決めたことなら、その道を選んだことを後悔しても乗り越えられると思うの。『自分が選んだ道だ』って。でも、誰かに『こうするべきだ』と言われて従ったら……壁にぶつかったとき、助言してくれた人のせいにしないかしら」
「ああ、そうか……」
「私たちはなにが正解かわからないまま、分かれ道のどちらかを選んで生きている。それでいいんじゃないかな。人の心の声が聞こえる私でさえ、分かれ道を選ぶときは迷うし、道が分かれていることにも気づかずに進んでいることだってたくさんあると思う」
「そうだな」
「見守りましょう。ララとコリンが決めたことを応援するしかないわ」
アーサーが寝間着に着替え、ドサリとベッドに仰向けになった。
「俺は食い詰めて街に出て、傭兵の募集を見て、迷わず傭兵になった。収入がすぐに入ることと、身体が大きくて丈夫っていうだけで選んだ。もしあのとき、職人という道を思いついていたら、おそらく傭兵にはならなかった。十四歳の俺は、世の中にどんな職業があるのか、俺がその職に就けるのかどうかさえ、ほとんど知らなかったし、急いで金を手にしなければ飢えて動けなくなりそうだったんだ」
「職業を知らなかったのは私も同じ。私はジェンキンズ・ダイナーがあったからこの仕事に就いたっていうのもあるし。ああ、でも、それを思ったら、ララにはお城の薬師という別の世界を見てほしいかも」
「俺もそう思う」
「それとね」
オリビアはその瞬間、ごく短い時間だったがアーサーがうっかり心から流れ出させた記憶を見てしまった。心に蓋をしたように、なんの感情もなく淡々と人を斬っているアーサーの見ている景色だった。
「あなたが元傭兵で、あの雨の日に街道を歩いていなかったら、私があなたに手を振ることもなかった」
アーサーが顔だけをオリビアに向けた。そして少しぼんやりしてから、一度目を閉じた。
「あの日俺が自分の人生に何の希望もない状態で歩いていなかったら、雨の中を歩くこともなかったはずだ。そうか。俺は道を選び間違えたとずっと思っていたけれど、十四歳の俺が選んだ道は、君へと続いていたのか」
「ええ」
「そうか。そう思えば……俺の傭兵としての十四年間は、全くの無駄というわけではなかったんだな」
「ええ。そう思う」
アーサーが優しい顔になった。
「オリビア」
「なあに?」
「良かった。あの雨の日、なにもかも嫌になって、記憶を含めてなにもかも捨てたいと思いながら街道を歩いて、よかったよ」
「私もあの日、窓の外を見て、本当に良かった。いつもなら心配するだけで声をかけたりしないのに、あの日はあなたが……」
「俺が?」
「あなたの心が傷だらけで、悲しんで苦しんでいたから。声をかけずにはいられなかった」
アーサーが上半身を起こして、驚いた顔でオリビアを見た。
「そうだったのか?」
「ええ。私と同じだと思った。心が傷ついていて、傷ついているのが当たり前で、それでも生きているあなたに、知らん顔なんてできなかった。だからあなたを店の中に入れて、祖父が座っていた椅子にも座らせた。この人を癒したいと思ったの。私が修道院に向かう馬車から逃げ出したのも、一人になってもこの店を続けてきたのも、あなたに出会うために通る道だったんだと思ってる」
オリビアはベッドにいるアーサーの隣に腰かけた。
「ララが選んで歩く道も、いつか今の私たちのように『ここに来るための道だった』と思える日がくることを祈ってるの。一直線の近道じゃなくても、たどり着いたところが素敵な場所なら、それで大成功だと思うの」
そこまでしゃべったオリビアが、耳を澄ませるような仕草をした。
「誰か来たわ。森の動物よ」
オリビアが窓に近寄り、ガラスの向こうを透かし見た。アーサーも起き上がってオリビアの隣に立って暗い庭を見た。
「アライグマ……」
「アライグマだな」
「子供を連れてるわね」
「子供は三頭か」
「猫たちに注意してくるわ。子育て中のアライグマは気が立っているから、うっかり鉢合わせしたら襲われちゃうもの」
そう言うなりオリビアは部屋を出て階段を駆け下りた。
一階ではロブたちがそれぞれ好きな場所で寝ていたが、オリビアが駆け下りて来たので驚いていた。
「ダル、スノー、今、庭にアライグマが来てるの。だから絶対に出て行かないで」
スノーは『いかない』とだけ返事をして丸まったままだったが、ダルは跳び起きて「ヴー!」『アライグマ、キライ』と言う。
「喧嘩しちゃだめ。庭の虫を食べに来ただけだから。そのうちいなくなるわ」
『ボクの庭、だ!』
「そうだけど、アライグマの縄張りでもあるの。だからあなたはここにいて」
『ボクの庭なのに!』
「そうだけど!」
そう言いながらオリビアは犬猫用の出入り口の前に大急ぎで薪を入れた木箱を置いて、小さな扉を塞いだ。
「こうしておけば入ってこないから。朝になったら庭に出ればいいから」
『ボク、アライグマ、キライ』
「わかったから。もう眠りなさい」
オリビアはしばらくダルのそばにいて、ダルの心が落ち着くのを待った。そのうちダルも寝床に丸くなってウトウトし始めた。
オリビアとダルのやり取りを聞いていたアーサーが、寝室に戻ってからオリビアに尋ねた。
「なんでダルはあんなに怒ってたんだい? ダルはなんて?」
「あなたがララを王都まで送って行っている間にね、子連れのアライグマが台所に入り込もうとしたことがあったの。食べ物の匂いにつられたのね」
「うちの猫たちに怪我はなかったんだろう?」
「ええ。ロブが追い払ってくれたから、出入り口のところで引き返したわ」
「頼りになるな」
「ええ」
二人はその夜、穏やかな気持ちになって眠りに落ちた。
翌朝、オリビアとアーサーが下に下りていくと、もうララは起きていた。昨夜のスープを温めていたララが笑顔で振り返る。
「おはようございます!」
「おはよう、ララ。早起きしたのね」
「はい! 久しぶりの自分のベッドだったので、ぐっすり眠れました」
「そう。元気そうでよかったわ」
「目が覚めたとき、決めたんです。私、お城の薬師になります」
オリビアとアーサーはなんと返事したらいいのかと迷って口ごもった。
「逆だったらどうしてたかなって思ったら、答えはひとつでした。私だったら、待ちます。だから、コリンが待ってくれるなら待ってもらうし、待てないって思うなら……仕方ないなって思うんです。私がコリンの人生を『ああしてくれ、こうしてくれ』なんて縛り付けることは、できませんから」
「それがララの考えなら、私は応援するわ」
「俺もだ」
「それに……」
ララは少しためらって下を向き、それから顔を上げて笑った。
「私、実家にいるときは『自分はなんの価値もない人間だ』って思い込んでいました。生きているだけで父の家族に嫌がられて、ただ働いて、食べて、息をしてるだけでした。でも、『スープの森』に来て優しくされて、美味しい料理を作って食べて、『私、普通の人間だ』って思えるようになったんです」
オリビアはもう泣きそうだ。いつだったかララが「私なんて人間じゃない」と本気で言っていたことを思い出していた。
「私、ここで暮らすようになって、私は人間だ、父の家族と同じ人間なんだって、思うようになりました。お城の薬師になれたらもっと自分に自信を持って、もっと自分が好きになれる気がするんです」
「ララ……」
「私を産んでくれた母のためにも、もっともっと自分を好きになりたいです。『生まれてきてよかった』って笑いながら生きたいです。これから、コリンのところに行って、もう一度話をしてきます。自分の気持ちを全部」
「うん。それがいいな」
「お城の薬師を諦めたら、コリンと結婚してもなにかあるたびに『あのときお城の薬師になっていたら』って後悔を繰り返す気がして。それは嫌だし、コリンにも失礼ですから」
ララは温めた昨夜のスープとパンの朝食を終えると、馬車に乗ってマーローの街へと向かった。
小さくなっていく馬車を見送りながら、オリビアは心の中で(ララの進む道が、幸せな場所へと続いていますように)と祈った。
「オリビア、ララはきっと大丈夫だよ」
「ええ。きっと大丈夫ね」
『ツガイなかよし』
いつの間にかダルが足元にいて、アーサーの脚に頭をスリッとこすりつけた。
ロブがブンブンと尻尾を振りながら口を開けてオリビアを見上げている。
スノーは玄関ドアの前で顔を洗っていた。
「さあ、今日のスープはなににしましょうか。ベーコンを使おうかな」
「お。俺の好物だ。帰って来てのお楽しみにするから、取っておいてくれ」
「ええ」
二人は手をつないで店へと戻った。
5/2 いよいよスープの森の発売です。





