71 ラファエルとコンサーティーナ
『スープの森』の前の街道は、王都と他の都市を結ぶ国の動脈だ。
次の街までかなりの距離があるから、ここを通る人はほぼ全員が馬か馬車を使っている。
今までこの街道を歩いてこの店に来た人は、近所の人を除けば何人もいない。そのうちの一人がアーサーだ。
だからその老人が店の前を王都がある北に向かって歩いているのを見たとき、オリビアは強い違和感を持った。
「この時間にここを歩いているって、あの人、昨夜はどこで過ごしたのかしら」
老人はごくゆっくり歩いている。あのペースでは一番近い南の集落からでもまる一日以上かかっただろう。
「真冬の夜の街道を、ずっと歩いてきたんじゃないわよね?」
頭の中ではっきりした答えが出る前に、ドアを開けて老人に声をかけた。
「おはようございます!」
老人は驚いたふうもなくオリビアに顔を向ける。足が止まり、片手を帽子にかけて軽く会釈をする。背中に大きなリュックを背負い、杖を突いていた。
「おはようございます、お嬢さん」
「遠くから歩いてきたんですか?」
「ええ、ずっと遠いところから」
「よかったらうちで休んでいきませんか。熱いお茶はいかがです?」
「ありがたいですが、手持ちが乏しいもので。お気持ちだけいただきますよ」
そう言って老人はまたゆっくり歩き始める。
(食堂の人間が客引きをしたと思われたんだわ)とオリビアは慌てた。
「違います。私に旅のお話をしてくれませんか。お礼に熱いお茶をお出しします」
「ああ、そんなことでいいのでしたら。ありがとうございます」
老人は日焼けした顔をほころばせて、ゆっくり店に向かって来た。朝日はまだ低い位置にある。外套を着ずに外に出たオリビアは、ブルッと震えてしまう。
「さあ、どうぞ、暖炉に一番近い席へ」
「ああ、お店の中はずいぶん暖かい。お招きいただき、ありがとうございます。失礼いたします」
「喉は渇いていませんか? 先にお水を飲みますか? それともお茶がいいですか?」
「では、お茶をお願いします」
そう答えて帽子をとり、荷物を床に置いてから席につく。白髪は後ろでひとつに束ねて革ひもで縛っている。目は薄い水色。日焼けした肌には深いシワが刻まれていた。
オリビアは店の暖炉の手前に置いてあるヤカンをテーブルまで運び、老人の目の前でお茶を淹れた。
「これはまた、いい香りのお茶ですね」
「青い柑橘の皮を混ぜてあるんです。おなかは空いていませんか? 簡単なものでよければお出しします。もちろん、それもお代はいただきません。旅のお話を聞かせていただく代わりです」
「では、ご迷惑でなければ少しいただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。お茶を飲んでお待ちくださいね」
大鍋のスープを小鍋に移して温める。今朝のスープは昨夜店で出したスープの残り。イノシシのバラ肉と玉ねぎ、ニンニク、干し野菜あれこれ。味付けは香草と塩。パン二枚をこんがり焼いた。
それらをテーブルに並べ、自分にもパンを一枚とお茶を用意する。
「美味しそうです」
「私も一緒に座っていいですか?」
「嬉しいですねえ。誰かと向かい合って食事をするのは久しぶりです」
老人はラファエルと名乗り、海の向こうの国から来たのだと自己紹介した。
「この国までは商船に乗せてもらいました。船底の荷物の脇で寝泊まりして、毎晩演奏をして食事を貰っていたんです。船長さんが私のコンサーティーナを気に入ってくれましてね」
「コンサーティーナ、ですか。私、見たことがありません」
「ご迷惑でなければ、あとで演奏させてください」
「ぜひ。聞かせてください」
ダルとロブがやってきて、ラファエルの匂いをクンクンと嗅いでいる。スノーはベッドから眺めているだけだ。
「ずいぶん愛想のいい犬と猫だ」
「この子たちはお客さんに慣れていますから」
ラファエルはゆっくり味わいながらオリビアの作った料理を楽しんでいる。とても上品な所作だ。ラファエルと話をしていたオリビアは、(貧しい身なりをしているけれど、もしかしたらいい家の生まれ育ちの人なのかもしれない)と思う。
ララが裏口から入って来て、ラファエルを見てぺこりと頭を下げ、自分の分の朝食を温め始めた。そこへアーサーも二階から下りてきて、笑顔でラファエルに挨拶だけして顔を洗いに行く。
「なるほど。お嬢さんかと思ったら奥さんでしたか」
「ええ。夫のアーサーと同居人のララです」
「私を見てもあの方々が驚かないところを見ると、奥さんが困っている人をこうやってもてなすのは、初めてではないのですね」
「そんなに頻繁ではないんですけどね」
一切音を立てずに上品に食事を終えると、ラファエルが新しく淹れてもらったお茶を飲み、深々と頭を下げる。
「食い詰めた身なりの私を温かくもてなしてくださり、ありがとうございます。大変美味しかったです」
「お口に合ったようでよかったです」
「では、どんなお話をいたしましょう」
「ラファエルさんは昨夜、夜通し歩いていたのでしょうか」
「はい。冬の夜に外で眠れば死にますので。夜はずっと歩き続け、太陽が出たら日当たりのいい場所で寝るようにしています」
「では、そろそろ眠くなるころですね?」
「そうですね。ですが、ご馳走していただいた分のお話をさせてください」
「お話はあとでゆっくり聞かせてくださいな。コンサーティーナという楽器を見せていただけませんか?」
ラファエルはにっこり笑うと、リュックから木箱を取り出した。
見ていると、リュックの中身の大部分はその木箱だ。他にはわずかな着替えと錫のコップ、木の皿しか入っていない。
ぴったりと蓋をされた木箱から取り出されたコンサーティーナは六角形の板の間に蛇腹。六角形の板には革のベルトが鋲で留めてある。
ラファエルは立ち上がり、革のベルトに両手を差し込んで、蛇腹部分を動かしながら演奏を始めた。
初めて見る楽器。初めて聴く曲。けれどその曲の調べは哀調を帯びていてオリビアの胸を打つ。
台所で食事の用意をしていたララも、顔を洗ったアーサーも、静かに隣の席に腰を下ろして聴き入っている。
一曲演奏し終えて、ラファエルが深々とお辞儀をする。三人は心から拍手をした。
「素晴らしい曲でした。これはラファエルさんが作った曲ですか?」
「ええ。私が生まれ育った故郷を懐かしく思い出して作りました。美しい国でした」
それしか故郷のことを語らないラファエルを見て、オリビアは自分がなぜこの人をこんなに気になるかわかった。ラファエルの心には望郷の思いがひたひたと満ちている。
(この人は故郷に帰りたがっている)
胸を締め付けるようなラファエルの感情を、うっかり読み取ってしまった。どうしてやることもできないのにと、油断した自分を後悔する。
「もしよかったら、二階で眠りませんか? 空き部屋があります」
「いえ、私は汚れていますから、外の馬小屋の隅を貸していただけますか? 藁の中で眠るのもなかなか気持ちがいいものです」
「わかりました。ではお湯を沸かしましょう。湯を使って体をきれいにして、我が家にある服に着替えてから二階を使ってください」
ラファエルは(奥さんがこう言ってますが?)というようにアーサーを見る。
「俺も同じようにオリビアに助けられたのですよ。遠慮は無用です。どれ、俺がお湯を沸かしましょう」
「じゃあ私は着替えを持ってくるわ」
「オリビアさん、アーサーさんの朝食は私が用意します」
三人が同時に立ち上がって動く。驚いた顔で三人を見ていたラファエルがやがてゆっくり笑顔になり、足元に座っているダルに話しかける。
「お前さんのご主人たちは、ずいぶん人がいいんだな」
「ナァン」『いい人間!』
「そうかそうか、お前も助けてもらったのかな?」
「ナン!」『そうだよ』
ラファエルはダルの頭を撫でる。
「ここはもしや神の庭ではあるまいね。凍った道を歩きながら、神の庭まで歩いてしまったのだろうか」
「ナァオゥ」『ボク わかんない』
台所にいるオリビアは、ラファエルとダルが会話しているように聞こえて、思わず笑ってしまう。
たっぷりのお湯が沸かされ、着替えを渡され、清潔なベッドを用意されて、ラファエルは二階で眠ることになった。
多種類の薬草の香りがする部屋でベッドに入り、ラファエルは目を閉じる。すぐにぐっすりと眠り、数時間後に目が覚めた。
ベッドから抜け出して一階に下りると、店は混雑している。
「ラファエルさん、もう起きたんですか?」
「久しぶりにぐっすり眠りました。ありがとうございます」
店の客がオリビアとラファエルに声をかけてきた。
「オリビア、素晴らしい演奏をするお客さんて言っていたのはその人かい?」
「ええ、ジョシュアさん。胸を打つ素晴らしい曲を聴かせていただいたんです」
「俺も聴いてみたいな。一曲演奏してもらえるかね?」
「ええ、喜んで」
すると店にいた十数人の客たちが皆、期待のこもった視線を向けてくる。
「では一曲演奏させてください」
「急なことで、大丈夫ですか?」
「ええ、コンサーティーナと両腕があれば、どこでも演奏できるのがこの楽器のいいところなんです。それでは皆様、私の故郷の景色を思い描いて作った曲をお聴きください」
食事を途中で止めてこちらを向く者、食べながら聴いている者と客たちの反応は様々だったが、途中から全員がラファエルのほうを見て聴き惚れた。
強く弱く激しく穏やかに曲の調べは続く。
聴いている者の何人かは感動して目を潤ませている。
演奏が終わり、ラファエルが頭を下げると、拍手が沸き起こった。ジョシュアが席を立ってラファエルの前のテーブルに硬貨を一枚置いた。
「俺は音楽なんて聴いたこともない田舎の農民だけど、あんたの演奏が素晴らしいことはわかった。ありがとうな。ああ、女房にも聴かせてやりたかったよ」
「俺は娘に聴かせたかった」
「もう一度聴きたいものだな」
ラファエルは何も言わずニコニコしている。
客たちが懐から革袋を取り出し、一枚二枚と硬貨を置いていく。オリビアもそっと一枚硬貨を置いた。
やがてお昼の時間が終わり、客たちが帰った店の中で、オリビアとラファエルがりんごのお茶を飲んでいる。
「こんなに楽しい演奏は久しぶりです。オリビアさん、ありがとうございました」
「いいえ、私のほうこそ素晴らしい演奏を聴かせていただきありがとうございました。それで、ラファエルさん、もう少し我が家にとどまって、この近所の人たちに演奏を聴かせてはくれませんか?」
「私はあてのない旅をしていますから構いませんが……。申し訳ないような」
「きっとラファエルさんの演奏を目当てにお客さんが入ります。お互い都合がいいではありませんか」
ラファエルは水色の目を細くして笑う。
「オリビアさんに、女神シーナのご加護がありますように。私の故郷ではこういうとき、そう言うのです」
こうしてしばらくの間、ラファエルは『スープの森』の二階に居候することになった。





