62 ダルの籠城
スノーは御者席のアーサーの腿の間に陣取って眠っている。
「スノー、寒いだろう? 馬車の中でゆっくり眠った方がいいんじゃないか?」
「にゃあん」『ほっといて』
「風が冷たいだろう?」
「にゃん」『いい ここ いる』
『猫 生意気 私の アーサー』
アーサーの甘々の語りかけに応えるスノーはマイペースだ。
ほのぼのしたやり取りを聞いていると、オリビアは思わず顔が緩んでしまう。そこに混じるアニーの心の声がなかなかに不穏だ。
馬のアニーはアーサーが大好きだから、アーサーの愛情を一身に浴びているスノーが気に入らないらしい。
「アーサーは人間にも動物にも人気があること」
猫と馬の声を聞いていると、馬車旅も飽きることがない。
合間合間にララの馬グレタが『どうでもいい』と我関せずなことを言うのも、聞いていて面白い。マーレイ領はもうすぐだ。
「ただいま、ララ。お世話になりました」
「おかえりなさ……アーサーさん、その猫はどうしたんですか? きれいな猫!」
「ただいま、ララ。この猫は王都で飼われていたんだが、飼い主が逮捕されてしまったんだ。で、うちの猫になった。スノーという名前だ」
「た、逮捕……」
「詳しい事情はあとで話すわ。まずはヤギたちにスノーを紹介してこなきゃ」
オリビアがスノーを抱こうとしたが、スノーは『イヤ』とアーサーのシャツに爪を立ててしがみつく。
黒犬ロブは『猫 おっきい 猫 ヨロシク! ヨロシク! ボク ロブ!』と大歓迎している。スノーは淡々としていて、ロブを嫌がることもなく、愛想を振りまくこともない。
「ピートのとこには俺が連れて行くよ」
「スノーはすっかりアーサーの猫になったみたいね」
「俺は猫に怖がられ続けてきたのにね。スノーは珍しい猫だよ」
「きっと賢いのね。あなたが優しいことを見抜いているのよ」
アーサーがにこにこしている。オリビアは(よっぽど嬉しいのね)と笑いを堪えながら一緒にヤギ小屋にむかう。
ピートとペペは、ダルのおかげでだいぶ猫に慣れたらしく、
「メッ」『また猫 きた』
「メッ」『また猫』
と言っただけであまり関心がない様子。
「オリビア。ダルが出てこないな」
「私たちが帰ってきたことは、二階の窓から見てたわよ」
「なにか言ってたかい?」
「それが……」
ダルの大騒ぎを思い出して、オリビアは苦笑してしまった。ダルは馬車の音を聞きつけて、日向ぼっこしていた二階の窓で『来た! 帰って来た!』とワクワクしていた。
だがアーサーがスノーを抱いて家に向かって来るのを見たとたんに
『わっ! 猫! おっきい! イヤー 猫 イヤー!』
と叫んで大慌てでどこかに隠れてしまった。そのときダルの心に浮かんだのは、行商人の馬車に置き去りにされ、一匹で街道を歩いているときのことだった。
町猫だったらしいダルは、荒れ地を歩いている間は獲物を捕まえることもできずに常に腹を空かせていた。集落や町に着くと、町の中をうろついて食べ物を探していたようだ。
だがどこの集落や町にも、そこに住んでいる猫の縄張りがある。ダルは行く先行く先でボス猫に追いかけられ、噛みつかれそうになった。
「アーサー、ダルは私が探してくるわ。スノーに水を飲ませて。それから洗わなきゃ」
「ああ、わかったよ」
「オリビアさん、私もスノーを洗うの手伝いたいです!」
「うん、お願い」
オリビアは二階に上がってダルを探す。
「ダールー。どこにいるのぉ? 怖くないから出ておいでぇ」
『イヤ 猫 コワイ おっきい猫 コワイ』
「怖くないわ。スノーはねえ、可愛がってくれる人がいなくて気の毒だったの。きっとダルと仲良くなれるわよ」
『仲良く いらない 猫 コワイ』
「見つけた。こんなところにいたのね」
『イヤ! イヤ! ここから 出ない』
ダルはベッドの下の隅にいた。体を縮めて目を金色に光らせている。いつもはクールなダルなのに、放浪中に追いかけ回され、噛みつかれ、ボス猫の縄張りから追い払われたことが余程恐ろしい記憶として心に刻まれているらしい。
ときどきダルの心からそのときの恐怖が流れ出ていたので、オリビアはおおよそのことは理解していたつもりだったが、ダルの猫に対する恐怖はかなりのものだった。
「わかった。じゃあ、ダルがスノーに会いたくなるまで、ここで暮らしたらいい。この部屋にずっといるの? スノーよりダルのほうがこの家のこと、詳しいでしょう? 教えてあげればいいのに」
『イヤ』
「わかった。じゃあ、夕飯はここで食べる?」
『ウン』
「気が変わったら、スノーにも挨拶してね」
『イヤ』
小さくため息をついて寝室を出た。アーサーはスノーを抱いたまま暖炉の前で座っていた。
スノーは洗われて濡れた毛皮をせっせと舐めている。洗ってもらったスノーは、その名の通り白さを取り戻していた。
「ダルは嫌なんだって」
「ん? どうした? ダルはスノーに挨拶しないの?」
「ダルは猫が怖いんだって。きっとそのうち出てくると思うけど、今は寝室のベッドの下にいるわ。ごはんも寝室で食べるんだって」
「そうか」
「まだ子猫だったダルは、行く先々でボス猫に追いかけ回されたのよ。それがよほど堪えたみたい。猫も人間も、心に傷を負うのは同じね」
「いいのか? そのままにしておくの?」
「大丈夫。そのうち出てくるわ。ダルは賢いし、強い猫だもの」
ダルはその日から二階の寝室で一日を過ごし、用を足すときだけ大急ぎで階段を駆け下りて外に出て行く。しばらく森で過ごし、また大急ぎで階段を駆けあがり、真っ直ぐにベッドの下を目指してもぐり込む。
だがそのうち、階段の上のほうから下をのぞくようになり、次第に階段の真ん中まで下りてくるようになった。
スノーはダルを気にすることもなく、前々から暮らしていたかのようにのびのびと行動している。庭を探検し、森の端っこをのぞき、また暖炉の前に寝転ぶ。
今日も庭を歩き、クンクンと匂いを嗅いでいるスノー。付き添って庭にいるオリビアが二階を見上げると、たそがれた様子でダルがスノーを見下ろしている。
「そろそろかなあ」
「どうした、オリビア」
「ダルの籠城も、そろそろ終わるかなぁと思って」
「なんだかダルが可哀想だな」
「そうでもないわよ。きっと少しずつ自分で慣れていくはずよ」
スノーもチラリと二階を見上げるが、素知らぬ顔だ。
スノーは「お店にお客さんが来たら、ベッドに入ってね」と注意したら一度で覚えた。
店にお客さんが来るとスッと台所の隅にあるロブのベッドに入って丸くなる。そんなスノーを階段の上からダルが見ている。
「オリビア、ダルが寝室から出てきたぞ」
「ほんとね。知らん顔してあげて。ここで名前を呼んだりすると、またベッドの下に行ってしまいそう。ダルはプライドが高そうだもの」
「猫も人間と同じでいろいろなんだな」
「そうね。猫は個性が豊かみたいね」
ダルは階段の上から階下を見下ろす時間が少しずつ長くなっているが、下まで来る勇気はないらしい。スノーが来て四日がたち、一週間が過ぎた。そして十日目のこと。
店のお客が帰り、オリビアたちの夕食も終わって、ララはヤギ小屋の上に戻った。
オリビアは台所で、乾燥させた薬草を刻んでいる。アーサーは店の隙間風が入ってくる場所を探しては粘土を詰めて隙間を塞いでいた。
「冬は木が乾燥するから隙間ができるな」
「アーサー、見て」
オリビアが目で「あっち」と示す方を見ると、ダルが尻尾をブラシのように膨らませ、背中を弓なりにして階段を下り、スノーに抗議している。
『ベッド ボクの!』
『うん?』
『そこ ボクのベッド だっ!』
『おいで』
『ボクのベッド!』
『おいで』
『噛まない?』
『噛まない』
『いじめない?』
『いじめない』
『ホント?』
『ほんと』
ダルはスノーに対して斜めに構え、進んでは戻り、また近寄っては戻るを繰り返している。ロブのベッドで寝ていたスノーは落ち着いた様子でダルを見ている。長い尻尾をゆっくり動かしながら、ダルを待っているらしい。
やがてダルはスノーの鼻に自分の鼻をチョンとくっつけ、グリグリとスノーに頭をこすりつけた。
『おいで』
ダルがスノーの懐におずおずと入り込むと、スノーは目を細めてダルの頭を舐める。ダルは目を閉じて幸せそうな顔になった。
二匹がゴロゴロと喉を鳴らしている。それを見ているオリビアとアーサーは拍手をしたい気持ちだが、寛いでいる猫たちを驚かせたくなくて、二人でそっと両手を合わせるだけにした。
「よかったわ」
「よかったな」
『ボクのベッド ない』
「うん? あっ、そうか。ロブのベッド、満員になっちゃったわねえ」
「ロブ、俺が明日、ロブのベッドを作ってやるぞ。今夜だけは我慢してくれるか?」
「キューン」『ボクのベッド ない』
「ロブ、毛布を持ってきてあげるから。今夜だけは暖炉の前で寝てね」
『わかった』
翌日、大工仕事が好きなアーサーが、今までと同じサイズのロブのベッドを作り、オリビアが毛布を敷く。やれやれとロブが新しいベッドに丸くなると、すぐにダルが、続いてスノーが入って来る。結局ロブが手足を縮こめて寝ることになってしまう。
「失敗したな。ひと回り大きいベッドを作るべきだった」
「そのようね。悪いけど、もう一度お願いしてもいい?」
「もちろんだ」
「あなたが優しい夫でよかった」
「こんなことぐらいで大げさだよ。小さな箱を作るくらい、お安いご用だ」
『ツガイ 仲良し』
ダルの声が聞こえて、オリビアが振り向くと、ダルがスノーにぴったりくっついたまま、顔だけこちらに向けてオリビアとアーサーを見ていた。
スノー
たそがれるダル





