58 キツネの道案内
夜中にカリカリと何かを引っかく音。ロブがキューンと鳴く声。それに気づいて目が覚めたのはアーサーだ。
「オリビア、起きてくれ、オリビア」
「んん? なあに?」
「下で音がする。俺が見てくるから、君はドアに鍵をかけてここにいてくれ。騒がしくなったら、ドアの前にベッドを動かして塞げ。絶対に出てくるな」
「わかった。気をつけて」
アーサーは腰に巻き付けたホルダーに大型の短剣を収め、更に長剣を持った。
オリビアはアーサーが音を立てずに廊下に出るのを待って、鍵をかける。ベッドの中はぬくぬくと温かかったが、部屋の空気は冷えている。緊張しているのもあり、震えが止まらない。
心の声を聞き取る力を解き放つ。何も聞こえない。
耳を澄ませて待っていても、階下から大きな音は聞こえてこない。やがて、カランとドアベルの音が聞こえてきた。
(ドアを開けたってことは、賊じゃないってことよね?)
鍵を開けて階下に行くべきかやめておくべきか。迷っていたらアーサーが戻ってきた。ノックされてから鍵を開けると、ちょっと困ったような顔のアーサーが寝室に入ってきた。
「君にお客さんだ」
「私?」
「キツネが来ている」
階下に下りようとするオリビアに、アーサーが後ろから毛糸のショールをかけてくれた。
「ありがとう」
「雪がかなり積もってる」
階段を急いで下り、ドアを開けると、オリビアの膝くらいの高さまで積もった雪の中に、キツネがいた。顔見知りのキツネだ。
「どうしたの?」
『人間 死ぬ 赤ちゃん』
「すぐに行くから! 待ってて」
階段を駆け上がり、服を着込みながらアーサーに事情を話す。
「俺も行くよ」
「助かります。出かけるってコリンに伝えてもらえる? それと、ララの馬を借りることも」
「わかった」
急いで重ね着をするオリビア。アーサーはとっくに着替えを済ませ、コリンに事情を説明してくれている。
「さあ、行きましょう」
「コリン、あとは頼んだ」
「出かけるって、こんな時間にどこに行くんですか?」
「詳しい事情は後で説明する」
コリンはなにがなんだかわからないまま、一緒に店まで下りた。ランプを持ったオリビアとアーサーが馬にまたがって深い雪の中へと出て行き、コリンはその姿を呆然と見送った。黒い犬は一緒に行こうとしたが、だめと言われてしょんぼりと見送っている。
コリンはドアに鍵をかけながら、寒くてブルブル震えた。二階に引き返す途中でフッと笑い、自分が見た小さな姿のことは夢だと思った。
「僕、まだ寝ぼけてるんだな。二人がキツネの道案内で雪の中を出て行くなんて。うう、寒いっ。雪ですごく空気が冷えてる」
急いでベッドに戻り、丸まって眠ろうとするが、冷えてしまった身体が眠らせてくれない。何度も寝返りを打っていたが、途中で眠ることを諦めて一階に下りた。
台所に立ち、少し考えてからかまどに火を入れた。
「台所を暖めておこう。帰ってきたら熱いお茶を飲んでもらえばいいよね。足を温めるお湯も必要かな。しもやけになったら大変だ」
初めて来た家の台所を無断で使うのは気が引けるが、『これは非常事態だ』と判断して大鍋いっぱいにお湯を沸かすことにした。
かまどの火に薪を足していると、ガチャガチャと音がして裏口のドアが開き、足元を雪まみれにしたララが入ってきた。
「明かりがついているから急いで来てみれば……。コリン、なにをやっているの?」
「さっき、アーサーさんとオリビアさんがどこかに出かけたんだ」
「……そう。なにかあったのね。それならお店の暖炉も火をいれたほうがいいかも」
足についた雪を払い、ララは起き抜けだというのにキビキビと動く。しっかり者の恋人に、コリンが話しかけた。
「あの二人がなにをしに行ったのか、わかるかい?」
「さあ? わからないわ。もしかしたら緊急の病人が出たのかも。あ、やっぱり。薬を入れてある肩掛けバッグがない。病人が出て呼ばれたのよ」
ララは手早く店の暖炉に火を燃え上がらせ、そこにも大きな鍋をかけた。
「こんな雪だもの、お湯はたくさん沸かしておいて間違いはないわ。それと、すぐにおなかに入れられるものも用意しておいたほうがいいかしらね。コリン、私、なにか食べ物を用意するわ。あなたは眠っていいわよ。夜が明けるまでまだだいぶ時間があるもの」
「非常事態なんだろう? 僕だけのんびり眠るわけには行かないよ。手伝えることを言ってくれ」
「そう? ありがとう。じゃあ、コリンは私にお茶を淹れてくれる? 蜂蜜とミルクを入れてね。私は簡単な玉ねぎスープを作るわ」
玉ねぎの皮をむき、細く切ってバターで炒めるララ。そんなララを眩しそうに見ていたコリンが小鍋にお湯を沸かしてお茶を淹れる。お茶を手渡してから話しかけた。
「あのさ、僕、さっき寝ぼけてたんだ。キツネが二人を案内しているように見えたんだよ。ありえないよね。ふふふ」
「ふうん。キツネが迎えに来たの」
「あれ? 君、本気で言ってる? そんなことあるわけないよ」
ララは炒めていた玉ねぎから目を離してコリンを振り向いた。口は微笑み、目はいたずらっ子みたいにキラキラしている。
「もしかしたら、そんなことがあるかもしれないわよ? そんな気がするわ。私も見てみたかったわ。キツネの道案内。さて、私たちは二人が帰ってきたら身体を温められるように準備しておきましょう。コリン、おなかは? 空いてない?」
「ああ、こんな時間なのに、少しおなかが空いてるかも」
「パンにラズベリージャムとバターを塗ったの、食べる?」
「ああ、食べたいな。いいのかい?」
「もちろんよ。あなたに最初に食べさせるのがジャムを塗ったパンていうのが、ちょっと残念だけど、ま、いいか」
コリンは『最初に食べさせるのが』という言葉に心が浮き立つ。最初があるなら次もあるということだ。それはいつかな、と思う。
「ララと一緒に食べるなら、なんでも美味しいに決まってるよ!」
「ありがとう」
室内はかまどと暖炉の火のおかげで暖かい。
一方こちらはキツネの案内で進んでいるアーサーとオリビア。
二頭の馬は歩きにくそうだが、それでも徒歩よりはよほど速い。オリビアが馬の上からキツネに話しかけている。
「もう死んでしまったの?」
『すぐ 死ぬ 赤ちゃん 泣く』
「まだまだ遠いの?」
『近い』
キツネの記憶を探ると、馬車の中から赤ん坊の声がしている。赤ん坊だけということはないから、大人もいるのだろう。脱輪でもしたのかと気が急くが、こちらも道を踏み外して馬が怪我でもしたら大変だ。
今はもう、全てが平坦な雪野原で、どこまでが街道でどこからが荒れ地なのか、わからなくなっている。だがキツネとアーサーにはわかるらしい。
キツネはヒョイヒョイと跳ねるように雪の中を進み、途中から沢の方へと街道を外れた。一見すると平坦だが、わずかに傾斜があり、途中から急な傾斜になっている。陽が沈んでからだと、地元以外の人にはわからないかもしれない。
そして、ついに馬車を見つけた。
急斜面で馬車が横転している。馬はどうにか立っているが、馬車に繋がれているから自由になれず、オリビアたちを見て悲鳴のような声で鳴いた。
『助けて! 助けて! 動けない!』
「今、助けるわ」
二人同時に馬から飛び下り、雪の中を馬車に駆け寄った。御者の姿が見当たらない。アーサーが無言で素早く馬車の側面によじ登ってドアを開けた。オリビアはその間に馬の手綱を外して動けるようにした。
「御者も中だ。手伝ってくれるか」
「はい!」
オリビアが覗くと馬車の中には、赤ん坊を抱いた女性に覆いかぶさるようにして御者が眠っている。意識を失っているのかもしれない。二人がかりでまずは御者を引っ張り出した。御者は目を開けて「奥様とお嬢様が」と小声で訴える。
アーサーは横転している馬車から先に赤ん坊を抱いてオリビアに手渡し、それから女性を背負ってよじ登って出てきた。
御者と女性の頬を叩き、手足をさすりながら声をかけると、どうにか意識を取り戻したが、二人とも酷く眠そうだ。赤ん坊は細い声で泣いたが、すぐに眠り始めてしまう。
自分たちの様子を、キツネがジッと見ているのにオリビアが気づいた。
「知らせてくれてありがとう。これはお礼よ」
オリビアはそう言って、ゆでただけの鶏肉を肩掛けカバンから取り出し、キツネに放った。キツネは器用に空中でパクッと口で受け止め、そのまま姿を消した。
「アーサー、急いで帰りましょう」
「ああ、急いだほうがよさそうだ。赤ん坊は俺が懐に入れて運ぶよ。大人二人は馬の体温でどうにか耐えてもらおう」
馬車を引いていた馬たちに御者と女性を一人ずつ乗せ、オリビアが女性と、アーサーが御者と二人乗りになった。相手の背中と自分の胸を密着させ、オリビアは女性の身体をさすりながら、馬を進めた。アニーとララの馬は後ろからついてくる。
途中から女性はガタガタと震え出した。身体が熱を生み出そうとしているのだ。歯がぶつかるカチカチという音も聞こえてくる。オリビアは女性の耳元で話しかけた。
「私の家に着くまで、絶対に眠らないで。赤ちゃんは夫が懐で温めていますから、安心して」
女性はガタガタと震えながらうなずいた。
アーサーの懐から、元気な泣き声が聞こえてくる。アーサーがなにかを赤ん坊に話しかけ、女性は震えながら「生きてる。よかった」とつぶやいた。





