48 熊を恐れる
「オリビア、なにをしてるの?」
「スプレーマムが咲き終わったから、ありがとうねってお礼言いながら肥料を与えてるの」
「それ、スプレーマムっていうんだ?」
「ええ。可愛いわよね。私、これのフリッターが好きだったのに、今年は食べ損ねちゃった」
「え? 食べられるの?」
「食べられるわよ。毒がなければ植物は基本なんでも食べられると思うけど」
ナイフの手入れをしていたアーサーが手を止めてオリビアを見る。オリビアが子供を諭すような口調でもう一度繰り返した。
「毒がなければ食べられます」
「俺は何も言ってないが」
「ほんとかよって顔をしていたから。スプレーマムは、お花も葉っぱも衣をつけて揚げて、お塩で食べると美味しいです」
アーサーは(それは衣と油が美味しいのでは?)と思うが、黙っている。そしてナイフの手入れを再開した。大きな意見の食い違いがなければ黙って聞く。基本、無口な男なのだ。
そんなアーサーを見ながらオリビアは(そうね、久しぶりに揚げ物を作ろうかな)と考えた。
その日アーサーが出勤した後で、オリビアはロブを連れて川に向かった。川魚は衣をつけて揚げたら美味しい食材の代表だ。庭で捕まえたミミズもたっぷりある。足取りが楽し気なロブと川に到着し、釣り糸を投げる。
浮きを眺めていると、カワセミが向こう岸の枝から川に飛び込み、小魚を咥えて枝に止まって飲み込んだ。金属的な光を放つ青い背中は、とても目立つ。カワセミを見た日は得した気分になるのはなぜだろう、とオリビアは口角を上げながら考える。
マスを三匹釣ったところで、『小さな心配』の気配に気がついた。
それは獣がなにかに気を揉んでいる感情だった。
『たいへん』『逃げよう』『あぶない』
どこからだろう、なにが危ないのだろうと、オリビアはそっと辺りを見回した。視野を広く保ち、目の焦点は敢えて合わせず、ぼんやりと周囲の景色を眺める。動くものがあればわかるようにゆっくりと目を動かす。
(あ、いた)
川の向こう岸に茶色の獣。目の焦点を合わせると、カワウソだった。
カワウソは川上を何度も振り返りながら斜面を登っていく。川上からなにが来るのだろうか。
(熊だったら危ないわね。今頃は冬眠に備えて猛烈に食べる時期だもの。今日はもう帰りましょう)
急いで釣り竿を分解し、祖父の手作りの筒にしまう。
少し迷ってから小声で「ロブ! 帰るわよ」と呼びかけ、戻ってきたロブと少し歩いたところで振り返り、その姿を見つけた。人間よりずっと大きな茶色の塊。熊だ。
相手は風上。
まだオリビアは気づかれていない。
(風向きが変わる前に逃げなければ)
オリビアはロブに向かって「吠えないで」と命じる。
ロブは既に熊に気づいていた。背中の毛を逆立てている。
川原の石を踏んで音を立てないよう、そっとそっと熊から離れるように移動する。走って追いかけられたら敵わないと散々祖父母に言われている。息を殺すようにして移動し続け、もういいだろうというところまで来てから「はぁぁ」と息を吐いた。
「ロブ、いい子だったわね」
「ワン!」
「お利口だったから、家に帰ったらご褒美をあげようね」
「ワン!」
そこから先は早足で家に向かい、ロブには豚肉の赤身をゆでたのを与えた。
オリビアは熊と出会ったことはアーサーには言わないつもりだ。心配をかけるだけだし、冬まで川に行かなければ済む。
だから、マスを揚げながら(今日の熊は大きかったな)とうっかり思い浮かべたのは、本当に油断していたせいだ。
テーブルに熱々のフリッターの皿を並べ、いつもなら大喜びするアーサーが黙って食べているときも(あら? 美味しくない? 揚げ物の気分じゃなかったのかな)と思うくらいで、お客さんから聞いた話をした。
「この辺りは流行り風邪の被害が少なくてよかったわ。でもね、来年からはニガイモを少しずつ集めておいて、いつでも使えるように粉にして保存しておこうと思うの」
「そう」
「アーサー? どうかした? 具合でも悪い?」
「食べ終わってから話す」
「……うん」
それからは二人とも黙ったまま夕食を終え、二人でお皿を洗い、食器棚にしまった。
「オリビア、座って」
「はい」
何事かと思いながらアーサーの向かいに座ると、アーサーは深呼吸をしてから話し始めた。
「オリビア、熊と鉢合わせしたこと、なんでなにも言ってくれないの?」
「あっ……」
「冬眠前の腹を空かせた熊がいるから川には行かないようにって、俺言ったはずだよね?」
「鉢合わせじゃないの、離れた場所にいるのに気がついて、見つかる前に逃げてきたわ」
「はぁぁぁ」とため息をついてアーサーは険しい顔でオリビアを見る。
「たまたま君が先に気づいたから無事だったけど、熊のほうが先に気づくこともあるかもしれないよね?」
「ええ……そうね」
「襲われたらどうするの? 熊がどれほど速く走るか、君、知ってる? 俺が全力で走ったってすぐに追いつかれる速さだよ?」
「ええ」
「木に登ったって熊も登ってくるよ?」
「ごめんなさい、アーサー。もう一人では行かないようにするわ」
「前もそう言った!」
「……はい」
「俺はね、俺は……もう家族の墓穴なんか掘りたくないんだよ!」
バン!とテーブルを叩くアーサーは怒りのやり場がない様子。ロブが驚いて「キューキュー」と鼻を鳴らし尻尾を小刻みに横に振りながら、アーサーを上目遣いで見る。
『ごめんなさい、怒らせましたか?』とロブが謝っているのが切なくて、オリビアはロブに「大丈夫よ。あなたを怒っているんじゃないわ」と話しかけて頭を撫でた。
そのまま立ち上がり、アーサーの隣に立つ。
そっとアーサーの肩に腕を回し、自分の頭をアーサーの頭にくっつけた。
アーサーから濁流のようにいろいろな感情が流れ込んでくる。悲しみや不安、寂しさもあるが、ほとんどは怒りだ。
「ごめんなさい。子供の頃から季節を問わずに釣りをしていたものだから。うっかりしたわ。もう同じことはしないから。本当にごめんなさい」
「マスのフリッターは美味しかったよ」
「うん」
「怒りながら食べたから、味がよくわからなくてもったいないことをした」
「うん」
「次の休みは俺が付き添うから。どうしても釣りをしたかったら、俺の休みに行こう」
「うん。でも熊が冬眠するまでは我慢するわ」
「そうしてくれると助かる。テーブルを叩いて悪かった」
「うん」
しばらくそのままの格好でじっとしていると、冷静さを取り戻したアーサーがオリビアをグイイと膝に座らせ、オリビアの肩に頭を載せる。
「傭兵をしていた頃にさ、熊と鉢合わせしたことがあるんだ。ちょうど今ぐらいの季節だった。互いに見合って、俺はそのまま後退りしたかったんだけど」
「うん」
「仲間が恐怖に駆られて剣で襲いかかったんだ」
「まあ……」
「熊は斬り付けられて、興奮して反撃してきてさ。そこからはもう、戦争のようだったよ。結果、傭兵が三人も殺された」
「……」
「戦うのが仕事の傭兵がだよ」
「うん」
「熊はあの太い腕とゴツい爪で引き裂くんだ。首をやられたら出血多量で死ぬ。腹をやられれば腹が裂けて苦しみながら死ぬ。俺はそれ以来、熊が本当に恐ろしい。君は獣の感情がわかるけど、彼らを制御できるわけじゃないんだよね?」
「ええ」
「あまり俺を心配させないでよ。俺の寿命が縮む」
「それは困ります。ごめんなさい」
「俺は君と二人で長生きしたいんだ」
「うん」
「よし、この話はもう終わりだ。さくらんぼのお茶が飲みたいから、俺が淹れるよ」
「私の分も」
「おう。任せてくれ」
二人の雰囲気が和らいだのを見届けて、ロブはゆっくり自分用のベッドに戻って行った。
アーサーの淹れたお茶を飲みながら、オリビアは(こんなに叱られたのはいつ以来かな)と考える。
覚えている限り、養子になってからは一度もない。オリビアは聞き分けのいい子供だったし、祖父母はほとんど興奮することがない人たちだった。
穏やかな祖父母たちの愛情は本当にありがたかった。だが、心配のあまりに我を忘れて怒ってくれるアーサーの愛情もまた、ありがたいと思う。
オリビアを失いたくなくて取り乱したアーサー。
彼に申し訳なくて、ありがたくて、オリビアは叱られて感謝するという経験を初めてした。
翌日、食事に来たルイーズにその話をしたところ、ルイーズは慈しむような表情でオリビアを見た。
「幸せね。心から相手を案じて怒ってくれる人に、一生のうちに何人出会えることか」
「ええ」
「そう言えば、王都でのあなたの活躍の話を聞きました。偉かったわね」
「いえ、ニガイモの効果に気づいてくれたのは病気の軍人さんです。私はなにも」
「いいえ、それでもニガイモを持ち込んだあなたの運の強さに感心するわ。マーガレットに聞かせてあげたかった」
「きっと見ていてくれましたよ」
「そうね。そんな気がするわね」
ルイーズは
「なにか困ったことがあったら私に相談してね」
と言って帰って行った。
(ルイーズ様は何かご存じだったのかしら)とオリビアが思ったのは、『スープの森』にその人物が訪れてからだった。





