55 張り合うアニーと優しいヤギたち
「オリビアさん、本当にありがとう。伝書鳩は侍女が飛ばしてくれたのですが、鳩が王都の屋敷にたどり着いたところで、その屋敷はもう別の貴族のものになっているんです。だから手紙を読んでも助けに来てくれるわけがないと思って諦めていました」
「あの鳩はどうやら途中で鷹か鷲に襲われたらしいです。怪我をして落ちているのをうちの猫が捕まえて来ました。鳩は私の家で安全に療養していますので、治ったらお返ししますね」
「まあ。そんなことが。鳩には気の毒でしたが奇跡のようなお話ですわ。ね? お義母様」
息子の妻に話しかけられた伯爵夫人は、さっきからしきりにハンカチを目に当てている。そして伯爵夫人もオリビアに頭を下げた。
「伝書鳩を助けてくれたあなたがルイーズ様の知り合いだったなんて。神様がお力をお貸しくださったのね」
「リネット様がルイーズ様のご学友だったときのお話を、私は何度もうかがっています。なのですぐにルイーズ様にお知らせしました。ルイーズ様はお孫さんのメイベル様がご結婚なさってミストラル家の女伯爵となられるまで、後見人を引き受けるとおっしゃってました」
「ええ、お手紙にもそのように記されています。本当にありがたいことです」
その後は伯爵がいつからお酒を手離せなくなったのか、どのくらいお酒を飲んでいたのか、話を聞いて記録し、ルイーズの屋敷に当主を連れて行くことになった。ルイーズが伯爵夫人リネット宛に書いた手紙には『当主のことは王都の治療施設に入れる』と書いてあった。
「私たちはお暇いたします。皆様お疲れでしょう。どうぞお体を労わってくださいませ」
「ありがとう、オリビアさん。母も私も娘も今日のことは、一生忘れません」
「スープがとても美味しかったです! 今までで一番美味しいスープでした」
「ありがとう。ルイーズ様にくれぐれもよろしくお伝えください。私からもお礼の手紙を書きます」
三人それぞれの感謝の言葉に笑顔で応え、オリビアとアーサーは屋敷を出た。正気を失っている当主は縛ったまま馬車で運ぶことになった。衛兵が馬車に同乗し、オリビアはアーサーと二人乗りで帰ることになった。
オリビアは(アニーは二人乗りでの移動はつらくないかしら)と心配だが、アニーから伝わって来る心は明るく楽し気なので余計なことは言わないようにした。
アニーにまたがり、さあ出発というときに白猫が走って来た。
「猫ちゃん、よかったわね。案内してくれて助けてくれてありがとう」
「ナーオーゥ」
白猫はこちらを見て大きくひと声だけ鳴いた。
一瞬オリビアの顔が引きつったのを見て、出発してからアーサーが話しかける。
「あの猫、君になんて言ったんだい?」
「『目を潰したい』って言ってた。戸棚からあの人が飛び出してから、ずっとそう叫んでいたのよ」
「よほど酷い乱暴でもされたんだろうか。それとも家族が酷い目にあったのを見て怒ってたのかな。猫は自分に危害を加えた人間を絶対に忘れないと聞いたことがあるよ」
「それは犬も鹿も狼もヤギもそうだと思うわ」
「人間もそうかもしれないな」
「ええ。でもね、アーサー」
「うん?」
「人間は心と身体の痛みを受け入れて糧にできる、と私は思ってる」
「そうだな。そうでありたい」
「アーサーの心の中にも自分の心にも、かさぶたになった傷があるけれど、私は傷の痛みに縛られずに生きていきたい」
「傷は今はもう痛くない、痛かったという記憶だな」
「そうね、痛かったという記憶にすぎないのよね」
オリビアはアーサーのおなかに回した腕にギュッと力を入れ、顔を背中にくっつけた。アーサーはオリビアの腕をポンポンと優しく叩いて応える。
馬車に乗せられた当主は錯乱していて薬湯を飲むどころではなく、縛られたままもがいていた。宿も取らずに移動し続け、マーレイの街に到着した。
ルイーズの屋敷にミストラル家当主を運び込むと、すぐさま専門家たちがやって来て老人を連れ去った。
「本当にありがとう、オリビア。『当主が錯乱して家族を牢に閉じ込めていた』なんてことが表沙汰になったら、爵位の格下げか、最悪は身分の剥奪にもなりかねなかったわ。とりあえずリネットの孫娘がしっかりした人と結婚するまで、あの人には静かな場所で生きていてもらうことにしましょう」
「お役に立ててなによりでした。フレディさんのお店のこと、アーサーに聞きました。お気遣いいただいてありがとうございます」
「あの程度のこと、当然です。私はマーガレットには言葉では言い尽くせないほど世話になった上に、こうしてオリビアにも助けてもらっているのですもの」
互いにお礼を言い合って、オリビアは『スープの森』に戻った。馬車が庭に着くと同時にララが店の外に走り出して来た。黒犬のロブと猫のダルも走って来る。
「おかえりなさい、オリビアさん。お店はちゃんと営業しましたよ。二日続けて同じ豆のスープでしたけど、二日続けてお店に来た人はいなかったから、問題なしです!」
「助かったわ。ありがとう、ララ」
『待ってた! 待ってた!』とロブが跳ねてはしゃいでいる。
『ツガイ 来た』とダルが無表情に見上げている。
「さあ、今夜からまた働くわよ」
「じゃあ、俺はフレディさんに挨拶をしてくるよ。アニーはゆっくり休め。ララ、グレタを借りるよ」
「はいどうぞ!」
『疲れ ない! 行く!』
アニーがまた抗議している。チラチラと馬小屋を見ている先にはララの馬グレタ。アニーはどうやらグレタに対抗心をもっているらしい。アーサーはそれに気づいたが、考えは変えなかった。
「アニー、俺はお前が大切なんだ。お前に無理をさせて怪我でもしたら大変だろう? 明日からまたお前に乗るから。安心しろ」
そこで声を小さくしてアニーの耳にささやいた。
「俺が一番大切なのはアニーだよ」
急にアニーが大人しくなる。ブルルルと鼻を鳴らし、長い首をアーサーにこすりつけた。
「わかってくれてありがとうな、アニー。じゃ、いい子にして待っててくれよ」
「アーサーって、馬には大変な女たらしね」
「私もそう思いました! なんかこう、聞いていてゾワゾワしました!」
「私も」
「やめてくれ。俺は愛馬を大切にしているだけだろう?」
オリビアとララは顔を見合わせて「だって、ねえ?」「はい」と笑いながらアーサーを見送った。
その後、『スープの森』にルイーズを経由してミストラル家当主から手紙がきた。当主を施設に閉じ込めたきっかけのオリビアは、罵詈雑言が並んでいるのではないかと恐る恐る手紙を開く。
そこには予想に反して深い後悔の文章が綴られていた。
『息子を自分のような武人に育て上げたいと焦るあまり、虚弱な息子を死なせてしまった。息子が自ら命を絶ったのは自分の責任だ。まさかあんなことになるとは思わなかった。できることなら息子が幼い頃に戻って人生をやりなおしたい』
要約するとそういう内容だった。
ルイーズからは、跡継ぎは病死と聞いていた。死の真相をサラリと書いてきた当主の用心のなさに驚いてしまう。手紙など、どこで誰の目にふれるかわからないものだ。この手紙の内容が外に漏れたらミストラル家は無事ではすまなかっただろうに、と残された三人の女性たちを思う。そのあたりの判断がもうできなくなっているのかもしれない、と暗澹とした気持ちになった。
名のある武人は強くあることが自分を支える心の柱だったろう。だが、息子は息子なのだ。父親とは別の人間だ。
人生に希望を失って命を絶った人を思うと胸が痛い。
きっとその人は逃げ場がなかったのだ。妻や娘、母を置いて逃げることなどできなかったか。
その人は苦痛な毎日をどんな思いで生きていたのか。想像するといたたまれない。
同時に、息子に死なれて初めて自分の間違いに気づいた老人は、残りの人生をどんな気持ちで生きていくのか。そちらも痛ましく思う。
やり場のない悲しい気持ちでヤギ小屋に行き、裏庭にヤギを出した。
『草 うまっ!』『うまっ! うまっ!』
ご機嫌で草を食べているピートとぺぺを眺めながら、会ったこともないミストラル家の嫡男を思う。
「もう少し、もう少しだけ生きることに執着していたら、道は開けたかもしれないのに……」
オリビアの悲しい心があふれて伝わったらしい。ピートとペペは草を食べるのをやめて、オリビアに近寄り、軽く優しく頭をぶつけてくる。
『痛い?』『痛い?』
「大丈夫よ。ありがとう、ピート、ペペ。あなたたちはいつも優しいわね」
オリビアは二匹のヤギの背中を撫で続けた。





