37 二つの世界
アーサーの実家から『スープの森』に帰って、オリビアはまず鉢植えの世話をした。
出かける前にたっぷり水を与えて日陰に置いておいた数十の鉢植えは、秋だったこともあって全部枯れずに生きていた。
「ごめんね。水が欲しかったよね。さあ、たっぷりお飲み」
オリビアは声をかけながら水差しで井戸水を与えた。茶色に変色した葉を丁寧に取り除く。それをロブがゆったり尻尾を振りながらくっついて歩いて眺めている。
全部に水を与え、受け皿のある定位置に戻し終わる頃、アーサーがヤギのピートとペペを連れ帰って来た。
『家!』『自分の 家!』
「おかえり、ピート。おかえり、ペペ。ビリーさんの家でいい子にしてた?」
『意地悪 いた!』『意地悪 威張ってた』
「ああ、ビリーさんちのヤギ? ごめんね。許してあげて」
『意地悪! 許さない』『意地悪 大嫌い』
「ふふふ」
二匹のヤギは、ビリーの家のリーダーであるオスヤギが気に入らなかったようだ。
あちらはあちらで、突然群れに入って来た新入りの夫婦が気に入らなかったことだろう。ビリーが気を遣ってピートとペペを特別扱いしたのかもしれない。
「俺は荷馬車を返しに行ってくる」
「疲れているのにごめんね、アーサー。助かります。行ってらっしゃい」
『あの家 嫌い!』『あのヤギ 嫌い!』
「まあまあ、そう言わないでよ。ここにあなたたちだけを置いて行くわけにいかなかったんだから。草を食べる? いい感じに伸びているわよ」
『草!』『おいしい 草!』
二匹のヤギは裏庭に放たれると、伸びた雑草をモシャモシャと食べた。
全ての雑草が根元からきれいに食べられて、裏庭はすっかりきれいになった。
『もっと 草!』『食べたい 草!』
「わかった。柵の外に出してあげるね」
オリビアは二匹のヤギが柵の外の草を食べているのを見守った。本当はすぐに家中を拭き掃除したかったけれど、彼らは十日間もよそのオスヤギに威張られていたのだ。まずは彼らを労わってやりたかった。
すると、動物の声が聞こえた。
『ごはん 来た!』
「ん?」
心の声がする方を見ると、オオルリが木の枝にとまってオリビアを見ていた。
「いらっしゃい。今、なにか食べる物を持ってくるわね」
『ごはん! 虫!』
「虫はないの。木の実ならあるから待ってて」
急いで台所に入り、干したブルーベリー、野苺、ラズベリーを入れてある瓶を抱えて庭に出た。前庭にある餌台に乾燥した木の実をザラザラとたっぷり置く。
オオルリはオリビアが離れるのを待ちきれないように、すぐ餌台に飛び移って食べ始めた。
「たくさんお食べ。水浴び用の水も取り替えるわね」
庭の平たい岩の上にいつも置いてある大皿を井戸水できれいに洗い、たっぷり水を溜めて元の岩の上に戻した。
野鳥たちはきれいな水が好きだ。
水浴びはあちこちにある沢や水溜まりでもできるが、低い位置だとキツネやヤマネコに襲われることがある。庭の岩の上ならまず安心なので、飲むにも浴びるにも嬉しいらしい。
『草! うまっ!』『うまっ!』
柵の外からヤギたちの心の声が伝わってくる。そろそろ小屋に戻さなくては、とオリビアはヤギたちの方へ向かった。
ヤギたちは毛艶がいい。ビリーはオリビアのヤギを大切にしてくれたようだ。意地悪なオスヤギがいたのは意地悪したのではなく、よそ者から群れを守りたかったのではないだろうか。
「さあ、そろそろ小屋に戻ろうね」
『もっと 草!』『小屋 イヤ』
「そう言わないで。私はアーサーのごはんを作りたいのよ」
『アーサー! ツガイ』『アーサー ツガイ』
「うん、わかってるから」
苦笑しながらヤギたちを小屋に入れ、窓を開け放ってから台所へ。
アーサーは往復の移動の間、ずっと御者を務めてくれた。座って気を緩められたオリビアとは疲れ方が違うはず。
今家にある食材で美味しい夕食を作って労いたかった。
二階の廊下に吊るしてある干したマスの開きと玉ねぎを手に台所へ。
カチカチに干してあるマスを蒸留酒と水を半々にした液に漬け、その間に玉ねぎを刻んだ。途中で思いついて家庭菜園のニンジンを収穫した。
ニンジンは大きく成長していて、香りの強い葉っぱはピンと元気だ。
アーサーが二キロの道のりを歩いて帰る頃には、台所にはいい匂いが漂い始めていた。
「ただいま。いい匂いだ」
「家にある物で夕飯を作るわね」
「楽しみだ。オリビアの料理を食べると寿命が延びる気がするよ」
それは祖父のジェンキンズがよく言っていた言葉とそっくり同じだった。オリビアは黙ったまま微笑んだ。
鍋をかき回しながらお湯を沸かし、アーサーにお茶を淹れる。乾燥させたキャットニップの葉と茎を混ぜたミントティーだ。
アーサーが美味しそうに飲んでいる姿を見ながら心でつぶやく。
(おじいさんとおばあさんは神の庭に行ってしまったけれど、こうやって私が思い出している限り、私の近くにいてくれるような気がする。おじいさん、おばあさん、神の庭から見ているのかしら。私は今、とっても幸せに暮らしているの。だから安心してね)
鍋の中で炒め煮していた玉ねぎとニンジンに、マスを漬けていた水と蒸留酒を注ぎ、再び沸騰するのを待ちながら、柔らかくなったマスをぶつ切りにして上に載せた。
鍋に蓋をしてマスが柔らかくなるまで、ホットビスケットの準備をする。発酵させる時間はないからソーダを使って膨らませるつもりだ。
「ねえ、アーサー」
「なんだい?」
「十日間もこの家を離れるのは初めてだったけど、旅行は帰るのも楽しみね」
「そうだな」
「オオルリがね、ずっと待っていてくれたの。私のことを『ごはん』て言ってた」
「ふふっ。君の名前は『ごはん』なんだね」
「ええ。そしてピートとペペはビリーさんに大切にされていたようよ」
「そうか」
「でも、ビリーさんちのオスヤギに意地悪されたらしいわ」
「怪我はしていなかったようだが」
「ええ。きっと意地悪といっても『俺の言うことを聞け』と言われた程度だと思うわ。新入りですもの、群れの一番下扱いされるのは仕方ない」
アーサーがミントティーを飲みながら、優しく笑う。
「君が見ている世界は、きっと、とても優しいんだろうな」
オリビアは鍋から柔らかくなったマスを一度取り出し、皿の上で「あつっ」と言いながら背骨と小骨を丁寧に取り外しているところだった。だが、アーサーの言葉に動きを止めた。
「そうね。この力を持って生まれてきたばかりに苦労したと思っていたけど、そうかも。私、ずっと優しい世界を見ながら生きてきたのね」
「俺はひとつの世界しか知らないけど、君は二つの世界で生きているんだね」
「そんな風に考えたこと、なかった。確かにそうね。私は二つの世界を行ったり来たりしながら生きているんだわ」
出来上がった夕食を食べながら、オリビアはアーサーの言葉を何度も思い返した。そしてホットビスケットをちぎりながらアーサーに笑いかけた。
「私、ずっと自分だけ別の世界で生きているように思っていたけど、そうじゃなかったんだわ。二つの世界の間に立っていて、両方を行ったり来たりしているのね。ありがとう、アーサー」
「なんでお礼を言うんだ?」
「なんでも。『人間は悪いこともするけど、いいこともする』っておばあさんがよく言っていたわ。あなたと暮らしてみて、おばあさんの言葉が身に沁みる」
「そうかい? このマスと野菜の煮込み、旨いな」
「マスの骨からダシが出るのよね」
「ああ、実に旨い」
ロブはとっくに夕食を食べ終えていて、足元で寝ている。
『スープの森』では優しく穏やかな時間が流れていた。





