7 さくらんぼのお茶と雨
結局、アーサーはオリビアに雨予報の根拠を尋ねるのはやめた。
アーサーが傭兵と知ると興味津々で戦場の様子を聞きたがる人々のことを思い出したからだ。
「戦場にはかっこいいことなんて何ひとつありませんよ」と答えて、どれだけの人間をがっかりさせてきたことか。人にあれこれ聞かれるのが苦痛だったのだから、オリビアにも興味本位で質問すべきではないと思った。
傭兵の中には戦闘が大好きで自分の武勇伝を語りたがる者もいるが、人の命を奪い続けることに心が耐えられなくなる者もいる。そういう人間はある日突然姿を消していくのが常だ。
二十八歳のアーサーはいつの間にか傭兵として名の知られた存在になっていたし、支払われる契約金も高額になっていた。なのにある日、ベッドで目が覚めた時に(もうこれ以上は無理だ)と思った。
それは突然、心の糸が切れたような感覚だった。
(もう戦えない。もう人を殺せない)
それが心から消えることがない感情だとすぐにわかった。
その日のうちに傭兵の組合に離脱届を出し、驚かれ、組合長に強く引き止められた。黙って組合長の言葉を聞いていたアーサーが「組合長、俺、もう無理なんです」と静かに微笑んだら、引き止めていた組合長がピタリと動きを止めた。
「ああ、そのようだな。残念だ。アーサー、今までお疲れさん。身体に気をつけて暮らせよ」
と言って組合長は出口まで見送ってくれた。
そこから二十日以上、ひたすら歩き続けている途中で『スープの森』とオリビアに出会った。
「俺、薬草店で働くことになったんですよ。マーローのフレディ薬草店て知ってますか?」
「もちろん。私、薬草の勉強をしているんです。フレディ薬草店には、この辺りで採れない薬草を買いに行きます。あのお店の店員さんになったんですね。おめでとうございます」
「ありがとう。明日は早速採取の仕事があるから、またこの店に来られます」
「何を採取するのかしら。種類によっては私が案内できますよ。あっ、でも私に合わせたらアーサーさんがものすごく早起きしなきゃならないから、無理ですね」
「いや、」
急いで否定して、その後の言葉に詰まる。
「ん? 朝早くても大丈夫なんですか?」
「俺、早起きなんで」
「じゃあ一緒に行きましょう。薬草採取に誰かと行くのは、祖母がまだ元気に歩けた時が最後ですから八年ぶりかしら。楽しみだわ」
「何時に来ればいいのかな」
「七時じゃ早すぎますよね? 八時?」
「いや、七時で」
「はい。では七時にお待ちしています。さあ、食後のお茶をどうぞ」
出されたお茶はなぜか甘くいい香りがするが、砂糖を入れたわけではなさそうだった。
「これ、甘い香りがしますね」
「はい。干したさくらんぼを茶葉に混ぜてあるんです。山で実ってるけど、食べるには小さすぎてちょっとっていうさくらんぼ。あれを集めて干すんですよ」
アーサーは静かなショックを受ける。
自分が戦場で人の命を奪い続けている間に、森でさくらんぼを集めてお茶にする暮らしがあったんだ、と。アーサーは思わず「ふっ」と笑ってしまった。
「え?」
「いや、笑ったりして悪かった。世の中には俺の知らないことがいっぱいあるんだなと、今気がついたんです」
オリビアの心にアーサーの心が前触れなく流れ込んで来た。それは優しく、温かく、穏やかな気持ちだった。
(今の会話のどのあたりがそんな気持ちにさせたんだろう)とアーサーの気持ちの変化がわからないまま、オリビアも微笑んだ。
「俺、ガキの時分に食い詰めて傭兵になったから。そんな穏やかな暮らしがあることを全く知らなかったんですよ。そうかぁ、さくらんぼを集めてお茶にするんですか。来年は俺もさくらんぼを集めてみよう」
「根気がいる作業ですけど、美味しいお茶が待ってますよ」
「ああ、いいですね。実にいい」
心からそう思っていることがオリビアに伝わって来る。アーサーは今、オリビアまで嬉しくなるような、ほっこりした気分らしい。
その時、ヤギ小屋から騒ぎが聞こえてきた。
「メエエッ!」という叫びとバタンバタンという音。同時にとても強い怒りが伝わってきて、オリビアはアーサーに断る余裕もなく、走って店を飛び出した。アーサーもそれに続いて走る。寝ていたロブが飛び起きてアーサーを追い抜いて行く。
バン!とドアを開けてオリビアが小屋に入ると、二匹のヤギが殺気立っていた。ヤギたちは頭を低く下げて戦闘のポーズ。何事かと見ると一匹の大きな蛇がヤギたちに向かって鎌首を持ち上げていた。ヤギたちが何度か踏みつけようとしたのだろう。
アーサーが腰から大型のナイフを取り出したのを見て、オリビアが叫んだ。
「待って。出て行かせるから!」
そして静かに蛇に向かって話しかけた。
「ここにお前の食べる物はないよ。森にお帰り。ここにいるとお前を攻撃しなきゃならないの。帰りなさい。さあ、ここにはもう入って来ないで。わかるわね? 帰りなさい」
赤茶色の大きな蛇は、オリビアの目を見ながら頭を左右にユラユラと動かしている。アーサーには蛇が真剣にオリビアの言葉を聞いているように見えた。
蛇は突然上半身をパタリと倒すと、そのままスルスルと進んでドアから出て行った。オリビアはその後ろを付いて歩き、蛇が森に入って行くのを見届けてから小屋に戻った。ロブは背中の毛を逆立ててオリビアにぴったり寄り添っている。
「よしよし、怖かったね。教えてくれてありがとう。もう大丈夫よ」
「メエェェェ!」
「メッ! メエェェェ!」
「そうかそうか。偉かったね」
ヤギに話しかけ、首と背中を撫で、オリビアはアーサーを促して小屋を出た。二人で何もしゃべらずに店に戻ると、客が待っていた。客はオリビアの後ろにいるアーサーをチラリと見た。
「お待たせしましたアランさん。お好きな席にどうぞ」
「どうしたオリビア。何かあったのかい?」
「ヤギ小屋に蛇が入り込んでいたの。大騒ぎになっていて」
「ここは森が近いからな。迷い込んだんだろう」
「そうみたいです。アランさん、今日は豚ほほ肉の辛いスープですよ」
「おっ。俺の好物じゃないか。大盛りで頼むよ」
「はい。少々お待ちください」
オリビアの予言通りに雨が降ってきた。
「あっ。雨だよ。オリビア、この雨は長く降るのかね?」
「いいえ。すぐ止むと思いますよ」
「じゃあ、ゆっくり食べるとするか」
「ええ、そうしてください」
アーサーは(またしてもオリビアの不思議を見てしまった)と思いながら、壁際の本棚から本を一冊抜き出した。タイトルは「薬草学入門」。
雨が屋根から地面に落ちるポタンポタンという優しい音が聞こえてくる。
(ああ、なんて穏やかな音だろう)
アーサーは本を読み、さくらんぼのお茶を楽しんだ。(雨がやんでからゆっくり帰ろう)と思いながら飲むお茶は、とても優しい味がした。





