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スープの森〜動物と会話するオリビアと元傭兵アーサーの物語〜 【書籍発売中・コミカライズ】  作者: 守雨
第三章

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73 『やっと会えた』

 バターで焼いた薄切りパンに、ブルーベリーのジャムをのせて、三人で昼食を食べている。

 ラファエルは『そのうち話をする』と言ったけれど、オリビアは催促する気になれない。

 オリビアは今まで、他人の『人に言いたくない過去の記憶』にうっかり触れてしまって苦しんだことが、一度や二度ではないからだ。


「うーん! バターの塩気とジャムの甘さ、ブルーベリーの酸味。最高の組み合わせです。私、このパンなら五枚は食べられます」

「ふふふ。ララ、満腹するまで食べるのはお勧めしないわ。腹七分目を心掛けないと」

「そうなんですよね。でも」


 ララはそこまで言ってまたパンにかぶりつく。

 オリビアとララのやり取りをニコニコ聞いていたラファエルが、スープを飲んで「ふう」と満足げにため息をついた。


「この手羽先のスープは、心にも身体にも染み渡るようです。オリビアさんの料理はどれも美味しいけれど、これはあっさりしているようで、滋味深い。骨に沿って切れ目をいれているんですね。だから身離れもいいし、骨からよく出汁が出ている」


 オリビアは意外に思う。ラファエルの言葉は多少なりとも料理をする人の言葉に聞こえた。鍋も持ち歩かないラファエルだから、料理をしない人なのだろうと思い込んでいた。


「ラファエルさんは料理をする人なんですね」

「今はもうしません。食べさせる人がいないと、張り合いがない」


 そこから先は過去をほじくり返すことになると気がついて、オリビアは黙った。

 そんなオリビアに、ラファエルが優しい眼差しを向ける。


「私は海の向こうの遠い国で生まれました。この国に渡ってきてもう三年になります。オリビアさん、ララさん。年寄りの思い出話を聞いていただけますか?」

「ラファエルさんが話したいことなら」

「私は聞きたいです。海の向こうの遠い国なんて、きっと一生行くことがありませんから」


 オリビアはやや構える気持ちで。ララは興味津々で。


「私は貴族の家に生まれました。長男なのに音楽に夢中で、よく父に叱られたものです。いろいろな楽器を演奏して、聴いてくれる人がいればどこへでも喜んで出かけて演奏していました。亡くなった妻と知り合ったのも演奏先の貴族のお屋敷です」


 初めて招かれた貴族の屋敷で、ラファエルは美しい少女に声をかけられた。会話を重ねるうちに恋仲となり、彼女の方から駆け落ちを申し込まれたそうだ。


『駆け落ちして暮らせるとは思えない。僕は音楽ぐらいしか取り柄がない』

『私が働きます。あなたと一緒に暮らしたい。このままでは嫌いな人のところに嫁がされてしまう』


「世間知らずの二十歳と十六歳は駆け落ちをしたのです。手持ちのお金はすぐになくなり、その日暮らしが始まりました。私は不慣れな力仕事に就き、妻は粗末な食べ物と慣れない暮らしをしているうちに、少しずつ弱って、三年が過ぎたころには寝込むことが増えました」


「妻は仕事も失い、更に家計は苦しくなりました。そんなある日のことです」


『ベッドから見えるあの枝に、アオカケスが毎日来るの。いいわね、鳥は自由に空を飛べて。私もアオカケスになりたい』

『アオカケスになったら、どこに飛んで行きたいんだい?』

『どこにも行きたいところはないわ。ここが私の家だもの』


「妻はいつもそう答えていたのです。若かった私は、愚かにもそれを本心だと思い込みました」


 ラファエルは若かった日の自分を思い出したらしく、悲し気な苦笑を浮かべている。


「妻は自力ではもう歩けなくなったころ、静かに泣くようになりました。そこでやっと気がついたのです。妻はアオカケスになって、実家に帰りたいと思っているのだと」


 ララは真面目な顔で聞いているが、オリビアはラファエルの話の先に希望がないことを察して、苦しい。


「歩けないほど弱ってしまっては、妻を背負ってはるか遠くの実家まで向かうわけにもいきません。何度も何度も『妻を迎えに来てやってくれ。妻が弱ってしまって連れて行けないのだ』と手紙を書きました。でも、返事はきませんでした」


 ラファエルが胸ポケットからヨシ笛を取り出した。


「今朝、森でこの笛を吹いていたら、アオカケスが近づいてきました。そして私の笛の音に合わせて鳴くのです。とても久しぶりに妻が『アオカケスになりたい』と言っていたことを思い出しました。アオカケスになった妻が会いに来てくれたようでしたよ。音楽しか取り柄のない私を選んだばかりに、妻はわずか二十二歳で亡くなったのです」


 ラファエルの妻は息を引き取る直前に『お母様、お父様』と何度もうわ言で繰り返してから旅立った。

 最後に呼んだのが夫である自分の名前ではなく両親だったことが、ラファエルの後悔を増やした。


「私が彼女の本心にもっと早く気づいてやっていたらと思いました。そうしたら彼女は実家に戻れたでしょうし、まだ生きていたかもしれません」


 慰めの言葉を探してオリビアとララが沈黙していると、ラファエルは優しい顔になった。


「年寄りの湿っぽい繰り言をお聞かせしてしまいました」

「ラファエルさん」

「なんでしょう、オリビアさん」

「私、奥様がなぜまだ帰ることができるうちに『実家に帰りたい』と言わなかったか、わかるような気がします」

「お聞かせ願えますか?」


 オリビアは一番ふさわしい言葉を慎重に選ぶため、考えながらゆっくり答えた。


「奥様はラファエルさんと離れたくなかったのではないでしょうか」

「そうですかねえ」

「奥様はご両親がどういう態度に出るか、娘だから読めていたのではありませんか? 家に帰ればもう、ラファエルさんには会わせてもらえないと。実際、奥様が重病だと書いて知らせても、迎えにもこなければ返事もよこさなかったのでしょう?」


 ラファエルが小さくうなずく。


「妻は私に遠慮して、帰りたいと言い出せなかったのだと思いますが。人生を終えるときに、私の名前ではなく、両親を呼びながら亡くなったのです。それが妻の本音なのではありませんか?」

「それ『も』本音なのです。人間の心にある本音が、ひとつだけとは限りませんもの」


 オリビアを、ラファエルが見つめている。


「それ『も』本音、ですか。それは考えませんでした」

「人間の心は複雑で、夫婦といえども全て理解できるわけじゃないような。ごめんなさい。年下なのにこんなこと言って」

「もし妻が私との駆け落ちを後悔しながら亡くなったのでなければ、私は救われますが。ああ、せっかくの休憩時間が終わってしまいますね」


 ラファエルはそう言うと茶器を三人分片付けて、再び庭で薪割りを始めた。

 思いがけない出来事は、そのあとに起きた。


 夕方の開店時間になり、客がぽつりぽつりとやって来た頃。

 ラファエルが庭でヨシ笛を吹き始めた。

 まだコンサーティーナの演奏には早い時間で、食事をしていた客たちは「おや、あの人はヨシ笛も吹けるんだね」「ヨシ笛も風情があっていい」と会話をやめて庭から聞こえてくる笛の音を楽しんでいる。

 外は薄暗い。外で澄んだ野鳥の声がして、青い鳥が飛んできた。


(アオカケス? ここまで来たの?)とオリビアはお茶を配りながら、庭に面した窓に近づいた。


 薪割り用の切り株に腰を下ろして、ラファエルがヨシ笛を吹いている。それに鳴き返すようにしてアオカケスが馬小屋の屋根の上で鳴いている。


(よほどヨシ笛の音色が気に入ったのね)


 オリビアがそう思ったすぐあと、オリビアの心の中に『ラファエル』と語り掛ける声が聞こえてきた。

 ドキッとして、思わずアオカケスを二度見する。アオカケスは馬小屋の屋根から庭のイチイの木に飛び移り、ラファエルを見つめながら笛の音に合わせるように鳴いている。


(まさか。聞き間違いよね?)


 アオカケスはラファエルの脇に立てて置いてあるおのの柄の上に飛び降りた。野鳥が人間の手が届く距離まで近寄ることなど、まずない。

 オリビアが(まさか、まさか)と思いながら見ていると、ラファエルが笛を吹きながらアオカケスを見た。アオカケスもラファエルを見上げている。


『愛しいラファエル』


 今度ははっきりと聞こえて、オリビアは手に持っていたティーポットを落とさぬよう、強く握りしめる。それは動物の感情の断片ではなく、はっきりと人間の言葉の声だった。


「オリビア、どうかしたのかい?」

「ジョシュアさん、なんでもないわ。きれいな鳥だなと思って見ていたんです」

「アオカケスだな。こんなに暗くなってるのに珍しい。それに、ずいぶん人に慣れてる」

「そうですね。笛の音が気に入ったのかもしれませんね」


 そんな会話をしている間にも、アオカケスの心の声が聞こえてくる。


『やっと会えた』『会いたかったわ、ラファエル』『すっかり歳をとったのね』


 オリビアは思わず泣いてしまいそうで、そっと店の奥の台所へと場所を変えた。

 かまどの前に立ち、あふれる涙をそっと拭う。幸いララは客席で話し込んでいるから、涙を見られることはなかった。

 アオカケスはずっと、ラファエルに話しかけるように鳴いている。


 その日もラファエルのコンサーティーナは好評で、お店は賑やかだった。アオカケスはいつの間にか姿を消していた。


 夜、ベッドにアーサーと二人で入っているときに、オリビアはアオカケスのことをアーサーに全て話した。黙って聞いていたアーサーが眉を寄せて考え込んでいる。


「待ってくれ。話を整理しないと。ラファエルさんの奥さんが亡くなったのはどのくらい前?」

「話を聞いた感じではおそらく三十年くらいは前だと思う」

「アオカケスって、どのくらい生きるんだい?」

「長生きをしたとしても五、六年くらいかしら」

「じゃあ、ラファエルさんの奥さんは、アオカケスになる前はなんだったんだろう?」

「それはわからないけれど、三十年も生きるアオカケスがいないのは確かだわ」


 アーサーは天井を見ていたが、右側にいるオリビアの方に身体ごと向き直った。


「もしかしたら奥さんは、いろいろな場所でいろいろな動物に生まれ変わりながら、ラファエルさんに会える日を待っていたのだろうか」

「やっと会えたって言っていたから、そうかも。こんなことは初めてで、私にもよくわからない。でも、奥さんは他の動物に生まれ変わっても、ラファエルさんに会いたかったんだと思う。両親ではなくてね」

「そうか」


 そう言ってアーサーはまた上を向いた。そして天井を見たまま、話しかけてきた。


「オリビア」

「なあに?」

「もし、君に心残りがあって生まれ変わることがあったとしても、動物じゃなくて人間に生まれてきてくれ」

「ん?」

「いつだったか君は、『動物に生まれてくればよかった』と言っていただろう? 今の話を聞いて、心配になった。君が鹿や狼に生まれ変わってしまったら、俺は君だと気づけない。俺には動物の声が聞こえないからね。だから、ちゃんと人間に生まれて来てくれ」


 アーサーの言葉をきいてから少し考え込んでいたオリビアが、そっとアーサーの頬を撫でる。


「他の動物に生まれ変わるほどの心残りなんて、ない。私は今が十分幸せだもの。だから私は動物には生まれ変わらない。おばあさんになるまであなたの妻を全うして、神の庭であなたを待つわ」

「そうだな。それがいい。……いや、やっぱりだめだ。神の庭で待っているのは、俺の方がいい。君は後から来るといい」

「そうね。そうだったわね。さあ、もう寝ましょう、遅い時間だわ。あのアオカケス、明日も来てくれるかしら」

「来るといいな」


 仲の良いツガイの二人は、しみじみした心持ちで眠りについた。

 オリビアは眠りに落ちる直前まで、アオカケスが『やっと会えた』と言った時の、強い喜びの感情を忘れられなかった。


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書籍『スープの森1・2巻』
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