77 子ヤギのリリと画家のレジー
ペペが産んだ子ヤギはメスで、リリと名付けられた。全身が純白で愛らしく、ララが「百合の花と同じ白さ」とつぶやいたことからリリとなった。
オリビアはリリが可愛くて仕方ない。日に何度もヤギ小屋に入ってリリを眺めている。
「リリ、おはよう。ああ、挨拶に来てくれた! お前はなんて可愛いのかしら。天使みたいね。ペペのお乳は足りてる? そう。おなかいっぱい飲んだのね」
ララがいるときは遠慮して眺めているだけにしているが、ララがいないときはずっと話しかけている。もちろん心の中でも同じことを語りかけていて、リリはオリビアによく懐いた。
生まれたばかりのリリの心は朧気で、ほわほわとした曖昧な感情が伝わってくるだけだが、それがまた可愛い。
『ネムイ』『オナカ イッパイ』『オナカ スイタ』というぼんやりした意識だけ。もちろん言葉ではない。
今まではヤギ小屋にあまり近寄らなかったダルが、最近はオリビアがヤギ小屋に向かおうとすると必ず一緒にくる。
黒くて長い尻尾をピンと立て、ダルの足取りが軽い。ピートはお産の前はオリビア以外の人間がペペに近寄るのを嫌がっていたが、今はお産の前ほどは殺気立ってはいない。だが、ダルのことは文句を言う。
『ネコ またきた』
「ごめんね、ピート。少しだけダルもお邪魔させてね」
ピートはダルを歓迎していないが、ダルのほうはワクワクしている。ダルの嬉しい気持ちが次々と流れ込んでくる。
『ミルク オイシイ』『ミルク ウレシイ』『ミルク イッパイ オイシイ』
ダルはヤギミルクのおこぼれがお目当てだ。パンパンに張り詰めたペペの乳房にリリが吸い付いて飲み始めると、もう片方の乳房からぽたぽたとお乳が滴る。たまに白い線となってお乳がほとばしる。ダルはゆっくり、そーっとペペに近寄り、落ちてくるヤギミルクを舐める。
一度ダルを鬱陶しがったぺぺに蹴られて以来、近寄るときは、オリビアが思わず笑ってしまうほど慎重だ。
「後で絞って飲ませてあげるのに」
『イマ 飲む』
土間を舐めるのは感心しないので、オリビアはダルのために皿を持ってきている。土間に置かれた皿に落ちてくるミルクを、ダルが目を細めて舐める。頭や顔にお乳が滴っても気にしない。
『ミルク うまっ』
最初の頃はリリが飲むのに不慣れで、片方のお乳だけで飲み終わることが多かった。だが生まれて一週間もするとリリが飲み慣れてきて、片方の乳房はすぐにシワシワになる。するとリリが反対側の乳房に移動する。ダルがサーリサーリと音を立てて未練がましく皿を舐めていると、その横っ腹にリリが頭突きを食らわせる。
『小さい ヤギ イジワル』
「意地悪じゃないの。これはリリのミルクだからね。ダルはもうおしまいよ」
『もっと ホシイ!』
「おなか緩くなるから、これで終わりね」
リリが満腹してペペから離れたら、乳房の中に残っているヤギミルクを残さず絞る。ビリーに「乳房の中にお乳を残しておくと炎症を起こしやすい。それと、毎回乳房の中を空にしてやるとお乳の量が増えるんだ」と教わった。
ペペの乳房を濡らした布できれいに拭き、深鍋を下に置いて乳を搾る。何度かビリーの家で練習させてもらっているから、オリビアの手際はいい。
大きめのマグカップで四、五杯分ほど絞り終えると、ペペの二つの乳房は空っぽの袋のようにシワシワになった。
「さあ、行くわよダル。スノーやロブにも味見させてあげようね」
『ボクも! ボクも ミルク!』
ダルと暮らすようになって、オリビアは猫の印象が変わった。
今まで、『猫は気高く気まぐれで、それほど人間に愛想を振りまかない生き物』だと思っていた。スノーはそれに近いタイプだが、ダルは違う。まるで犬のようにくっついて歩き、おしゃべりをし、こちらの言うことにも従う。今も幸せそうにオリビアの膝の上で丸くなっている。
スノーはヤギミルクを飲み終え、満足そうに顔を洗っていて、ロブは『もっと ホシイ』とつぶやきながらベッドで寝ている。
「オリビアさん、ヤギミルク、美味しいですねえ」
「そうね、たくさん余ったらチーズを作ってみたいけど、ペペだけだと無理ね」
「私はミルクのままでも幸せです」
そういうララの表情が本当に幸せそうだ。搾りたてのヤギミルクを味見してから、濃く淹れたお茶に温めたヤギミルクを注ぎ、「これも美味しい」とうっとりした表情で独り言を言っている。ララはもうすぐ薬師試験だ。
「ララ、勉強のほうは順調?」
「どうですかねえ。やれるだけはやってますけど、勉強すればするほど自分の知識の浅さに気づきます。終わりが見えないです」
「ああ、それ、祖母も言っていたわ。『薬師の勉強に終わりはない。死ぬまで勉強だよ』って。ララはもうそこに気がついているんだもの、きっと大丈夫! お店の手伝いはいいから、試験までは勉強に専念してね」
「ありがとうございます。でも、いい気分転換ですから、手伝わせてください」
その日のスープは干し野菜に新鮮なエシャロットの葉の部分、それとベーコン。最後にヤギミルクを注いで仕上げた。
「今日も美味しいよ、オリビア。これはヤギミルクかい?」
「はい。子ヤギのミルクをおすそ分けしてもらいました」
「ヤギミルクは栄養があるからありがたいよ」
暖炉の火は冬に比べて小さくしてある。太陽が顔を出している時間が長くなった。春はいつの間にかここに来ている。
夜、眠る前に髪をブラッシングしながら、壁に飾ってある絵を眺めた。祖父の手作りの額縁に収められているのは、子供時代のオリビアだ。
五歳、七歳、九歳、十一歳。すこし間が開いて十七歳、そこからの絵はない。
「レジーさんは元気かしら」
レジーは画家として売れることを夢見ている人だった。絵だけでは食べて行けず、支援してくれるお金持ちもつかず、働きながら街角で絵を売り、大きな都市を移動していた。
「一か所に腰を据えたほうがいいんじゃないのかい?」
祖父のジェンキンズがそう尋ねると「二年暮らしてだめだったら、無理だと判断して場所を変えている」という答えだった。ここの離れにしばらく滞在しては、オリビアが動物と一緒にいる場面を好んで描いてくれた。
絵を眺めながら、オリビアがアーサーに話しかけた。
「リリが小さいうちに描いてもらえたらよかったんだけど」
「うん? その絵はジェンキンズさんが描いたんじゃないのか」
「放浪の画家さんで、レジーさんていう人。最初にここに来たときは十五歳だったから、今は三十五歳かな。ラファエルさんと少し違うのは、旅が目的じゃなくて、目的のために旅をしているところ。ここに来なくなったのは、絵が売れるようになったのかも」
「そうだったのか」
レジーは寡黙な人で、心が全く伝わってこない人だった。
子供の頃は心の声が全く聞こえないレジーが不思議だったが、自分が成長するにつれて、精神が安定している人は心が漏れにくいと知り、レジーはとりわけ心が安定しているのだと思った。
三月の下旬になり、リリはピートとペペにくっついて裏庭に出るようになった。見るもの全てに興味があるらしく、匂いを嗅いだり舐めてみたりしている。ピョンピョンと跳ねるように走り回る姿も愛らしい。
「はぁぁ、可愛い」
昼休憩のときに裏庭でそうつぶやいたオリビアに、声がかけられた。
「久しぶりだね、オリビア。ヤギを飼ったんだね」
「レジーさん! 最近思い出していたところです! お久しぶりです!」
「僕を思い出してくれたのは、きっと、僕が近づいていたからだよ」
レジーは大男だ。アーサーも大男なのだが、レジーは縦も横も大きい。赤い髪と赤いヒゲ。髭の中に顔があるような印象だ。目が優しそうに垂れていて、いつも微笑んでいるような人。
「レジーさん、おなかは空いてない? ベーコンと干し野菜のスープがあるわ」
レジーが眩しそうな顔になった。
「マーガレットと同じことを言うんだね。マーガレットとジェンキンズは? 元気かい?」
「二人とも、五年前に旅立ちました。ほぼ同じころに。仲良しの夫婦らしい最期だったわ」
「そうか……そうだったか。お墓参りに行きたいな。遠いのかい?」
「お墓は歩いて一時間ぐらいのところなの。一緒に行きましょうか」
「ぜひ。案内してくれ」





