32 本物のツガイ
夜、いつもより遅い時間に帰って来たアーサーは、店の前庭でベンチに座っているオリビアを見てギョッとした。
店の灯りは消えていて、庭は月明りでほんのり明るい。
その庭の木製のベンチに座り、オリビアはどこを見るともなく座っていた。
「オリビア、ただいま。どうかした?」
「アーサー」
ふらりと立ち上がり、アーサーに近寄ったオリビアはためらうことなくアーサーに抱きついた。自分に抱きついたオリビアから大量の感情と記憶が押し寄せてきて、アーサーは圧倒される。最初に、オリビアによく似た女性と落ち着いた雰囲気の男性の姿が強く目立って流れ込んできた。
「この人たちは?」
「見えるの?」
「うん。ついに両親が来たのか? 顔立ちが君に似ている」
「来たわ。私のことを貴族の令嬢として社交界にお披露目して、貴族に嫁がせようとしてた。それが私のためと信じていたの」
「そんな、会っていきなり?」
「もちろん口には出さなかったけど。母の心が見えた。つまり取り繕っていない本音だわ」
「そうか」
「母は心で叫んでた。『私が産んだ子はおかしくなかった! 普通の娘だった! みんなに知ってもらわなきゃ!』って」
「……そうか」
「理解し合えないと思った。このまま関わりを持てば、母と私は互いに昔と同じ苦しみを繰り返すことになる。だから、この紙を見せたの」
ポケットから折り畳んだ紙を取り出して手渡した。アーサーはルイーズが書いた文面を読み、少し眉を寄せた。
「これって」
「私は侍女をしていた人の子供で、赤ちゃんのときからここで暮らしていたっていう意味。きっと祖母がルイーズ様に頼んだのよ」
「こんな紙を用意してたのか。君を守ってみせるという気持ちなんだろうな」
「ええ。祖父母は私のことを本当に大切に思ってくれていたの。祖父母はここまで私のことを案じてくれていたのに、母は……自分の願いだけで心がパンパンに膨れあがっていたわ」
アーサーが優しくオリビアの頭を撫でている。泣いているのかと思ったが、オリビアは泣いていなかった。
「虚しかった。私、いつの日か両親と再会したら、今度はわかり合えるかもって思うこともあったの。だから私に『普通』を押し付けようとする母の心を知って、もう少しで憎みそうになった。母に悪気はないのよ。それはわかってる。私を貴族社会に組み入れることが善き行いと信じて疑ってなかったもの。だからこそとても恐ろしかった」
「ああ、それは恐ろしかったね。可哀想に」
「母を憎みたくない。だからもう私に関わってほしくない」
「ねえ、オリビア」
「なに?」
「君の悲しみがとても強かったんだろうな。友達が心配して来てくれているよ」
オリビアはアーサーに回していた腕をほどいて振り返った。
森の端、木々の中にあのときの母狼がいた。アーサーを警戒して近寄らず、いつでも逃げられるように距離を取っているが、狼は心配していた。オリビアは狼に駆け寄った。
「心配させちゃったわね」
『痛い?』
「ええ。胸が少し痛い」
『胸 痛い』
狼はキューンと細く高く鳴いた。
「あなたが来てくれたら楽になった。来てくれてありがとう」
『群れ 仲間』
「私を仲間と思ってくれてありがとう」
『痛い?』
「もう大丈夫。もう痛くない。ここにいるとあなたのツガイが心配するわ」
『痛い ない?』
「うん。もう痛くない。大丈夫」
狼は安心したのか、ゆったりした足取りで森の奥へと帰って行った。
「よほど君を心配したんだな」
「ええ。あの狼、私を仲間と言ってくれたわ」
「そうか」
「たった二度関わっただけの狼でさえ私のことを心配してくれる。なのに……」
「オリビア、それ以上言葉にするのはやめたほうがいい。それ、吐き出しても楽になる言葉じゃないよ。君の傷が深くなるだけだ。忘れた方がいい」
「ええ、うん、そうね」
「そうだ、君に渡したい物があるんだ」
そう言ってアーサーはリュックをかき回し、小さな赤い箱を取り出した。
「これを受け取ってほしい」
「今日も何か買ってきたのね。いいのに」
そう言いつつオリビアが箱を開けると、ペンダントが収められている。
「ねえ、これってまさかエメラルドじゃないわよね?」
「エメラルドだよ。君の目の色に合わせて買ったんだ。店員には俺の目の色と同じのを贈るよう勧められたんだけど、俺の目は茶色だから。こっちのほうが綺麗だった」
「こんな高価な物、どうして?」
「俺は君とずっと一緒に暮らしたい。オリビアを誰にも取られたくない。俺は君の夫になりたいんだ。俺じゃだめか?」
オリビアがもう一度アーサーに抱きついた。
「だめじゃない。だめな訳がないわよ! 私も仲良くあなたと暮らしたい。ずーっと一緒に暮らしたい!」
「はぁ、よかった……。断られたらどうしようかと緊張したよ。それでオリビア、君は人気者だな。また君を心配して動物が来たよ」
アーサーの視線の先、ハリネズミがオリビアの近くまで来ていた。
花壇をほじくり返しながら、チラリチラリとオリビアを見上げている。
「心配して来てくれたの? あ、餌を食べに来たのね。虫でもミミズでも、おなか一杯食べていくといいわ」
「なんだ、君を心配して来たのかと思った」
「餌を食べに来たみたい。ハリネズミはあんまり細かいことは考えていないのよ」
「ふふふ。そうなのか。可愛いな。そういえば俺も腹が減った」
「そうだったわ。夕食にしましょう」
「手伝うよ」
どちらからともなく、二人で手を繋いで店に入る。オリビアの心はだいぶ落ち着いてきていて、アーサーはホッとした。
「こうして手を繋ぐのはいいものだね」
「うん。優しい気持ちになる」
「最後に家族と手を繋いだのはいつだろう。俺はもう思い出せない」
「私もよ。手を繋ぐだけなのに、どうしてこんなに安心するのかしら」
「今の俺、心が緩みまくってる。今敵に襲われたら危うい」
「アーサーったら」
アーサーは必死に顔を整えようとするのだが、残念ながら上手くできていない。
「ふふ、ほんとね。ふわふわした心がたくさん伝わってくる!」
「俺が浮かれるとこんな感じだよ。これからは毎日ふわふわの垂れ流しだ。覚悟してくれ」
「垂れ流しって。でもあなたのふわふわ、流れ込んでくると私まで楽しくなるわ」
「それにしても、なんで俺まで君の記憶や感情がわかるようになったんだろう。しかも俺の場合は君限定だ」
「それは多分」
「ん?」
「うん、まあ、それはまたいつか。さあ、食事にしましょう」
言葉を濁したのには訳がある。
ずっと昔、「動物に生まれればよかった」と悲しく思っていたころに、金色の鹿が『いつかお前にも本当のツガイが見つかるだろう』という意味のことを言ったことがあった。それを聞いたとき、オリビアは苦笑したものだ。
「ツガイなんて見つからない。こんな私だもの」
『ツガイ 本物 ツガイ 少ない』
「本物のツガイってなあに? 本物かそうでないか、どうやってわかるの?」
『会う わかる』
「ふうん」
そしてあの大雨の日、ずぶ濡れのアーサーを招き入れたときにわかったのだ。
招き入れた男は心が恐ろしいほどに傷だらけで、苦しんでいて、それでも全力で生きようとしていた。自分と同じ種類の人だと思った。
そう思った瞬間、(私が癒したい、私が寄り添って力になりたい)と一瞬で心が染まってしまった。初めて会ってどんな人間かもわからないのに、そう強く願っている自分に自分で驚いた。それはひと目惚れや恋というにはあまりに強く、使命感のような感情だった。
誰にも座らせなかった祖父の椅子を勧め、食事を出し、離れに泊まらせたのは「少しでもこの人の役に立ちたい」という思いに突き動かされたからだ。
(『会えばわかる』と金色の鹿は言っていたけど、これがそうなのかも)
ずっと自信が持てなかったが、アーサーが自分の心を感じ取れると知ったときに(この人が私の本物のツガイだ)と思った。
一緒に過ごす時間が積み重なるほど、(アーサーは私の本物のツガイ)という思いはどんどん強くなっていく。だが言い出すことはできないまま、心からも漏れないように気をつけた。
(私の口からツガイなんて押し付けがましいことは言いたくない。うん、いい、言わないでおこう。私がわかっていれば、それでいい)
そう自分に言い聞かせてきた。だから今、「オリビアを誰にも取られたくない」というアーサーの言葉がしみじみ嬉しい。
二人で夕食を食べながら、オリビアはアーサーが言うところの「ふわふわの垂れ流し」を笑いを堪えて心ゆくまで楽しんだ。
オリビアの表情と心の両方から、アーサーは自分の浮かれた心が漏れ続けているのがわかる。
途中からさすがに恥ずかしくなり、顔も耳も赤くしてスープを口に運んだ。





