31 キノコと玉ねぎのスープと罪
両親が店に来ることなく、日々は流れていく。
八月も半ばになり、森にはたくさんのキノコが顔を出すようになった。
「暑い時期はあまりマスが釣れないけど、キノコがたくさん採れたわね。マスは秋になったらまたたくさん釣れるようになる! 秋が楽しみね」
「ああ。楽しみだ」
「心配したようなことは何も起きなかったわね」
「そうだな」
返事をしながら、アーサーはオリビアの横顔を見ている。薬草店に勤めているのに家賃も食費もかからない生活で、アーサーは稼いだ金の使い道がない。(これじゃまるきりヒモだろ)とアーサーは落ち着かない。
だがオリビアは「腕利きのアーサーに用心棒をしてもらっているんだから」と言ってお金を受け取らなかった。
街から帰るときにお菓子や茶葉、砂糖やバターなど、目についた物をあれこれ買って帰るようにしているが、それもオリビアは恐縮する。
(オリビアに指輪か腕輪、いや、ペンダントがいいかな。オリビアの瞳と同じ緑色の宝石の付いている物を贈ろう。そして結婚を申し込もう)
ずっと心の中でグルグル渦巻いていた願いを形にすると決めた。
一緒に暮らして、この女性を誰にも渡したくないという思いは日々大きくなっている。踏み切れないでいたのは、自分が生活の糧のために斬り殺してきたたくさんの兵隊たちの最後の姿を忘れられなかったからだ。
傭兵時代、先輩たちは、アーサーの迷いを見抜いていた。
「やらなければやられるんだ。お互い様だ。忘れろ」
と傭兵の先輩たちは慰めとも励ましともとれる言葉をかけてくれた。アーサーも(相手は敵だ)と自分に言い聞かせ、深くは考えないようにしていた。
激しい戦闘で勝てば国の兵隊たちは大喜びして盛り上がり、酒を飲んで祝う。だが、傭兵たちは一見陽気なように見えて、目の奥は暗かった。
軍の兵隊は国や家族を守るために働いていたが、自分たちは違う。顔見知りの傭兵同士で敵味方に分かれることも珍しくなかった。
自分が斬り殺した相手にも親がいて兄弟がいて、妻や生まれたばかりの赤ん坊がいたかもしれないと思うようになり、ある日、ついに耐えられなくなった。だからアーサーは自分が幸せになることにためらいがあった。
けれど『スープの森』に来て以来、人間らしい暮らしがアーサーの心の傷を少しずつ癒してくれている。
(もう前を向こう)
アーサーはその日、ポケットに小金貨を数枚入れて職場へと向かった。
その日の昼、店は常連客で賑わっていた。
キノコと玉ねぎのスープの深皿に削ったチーズを載せると、チーズはみるみる溶けていく。チーズが全部底に沈んでしまう前に玉ねぎやキノコに絡めて口に入れるのが、このスープを上手に食べるコツだ。
「オリビア、美味しいよ」
「オリビアはキノコ狩りの名人だな」
「キノコのことは全部、おばあさんに教わったから」
店の中にいい匂いが漂い、たくさん置かれた鉢植え越しに会話がやり取りされていた。
カラン、とドアベルの音がして、「いらっしゃいませ」と顔を向けたオリビアの動きが止まった。
二十年前の記憶よりも、すっかり年を取った両親がオリビアを見つめて立っていた。
白髪の多くなった髪を上品に結い上げた母が、今にも泣きそうな表情でオリビアに近づいてきた。そしてガバッとオリビアを抱きしめる。
「オリビア? オリビアよね? エミリーに聞いたときはまさかと思ったけれど、我慢できなくなって確かめに来たの。オリビア、あなた、生きていたのね」
「オリビア。私たちのことを覚えているか? ああ、あの頃の面影が残っている。オリビア……」
店の客たちがシン、と静まり返ってこちらを見ていた。
「あの、どなたかと勘違いなさってるのではありませんか? 私は確かにオリビアですが、お客様のことは存じ上げません」
「オリビア、そんな。あなたはまだ五歳だったから忘れてしまったのよ。間違いないわ、あなたは私の娘よ」
「そうだよオリビア。リリアと顔がそっくりだ」
確かに母と自分は似ていた。だが、オリビアは自分で想像していたよりもずっと冷静だった。母の心は無防備で、いろんな感情や考えがあふれ出していた。その内容はオリビアの心を冷やすのに十分だった。
オリビアがまだ少女時代にときどき想像していた両親との再会は、オリビアが自分の力を説明し、親に能力ごと受け入れてもらうことだった。
だが母は、オリビアを着飾らせて一緒に社交界に参加し、我が子の無事と『普通』を広めたがっていた。
『私が産んだ子は変わり者じゃなかった。ちゃんと普通の大人に育っていた。それを皆に知ってもらわなければ』
そしてどこかの貴族の令息と引き合わせて結婚させることを思い描いている。
母の心の中で、オリビアは着飾って嬉しそうに夜会に参加し、良家の令嬢として見知らぬ貴族たちと上手に会話をしていた。
オリビアはそっと母の腕から抜け出した。
「申し訳ございません、仕事中なんです。困ります」
「オリビア。あなたは死んでしまったのだとばかり思っていたのに、こうして会えたのは神様のおかげだわ」
「神がオリビアを守ってくれたんだよ。オリビア、父さんはお前が生きていてくれて本当に嬉しいよ。毎日神に祈っていた甲斐があった」
オリビアの心の中で何かがピシリと音を立てた。心の中の宝物にヒビが入った気がした。
(違う。私が生きてこられたのは祖父母のおかげよ)
自分と両親の思いが全く嚙み合わない。怒りは湧かず、ただただ自分と彼らの間にある溝の大きさに脱力した。
「どうぞそちらの席へ。今、お見せしたいものを持ってきますので」
固唾をのんで見守っていた客たちの視線の中、階段を駆け上がる。
(おばあさん、おじいさん、今よね? あれを出すのは、今なんでしょう?)
祖父の机の引き出しから封筒を取り出して、階段を駆け下りた。
「これをご覧ください。私は赤ん坊の時に養子になりました。赤ん坊のときに、です」
封筒の中の紙を取り出して見つめるオリビアの両親。封筒の中の書類には
『オリビア・イーグルトンは私の侍女が産んだ私生児であり、出生と同時にジェンキンズ・イーグルトンとマーガレット・イーグルトン夫婦の養子となった。これはそのことを証言するものである』
と書いてあった。
それを読んだ両親は「そんな」「これは真実ではないだろう」と小声でやり取りしている。
「お疑いでしたら、ルイーズ・アルシェ様にご確認ください。それはルイーズ様が自ら書いてくださったものです」
父と母はグッと詰まった。この国の第三王女だったルイーズが証言すると書いてあるのだ、両親が否定できないことは承知の上だ。
「あのぅ、お話の途中で申し訳ないことですが、オリビアは赤ん坊のころからここで育ちましたよ? 私は赤ん坊のときからオリビアを見ています。大きな声で泣く、元気な赤ん坊でした」
「そんなはずはないわ。この子は私の娘です。私が産んで五歳まで育てたんですもの、私にはわかりますっ!」
声をかけた常連ジョシュアに向かって母が抗議する。それを聞いたもう一人の常連、ビリーが立ち上がった。
「いえ、その人の言ってることは本当です。オリビアが赤ん坊の頃は、ジェンキンズが毎朝ヤギの乳を買いにうちに来てました。よく飲んで良く眠る健康な赤ん坊でした」
別の席からも声がかかる。今度はボブだ。
「俺はよちよち歩きのオリビアを見ています。嘘ではありませんよ」
「そんな、そんなはずはないわっ! みんなで嘘をついてるのよ!」
「もうやめなさい。リリア、今日はいったん帰ろう」
「あなたっ!」
「オリビアさん、すまなかった。私たちの勘違いだったようだ。仕事中に騒がせたね。失礼するよ」
オリビアの父が、泣いている母を抱きかかえるようにして店を出て行く。その後ろ姿を見送る彼女を常連たちが心配そうに見つめる。
「オリビア。勝手に口を出したが、ジェンキンズとマーガレットに頼まれていたことなんだ。でもまさか本当にこんな場面に出くわすとは思わなかったよ」
「頼まれて? ジョシュアさん、それはいったいどういうこと?」
「俺も頼まれていた」
「俺もだ」
「ビリーさんにボブさんまで」
困惑しているオリビアに、一番年上のジョシュアが説明してくれた。
「ジェンキンズとマーガレットは、こういう日が来ることを心配していたんだ。『もしオリビアの両親が会いに来て、オリビアが嬉しそうだったら何も言わないでいい。だが嫌がっているようだったら、あの子が無理やり連れて行かれたりしないようにしてほしい。オリビアは赤ん坊のころからここで育ったと証言してくれないか』ってな」
「ルイーズ様の証言と俺たちの証言があればもう、オリビアが無理に連れ去られることはないさ」
「ジョシュアさん、ビリーさん、ボブさん、ありがとうございます。おじいさんとおばあさんは本当に用意周到だったんですね。助かりました」
「その言葉はジェンキンズとマーガレットに言ってやってくれ」
祖父母は、自分たちがこの世からいなくなった後のことまで心配してくれていた。オリビアの心の中で、親を拒絶した痛みと祖父母への感謝の両方が渦を巻いている。
ゆっくり走る馬車の中で、オリビアの母リリアは泣いていた。泣きながら胸の内を夫にぶつけている。
「無事に生きていたんですもの、あんな野中の一軒家で暮らすより、うちで貴族として暮らす方が絶対に幸せよ。どうしてオリビアはあんな……」
「リリア。私たちは五歳のあの子を捨てた身だ」
「でもあなた、あれはお義父様が言い出したことだわ」
「それでもだよ。私たちはあの子を見捨てた。だから今、あの子に拒絶されても仕方ないんだよ」
「そんなの、認められないわっ!」
泣きじゃくる妻をなだめながら、オリビアの父は遠くを見る目になっている。
「オリビアは笑っていたな。幼いときのあの子はほとんど笑わない子だった。いつも困ったような、怯えたような顔をしている子だった。私はそれを思い出したよ。なあリリア、あの子からもう一度笑顔を奪うことは、罪だと思わないか?」





